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拾陸

**********


「なんだ、ダメだったか」


 その声を耳にしたとき、紙都の足が止まった。間違いなく蓮の声のはずだが、あまりにも冷淡な口調に戸惑ってしまったからだ。


 続く言葉に戸惑いは疑惑へ、そして疑念へと変わっていく。


「おいおい吉良。相手は妖怪だぞ? やっぱり、魅了されてしまったのか?」


「蓮くん……。魅了なんかされてないんだ。僕は、最初からこの子を……」


「魅了されてないだって?」


 蓮は震える右手で顔を隠すと、体を折るように曲げて嘲るように哄笑した。そんな人を馬鹿にしたような笑い方は、紙都の知る限りでは初めてだった。


「魅了されてない? 魅了されてる奴が真っ先に言う言葉だな、吉良。大層に手に怪我をしてまで初対面の人間を守る奴がどこにいる? 安心しろ、吉良。すぐに目を覚まさせてやる」


 顔を覆っていた手がすっと外された。その横顔は凶犬のそれのように険しく、それに憎しみに満ち満ちていた。


「川姫を殺して、な」


 部室に風が巻き起こる。気が付けば、蓮は沙夜子や吉良を通り越して愛姫の前に立っていた。


「……えっ……」


 あまりにも速すぎる挙動は、紙都の目にすら止まらなかった。だから紙都は、振り上げられた拳に対して声を張り上げることしかできなかった。


「やめろ!! 蓮!!!!」


 腕の動きが止まる。沙夜子の視線が紙都へと動き、紙都の足は走り始めていた。


「紙都。お前が後ろにいたことは匂いでわかってたよ。だけどな!」


 拳は確かに振り下ろされた。周りから悲鳴が沸き起こる。が、それは愛姫の顔の前で止まった。吉良が蓮の脚に必死の形相でしがみついていた。血の跡がスラックスを汚す。


 強く舌打ちをすると、蓮は冷たい声で「なんの真似だ?」と問うた。


「相手は妖怪だぞ」


「妖怪でも人間でも、この子は何もしていない。事件を起こしていたのは、別の妖怪だ」


 吉良が蓮を止めている間に紙都が横へ並び、拳を収める。


「それでも妖怪は、妖怪だ。違うか、紙都? お前は妖怪全てを殲滅するって言ってたじゃねぇか」


 腕と脚をそれぞれ引き離すと、息が懸かるほどの距離で紙都に視線をぶつけた。二つの弧月が細められ、ゆらりと揺れる。それは、なぜか血の色に似た赤色に見えた。


「オレは、妖怪を殺さなければいけない。お前は、違うのか?」


「落ち着けよ、蓮。自分が何を言っているのか、わかってるのか?」


「そうよ! 急に何やらかしてんのよ!? 変な動画撮ったり、いきなり殴りかかるとか、あんたらしくないじゃない!! あんたこそ何かに取りつかれてるんじゃないの?」


 沙夜子の啖呵に全員が顔を向けた。オカルト研究部の面々以外は、訝しげな、あるいは夢見心地な視線を誰よりも威厳たっぷりに腕を組む少女に送る。


「沙夜子さん、残念ですがオレは犬山蓮ですよ。南柳高校一年二組に所属する犬山蓮」


「そして、妖怪退治の犬山家の犬山蓮でもあるだろう?」


 突然、窓から現れた白髪の長髪の姿にヒッ、と小さな悲鳴が沸いた。興味がないのか、反応することなく窓枠に腰かけたまま話を続ける。


「京極家と双璧をなすという妖怪退治の一族。どういう経緯でここにいるのか知らないが、その血を引いているのがお前だろう。犬山蓮」


「なるほど、紙都があまり動揺しないわけだ。お前が先に伝えたんだな? 半妖」


 口角だけを歪めて笑顔をつくる。その表情に紙都の背中に悪寒が走った。


「京極の腑抜けにでも聞いたか? なら、話が早い。紙都や沙夜子さん、それに吉良に上手く説明してくれよ。妖怪と人間は共存なんてできないって。この川姫だって無自覚に人間の男を魅了してしまうんだ。人間にとっては害そのものだろ?」


「半妖の俺に説明しろと?」


「ああ、そうだ。紙都はともかく、お前はこの世界を壊したいと思ってるんじゃねーか? 半妖なんていう中途半端な存在をつくったこの世界をさ」


 パンッと乾いた音が響いた。あまりにも大胆な行動に開いた口が塞がらない者もいる。


 沙夜子が容赦なく蓮の顔を平手打ちした。


「あんた、今、自分が何を言ってるか本当にわかってる? もし本気でそう思ってるんだったら、紙都のこと、なんだと思ってんのよ!!」


 少年は何も言わずに赤く腫れた頬を擦った。いつもならここでにやけてふざけた冗談の一つでも言うはずだった。少なくとも紙都は、それをまだ願っていた。全てがお芝居で行き過ぎた冗談で終わることを。


「さすがに、痛いですね」


 それだけポツリと発すると、蓮は紙都と沙夜子の間を通り抜けていく。


 空気の変化に気づいて「待て!!」と後ろを振り返ったときには、もう、犬山蓮の姿はなかった。

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