陸
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京の地に赴くことは、沙夜子にとって初めてのことだった。古都と呼ばれ、どこの都市よりも歴史深いこの地は、この国の礎をつくってきたとともに妖と人間とが織り成す歴史をも刻んできた。オカルトを探求する身としては一種憧れの地でもある。南柳高校の修学旅行で訪れることを楽しみにしていたが、こんなにも早く、それもこんな事態の中で訪れるとは思ってもみなかった。
「……羅城門跡の近くにあるって言ってたけど、どこよ?」
雪の絨毯が敷き詰められた公園を見下ろしながら、沙夜子は白い息を吐いて苛立たそうに腕を組んだ。
「ナビで京極家って調べても出てこないしな、これは誰かに道聞くしか」
「誰に聞くのよ? 『すみません、妖怪退治をしている京極家の家知ってますか?』って? そんなのわかるわけないじゃない! 妖怪って歴史の裏の存在なのよ!」
紙都はスマホをコートのポケットにしまい込むと、寒そうに首を黒のスヌードの中へ埋めた。
「まあ、ひとまず聞いてみよう。古い街だから、誰か知っているかもしれない」
観光客で溢れ返る京駅を抜けて、ナビの指示にしたがいながら約三十分ほど歩いて到着したのだから、沙夜子がイライラするのも無理はなかった。憧れの京の街を散策できたのは、体が震えるくらいに嬉しかったが、体感的には南柳市のそれと違い、気温も高いとはいえ、雪が積もっているのだ。寒さが身に染み付くようだった。
雪を踏む音がして仕方なく後ろを振り返れば大きなマンション。一目で京極家のことを聞いてもダメだなと判断する。左右を見回しても古い歴史に詳しそうな目ぼしい家屋は見当たらなかった。
「今ナビを見たらこの近くに喫茶店があったんだ。もしかしたら、そこなら京極家の場所がわかるかもしれない」
そう自信なさげに呟く紙都の背中を見ながら沙夜子は羅城門跡の碑が立てられた公園を出た。かつて様々なドラマを産み、多くの人々の日常にあった都の正門が公園になっている。その奇妙な運命にほんの僅か想いを馳せて。
連なる家々の間に構えたその喫茶店は、思ったよりもこじんまりとしていた。だが、それよりも沙夜子が強く興味を引かれたのは、町屋をそのまま残したようなその外観だった。
「先に入るよ」
「あっ、うん」
声を掛けられて、その店構えに見とれていたことに気が付く。
引き戸を引いて中に入ると、コーヒーのいい香りが漂ってきた。店内はやはり大きくはなく、三席ほどしかない。だが、内装も民家をそのまま使ったような造りで、外から聞こえる車が通り過ぎていく音と中の造りに違和感すら覚えるほどだった。
「おいでやす」
柔らかく上品な言葉遣いだった。口の中に入れるとすぐにとけてしまうホワイトチョコレートのようだな、と沙夜子は思った。
てっきりお婆ちゃんくらいの年齢の人が出てくるのかと思ったが、カウンター越しに出迎えてくれたのは沙夜子とさほど年の変わらないと思われる女性だった。ただし、とても綺麗だ。
周りの空気にそれこそ融けてしまいそうなほどの白い肌だが、対照的に力強く輝く黒い瞳には無意識に目がいってしまう。
沙夜子は、チラリと紙都の横顔に視線をズラした。その目はたぶん、しっかりと店員を捉えていた。
「すみません。食べに来たわけではなくて、ある家を探していて、ここならわかるかもと。あの、京極家って知ってますか?」
「京極家……」
嫌な顔をするでもなく、店員は細長い人差し指を柔らかそうな頬に触れて視線を巡らす。
「あっ、もしかして京極さんとことちゃう?」
「えっ」
「違うかな? あやかし封じの京極さんかと思たんやけど」
「そ、それです! それ! 知ってたんですか!?」
つい大きな声が出てしまった。びっくりしたように長い睫毛を瞬かせると、紙都に向いていた視線が沙夜子に向けられた。
「そらあ、京極さんは有名さかい。京に住んでる者なら可愛らしい赤ちゃんからじいちゃんばあちゃんまで、みんな知ってんで」
そんなに有名だったの? というよりも、あやかし封じって、妖怪の存在をこの人は知っている?
「昔から、お祓いやら憑き物落としやらを生業にしてきたところやからね。今でもときどき助けてもろうた話聞くときあるで」
そういうことか。つまり、妖怪の実在を認識しているわけではなく、原因不明の何かが起きたときに利用される、そんなあり方。占いとか霊現象とかと何ら変わらない、もしかしたらそういうものがあるかもね、という程度の。
「その京極家、どこにあるんですか?」
文字通り胸を撫で下ろすと、沙夜子はカウンターに手をついて聞いた。
「京極さんなら、ここから西の方へ歩いて十分くらいのとこにあるで」
「十分? そんな近くに!?」
「そうや。ここ羅城門跡を挟んで東には元々こうぼうさんーーええっと東寺やねがあったんやけど、西の方はずっと京極さんなんや。お客さん、スマホでナビアプリとか持ってはるん?」
紙都はポケットからスマホを出すと、操作しやすいようにカウンターの上に置いた。
「ここやね。京極さんは」
人差し指が示した場所は想像していた以上に大きな建造物だった。鬼救寺の何倍の大きさだろうかと、つい、頭のなかで計算してしまう。
「こんなに大きいのに見つからなかったなんて……」
「お客さん、京は初めてやろ。だったらしゃあないわ。京極さんは観光地でもあらへんしな。大きいわりにひっそりとしてんで、ほんまに」
穏やかな笑顔にお礼を述べると、二人は店の外へ出た。カウンターの下の硝子棚に陳列されたケーキが誘惑してきたが、今はのんびり食べている余裕はない。
「ほな、おおきに。次はどうぞおあがりください」
背中に掛けられた声を引き戸が遮った。芯まで冷えた寒さが戻ってくる。紙都は足早に目的地へと歩を進めた。
「ちょっと待って!」
(焦っている? いや、緊張?)
京極家へ行ってまず何を言うか。京へ向かう夜行バスの中で話し合ったが、いいアイディアは出てこなかった。それは、京極家のことをあまり知らないということもあるが、話せば話すほど、怪異が広がっているこの現状に対して何も手を打たないことに腹が立ってきてしまうからに他ならない。
学校やビル群を抜けると、果たしてその先に目的地らしい建物が見えた。瓦屋根に黒漆喰の壁。そこだけ時代から切り離されたように、屋敷とも呼んでいいほどの家屋が悠然と佇んでいた。
「ここがーー」
「京極家!」
紙都はぎゅっと手を握ると、薄く雪が積もった石畳の先を見据えて、格子状の門扉の隣に設置されたインターホンへ指を伸ばした。
「鬼神紙都様ですね」
指がインターホンへ触れる前に声が現れる。落ち着き払った女性の声だった。
腕をそっと下へ降ろす。
「そうです。鬼神紙都……京極御言の息子です」
「今、門を開けますゆえお待ち下さい。ところで、後ろにいらっしゃる女性の方は……?」
沙夜子は紙都の背中を押すと、インターホンを睨み付けるようにして前へ出た。
「私は、柳田沙夜子。前に御言さんに助けられた者です。今日は、あなた方に話があって来ました」
「承知しました」




