拾伍
**********
「あんたたち、待ちなさい!!」
沙夜子のその場から逃げ出したくなるほどの怒鳴り散らす声にも、男子生徒達は動じることなく向かってくる。
動じてないのではなく、認識されていないのだーーそれは愛姫自身がよくわかっていることだった。呪いにも似た特質。魅了される時間が長引けば長引くほど、興奮状態も強くなり、比例するように周囲への認識が薄くなっていく。まさに「釘付け」状態になってしまうのが、川姫と呼ばれる妖怪に備わる能力だった。
今回の場合、一度に複数の人間に素顔をさらけ出したのが引き金をひいた。複数人の間で川姫の姿が繰り返し共有されることで、魅了が強化され、興奮状態が持続する事態に発展してしまった。
男子生徒は、まさに飢えた野獣のように眼を爛々と輝かせて、壁側に追い詰められた川姫を見下ろす。身を守るために手前に移動させたソファは、蹴り破られた跡が何ヵ所もあった。
(怖い!! 来ないで! 来ないでぇ!!)
震えが止まらない両手で頭を抱え込む。母もそうだった。祖母も、その前の前の前の前の前のずっと前から、川姫は同じ目に遭わされてきた。
なんで、私だけ、こんな目に遭わなければいけないのだろう。私だって、私だってーー。
その思考は、気が狂わんばかりの金切り声によって途絶させられた。
「なんで!? ねえ、何やってるの!? ねぇ、ねぇ! ねえ!!」
栗色の髪の毛を左右に垂らしたその女子生徒は、男子生徒の集団へと突進し、彼氏と思われる一人の頬を叩いた。
(……えっ?)
集団が乱れ、ドミノ倒しのように男子生徒全員が床に転がってゆく。ーー一人を除いて。
目の前にいた男が涎を垂らしながら降ってくる。顔が紅潮し、鼻血でも出そうな勢いだった。
愛姫は、お腹の底から声を出すと、目をぎゅっと瞑って次に起こるだろう穢らわしい事態に備えた。
「うわっと、いててて」
予想と違う声が現れて、恐る恐る目を開ける。そこには、自分を匿ってくれた男の子の細い背中があった。
「ナイス! 吉良!!」
それでも呪いは終わらない。男達はもはや言葉にならない何事かを呟きながら立ち上がると、川姫に向かって行進を再開した。今度は、女子生徒もその輪に加わる。呪詛のように恨み言を吐き出しながら。
「ちょっと、ちょっと! ストップ、ストップ!!」
沙夜子の声はもう誰にも届いていなかった。
混乱の元凶が彼ら彼女らの目の前にいるのだから。
「あんたが奪ったのよ!」「あんたのせいで!!」「消えて!」「消えろ!」「消えろ!」「消えろ!」「消えろ!!」
繰り返される罵詈雑言に堪えきれなくなって耳を塞いだ。心の中では、反論を試みながら。
(私のせいじゃない! なにもしてない! ただ、みんなが勝手に私をそう見るだけ!! 私は、私は)
その先は上手く言語化できなかった。ついには目の前で庇い続けてくれる男の子までもが攻撃の対象にされ始めた。言葉ではなく、川姫を求めるがゆえの暴力によって。
「……やめて」
彼は、私を助けてくれた。逃げる場所を探し回っているときにたまたま開けたのがオカルト研究部のドアだった。
「お願い……」
魅了されたのだとは思う。ドアを開けたとき、バッチリ目と目が合ってしまったから。だけど、彼は、事情も聞かないですぐに私を匿ってくれた。
「……お願いだから」
誰かが部屋に入ってきたときも、そのあと男達が暴れ回っても、今だって。だから、だから。
そんな吉良が殴る蹴るの暴行に遭っているのを許すことはできずに、愛姫は隠し持っていた家宝ーーすなわち銀色に光る短刀を頚に当てた。
「ダメ!!!!」
輪に割って入り、揉みくちゃにされながらもそれを見つけた沙夜子が驚いて声を張り上げる。
「もう、いいんです」
覚悟はもう決めていた。どれだけ抗おうとしても運命は変わらないのだ。ここで逃げたって、同じこと。いずれ、こうやって自害するか殺されざるを得ない。
私達は、そういう存在なんだから。
「ねえ、お母さん」
血が吹き出た。大量に。床に天井に一面を朱色に染め上げたそれは全員に飛散し、たちまち喧騒を終わらせた。
「……な、ん……で?」
その静寂の中でか細い声が響き渡った。鈴の音に似た凛と響く愛姫の声が。
まだ愛姫の手の内にあった血塗れの短刀を取り上げると、吉良は力が抜けたように床の上へへたり込んでしまった。
「なんで、助けたんですか?」
もう一度ハッキリと言葉を紡いで質問する。声色に少し怒気を含んで。
「……だって……君は……なにもしていない……よね?」
丸い瞳がさらに丸くなる。荒い息を吐きながら、吉良は続けた。
「誰かを殺したり、痛めつけたわけじゃない。周りが……勝手に……」
「違う! 私のせいで、私が、私だからこんなことになったの! 私のせいであなたも……だから、死にたかったのに! 楽になりたかったの! もう、終わりにしたかったの!」
「……闘争本能はないの……逃げる本能でも生きる本能でもなんでもいい。足腰に力を入れて、ちゃんと目を開けて、諦める前にやれることがまだあるでしょうが……」
かつて、この部室の真下で自分に突き付けられた言葉をぼそっと呟くように告げると、吉良はなんとか不器用な笑顔をつくった。
「……死んだら、だめだよ」
「!!」
吉良の真っ直ぐな言葉は、愛姫の頬に一筋の涙を生んだ。続けてもう片方からも涙が生まれ、次々と堰を切ったように大きな瞳から涙が溢れ落ちていく。その涙が言葉にならなかった想いを言語化させる。
「私、本当は、生きたいーー」
みんなと同じように、ただ私を私として。
「自由に生きたい……」
愛姫の涙は急に止まった。涙だけじゃない。一瞬、行動そのものが止まったように沙夜子には見えた。愛姫の視線の先には、犬山蓮が無表情で立っていた。
冷たい拍手が場を支配する。




