捌
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「化物って、どんな妖怪なの!」
「そ、それは――」
「外の者は黙っとってください」
「せや、あんたらは関係おまへん」
楓と柊は短く答えると艶やかな黒髪をたなびかせながら部屋の外へと出ようとした。それを制止したのは、紙都の冷えた声。
「待って。今は外とか内とかこだわっている場合じゃないんじゃないか? 人が死んだんだろ? 力を合わせて解決を――」
柊が横目で睨みつける。
「あんたのそういうとこ、ほんま御言さんそっくりやわ。やけど、京の怪異は京極家が解決するさかい、口出しせんといてください」
「待っ――」
ピシャリっと、襖が閉ざされる。足早に廊下を走っていく音が後に続いた。その音を聞きながら、紙都は大きくため息を吐いた。
「どうしたって妖怪の力なんて借りたくないって感じだな」
「伝統を重んじると言えば聞こえはいいかもしれないけどね。頭が固いというかプライドが高いというか」
「その通りでございます」
襖の外からくぐもったような声が聞こえた。慌てて襖を開けると、一人残った白装束姿の老女が頭を下げていた。最初に案内してくれた女性だ。
「あなた、は――」
老女は嬉しそうに顔を上げた。皺の刻まれ窪んだ目が柔らかく細まる。
「その深い黒色の瞳、よく似ていらっしゃる。お帰りなさいと言うのはおかしいですが、お帰りなさいと言わせてください。鬼神紙都さん。私は、京極梓。御言様が京極家をお出になるその日まで、ずっと御言様の身の回りの世話をしていたものです」
「母さんの……」
それ以降の言葉は浮かばなかった。瞳から零れ落ちた涙に吸い寄せられたように、何も言うことができなかった。
「伝え漏れるお噂でいろんなことをお聞きしておりました。お二人が正式に夫婦となったこと。赤子に恵まれたこと。そして、いつかはこの地に訪れていただけるのではないかと、またお顔を拝見できる日が来るのではないかと。そう思って今まで――」
涙に詰まって言葉が出ないようだった。それだけで、京極家のことを深く知らない紙都でも御言の存在がどれだけこの老齢の女性にとって重要だったのかがわかる。
梓は手拭てぬぐいで涙を拭くと、衿元を正して赤くなった目で紙都を見上げた。
「失礼しました。ここではなんなので、御言様が使っていらしたお部屋へ案内いたします。そこで今、京で起こっている怪異についてお話します」
昼間にも関わらず薄暗い中にその一室はあった。窓はなく、明かりは障子を通して僅かに訪れる日の光のみ。
「ここが御言様の部屋です。御言様が出ていったあと誰も使おうとしなかったため、住まれていた当時のまま残しています」
十数年も経っていれば埃まみれになっていそうだったが、整然と机や本棚が置かれた部屋は綺麗に保たれていた。
「見て、本もキレイに整頓されてる」
沙夜子は適当に選んだ本をペラペラとめくった。
「御言様は読書がお好きでしたから。手入れを怠ったことは一度もありません」
ぎっしりと並ぶ本棚から何を読もうかと思案する御言の姿が浮かんだ。浮かべたその姿よりもずっと幼かったのだろうが。
(ん?)
「何か面白い本あった?」
「これは――」
紙都が手に取ったのは『正しい妖怪との付き合い方』などと真面目なのかジョークなのかいまいち判別しにくい本だった。ただ、人間と妖怪が片手を合わせている表紙に目がひかれる。
「その本は……そうです、確かその本だけ、あの日、本棚からはみ出ていたのです。几帳面な御言様が珍しいと思いましたが、今思えば、妖怪との関係性について、昔から他の者とは違う考え方をしていたのかもしれないですね」
本棚に本を戻すと、梓に向き直る。梓は言わずともわかっていますというように小さく頷いた。
「昔話をしている場合ではありませんね。今、京で起こっている怪異についてお話ししましょう。それは、3週間ほど前にあった京極家へのお祓いの依頼から始まります――」
その依頼を聞く限りは、何の変哲もないよくある怪異のように思えた。端的に言えば、それは夢に纏わるもので、その類の話の中でも極めて単純なものだった。
鬼女が、現れるのだそうだ。毎夜、毎夜。ぽつぽつと俯き気味に語り始めた依頼主は、二十代前半のまだ若い女性だった。一つ特徴を上げるとすれば、その依頼主はお腹に子どもを宿していた。
鬼女は、何かを探しているようにふらふらと夜の道を徘徊していた。そこは一本道で、等間隔に設置された街灯がその様子をちらちらと映していた。鬼女は目が見えていないのか、地に着くほどの髪の毛を振り乱しながら、壁にぶつかり、地面に転がりながら少しずつ進んでくる。
ところで、なぜ、何かを探しているとわかるのか。突然、依頼主は顔を上げた。
「どこ? どこ? どこ?――」
そうか細い声で繰り返しながら鬼女は進んでくる。灯りに照らされてその姿が次第に大きくハッキリと捉えられる。白装束の服も髪も顔も全てがべっとりと赤い血に染め上げられていた。返り血なのか自身から吹き出た血のか判然としないが、それは明らかにもはや正常な人間では有り得なかった。
それに気付いたときには、勝手に足が逃走体勢に入ろうとしていた。一つしかない心臓は警鐘を鳴らし、身体がカッと熱くなり発汗。
だが、金縛りにあったかのように身体が動くことはなかった。一気に血の気は失せ、体温が下がっていく。
「どこ? どこ? どこ? どこ? どこ? どこ? どこ? どこ? どこ? どこ? どこ?」
鬼女の口がにぃっと歪んだ。
「いたぁ」
ーーなぜ、鬼女なのか。その問いに依頼人は赤子を守るようにお腹を両手で擦りながら答えた。
曰く、夢の内容が変わるのだ。
「夢の内容が変わる?」
いつの間にか畳の上に座った紙都は、怪訝そうに首を傾げた。
「そう、変わったのだそうです。最初は同じ場面で夢から覚めていたそうなのですが、次第にどんどん顔が大きく近付いてくるようになった。そして、手には出刃包丁を持ち、最後にはお腹を……」
その場面を想像すると、お腹の底から恐怖感が泡たつように膨れ上がり、次いで沸々と怒りが沸いてきた。
「探し物は……赤ちゃん?」
隣に座る沙夜子は自分事のようにお腹を擦っている。整えられた眉が眉間に寄る。
「おそらくは」
「でも、でも、夢の中の話だったんでしょ?」
「そうです。夢の中の話でございました。ただ、毎夜同じ夢を見るという点、さらに夢の内容が進んでいるという点で何かしらの怪異と踏んで調査を進めておりました。実際、依頼人の女性も精神的に病んでしまい、家に籠るようになってしまっていましたから。ですが、怪異はそれだけに留まりませんでした」
話疲れたのか、梓は一旦言葉を区切った。さっきまで静まり返っていた屋敷の中は、行き交う足音や話し声で途端に慌ただしくなっていた。
「また犠牲者が!」「今度はどこや!?」
その雰囲気に呑まれるように紙都はいきり立った。
(今の会話……まさか!?)
「そうです。その夢は複数の女性が見ている。それも二人や三人ではない、もっと、少なくとも数十人は同じ夢を見ています。そして、全員がお腹に子を宿しているのです」




