拾参
(間に合わない――!!)
顔の前で腕を交差する。それがほとんど意味を成さないことに気がついてはいても、最低限の防御体制を取らないわけにはいかなかった。単純で直線的な物理攻撃とは違って、流動的な尾での攻撃は前後左右あらゆる箇所からの急襲を可能にしている。
その考え通り、それは眼前まで迫ったところで急に動きを変えて、紙都の後ろ側へと回り込む。
「はっ!!」
鎌倉の大鎌から放たれた一陣の風が、間一髪のところで紙都の体から尾を遠ざけた。着地とともに鎌倉の横へ跳ぶと、紙都は大きく息を吐き出した。
「悪いな。鬼面仏心さえあれば、こんなに手こずる相手ではないんだけど」
「ほう、あいつに勝てないのは得物がないせいだと」
突然、鎌が空を切ると、紙都の喉元へ突き付けられた。
「何をーー」
ピリッと痛みが走り、それ以上の言葉が封じられた。
「だったら、お前は一度負けた俺にすら勝てないな。このままその喉仏を潰してやろうか」
「やめーー」
鈍く光る刃が目の前から消えた。その代わりに強烈な回し蹴りが臀部に叩き込まれる。それは不意打ちの形となり、紙都を叢へと吹き飛ばした。
衝突音にびっくりしたのか、草花が飛び交う中で顔を出した貂が二本足で立ち、鼻をヒクヒクさせた。
「そこで寝てろ。今のお前じゃ、たとえ刀を持ってたとしても勝てやしない」
「待て!」
打ち付けた背中の痛みをそのままに飛び上がるも、強風が押し寄せ転げさせられる。
「邪魔だ」
倒れた紙都の顔目掛けて、牙を剥き出しにした蛇が飛び掛かってきた。実際には、それは濡れ女の尻尾だが、紙都の眼には凶暴な大蛇そのものが映る。爬虫類独特の冷血な瞳が、自身の瞳の中に飛び込んでくるーー。
不意にその動きは止まった。幻覚は消え失せただの尾に戻った。そして、雷に打たれたように痙攣すると、悶えるようなその動きは緩慢になり、ついに終止した。
貂が素早く主人の元へ駆け寄っていく。その動きを目で追っていくと、赤い水を全身に浴びた鎌倉の姿があった。
血色に染まった顔がこちらに向く。それを美味しそうに白い貂が舐めていた。
「呆気なかったな」
川から上がると動かなくなった濡れ女を蹴り転がす。呆気に取られている紙都の胸ぐらを掴み顔を引き寄せると、鎌倉はその綺麗な顔を歪ませた。
「こんなのに殺されそうになったお前が、次の敵に勝てるのか?」
「次の敵……?」
ようやく喉奥から絞り出すような声を出すと、胸を強く押され尻餅をつく。汚れた手に向かって何かが投げられた。
「俺のスマホだ。開いてみろ」
言われて自身のスマホを制服のポケットに入れたままだったことに気がつく。いくら耐水性があったとしても川底に沈められ、化物に喰われるほどの衝撃を受けたなら、おそらくもう使い物にならないだろう。
「あまり汚すなよ」
シルバーブルーのスマホはきちんと布で拭かれているのか均等に光沢を放っていた。スライドさせて画面を開くと、何かの動画が表示される。
「オカルト研究部のグループに流れたものだ」
「これは、蓮が?」
「ああーー」
動画を再生した途端に割れんばかりの悲鳴がスマホから発せられる。引き続いて悲鳴の後ろに複数の乱雑な足音と、吉良ーーと思われる喚声が聞き取られ、尋常ではない状況を伝えていた。動画を見ている限りでは、一人の女子生徒を男子生徒が集団で襲っているようにしか見えない。
「紛れもなくあの犬が録った映像だ。川姫を捕まえたとか」
「嘘だ!」
紙都の怒鳴り声にも近い荒々しい声が冷たい空気を切り裂くように響いた。
「蓮がこんなものを撮るはずがない! こんな、冷静に。あいつなら、すぐに止めに入るはずだ!! いくら妖怪だったとしても!」
俺の横に並んでくれたように。
「その映像が何よりの証拠だ。こんな異常な事態なのに、スマホを持つ奴の手は全くブレていない」
それどころか、時折嘲笑にも似た笑い声が挟まれる。蓮の声に非常に酷似した。
それでも紙都は信じられないという風に頭を横に振った。
「何かの間違いだ。それか、蓮になりすませた何者かの仕業か。……そうだ、そうだろ? ぬらりひょんみたいに別人になりすます妖怪の仕業で」
「いや、間違いなく奴がやっている。お前にはまだ話していなかったが、あーー」
「そうだ! 川姫っていう妖怪はすごい美人なんだろ? 蓮は女の子に弱いから、そんな美人なら助けないわけが」
そこまで述べてはたと気がつく。蓮は沙夜子に向かって昨日確かにこう言っていた。
『いや~オレ、人間専門ですからね~いくらかわいくても妖怪はちょっと』
(そうだ。あれはただの冗談だと思っていたけど。だけどーー)
瞬きも忘れたように大きく目を広げた紙都の様子を窺いながら、鎌倉はもう一度口を開いた。
「認めたようだな。続きを話そう。あの犬、犬山蓮は、お前の母、京極御言の出身京極家と双璧を成す妖怪退治の家系、犬山家の出身だ」
(いぬやまけ? しゅっしん?)
言葉は理解できても、それが何を意味するのかすぐにはわからなかった。紙都の感情が先走っているのもその理由の一つだが、犬山家に関する情報は、鬼救寺に膨大に残された資料の中に一片も記録されていなかった。まるで意図的に秘匿していたように。
「詳細はわからない。軽く調べた限りではどんな一族なのか、どんな能力を持っているのかさえわからなかった。ただ一つだけわかったのは、犬山家は危険、だということだ」
それは人から人へ伝え漏れる噂の類いのように京の闇を伝播する真しやかな異伝。
「待て、さっきから何の話をしている? 蓮が、その犬山家だって言うのか?」
「そうだ。現にその異常性は今見た動画に現れている。自分のクラスメートが妖怪と対峙しているにも関わらず、動画を撮り続けることが果たしてごく一般的な人間の取る行動なのか? ましてや、部室には吉良もいるはずだ。すぐに助けに向かうと思うが。犬山蓮は、本当にお前の知っている通りの人間なのか?」
紙都は、スマホを握り締めたままおもむろに立ち上がった。自分の感情を偽るような作り笑いを浮かべて。
「あいつはいつも笑っていた。ふざけて、時々は励ましてくれて。そんなあいつがーー」
(ーーこんなことをするはずがないんだ!)
スマホを投げ捨てるように鎌倉へ渡すと、紙都は元来た道を、高校への道を駆け戻っていく。汚れも痛みも復讐も、今だけは全てを忘れて、ひたすらに全力に走る。
小さくなっていくその後ろ姿を見送りなから、鎌倉は独りごちた。
「おそらく、それがお前の持つ本当の力だ」




