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拾弐

**********


 苦しい。息が続かない。


 首に絡み付いた物体を力付くで振りほどくと、紙都は一度酸素を求めて川底から浮上した。息継ぎをすると同時に襲い掛かるそれが何か、今ならハッキリとわかる。


 それは一本の尾だった。黒光りする粘液にまみれた太い尾。攻撃された瞬間、咄嗟に腕を首と尾の間に挟んだからよかったものの、一歩間違えれば首が引き千切られるところだった。


 それほどの威力を持つ尾が再び盛大に水飛沫を上げながら、紙都へ迫った。尾が当たる寸前に川面を蹴って水中へ潜ると、脚をばたつかせながら、水中に潜んでいるであろう本体を探す。


(川姫じゃない。こんな特徴は、吉良が見せたノートには載っていなかった)


 川の中は不思議と静かだった。後ろから迫り来る尾の気配に、休む間もなく懸命に動かし続ける脚に、危機的状況のはずなのに、サイレントモードにしたスマホのように無音のまま瞬間、瞬間は過ぎ去っていく。


 最初、遠くに見えたそれは、水の中を無目的に漂うゴミか海藻のように見えた。だが、近付く度にそれぞれの点と点がつながり、有機的な形を成していることに気が付く。その禍々しい二つの漆黒の闇を認識したとき、紙都の脳裏にハッキリとある絵が浮かんだ。


(濡れ女!?)


 川姫の隣に描かれていた妖怪の名だ。蛇の尾に人間の女の上半身が合わさったような妖怪。濡れ女は、今、耳元まで裂けた紅い唇から蛇のそれに似た細長い舌を突き出している。まるで嘲笑うように。


(挑発しているのか?)


 心が水の底のように沈んでいくのを別のどこかで感じる。意識か、無意識か、はたまた本能か。今の紙都にとっては、それはどちらでもよかった。


 右掌を強く握り締め、水を蹴り上げる。川底から一気に上昇すると、その憎悪を掻き立てる真っ黒な洞穴のような瞳に向かって腕を振り上げた。


 息が止まったのは、その直後だった。


(なっ!?)


 口から貴重な空気が水泡となって溢れ出ていく。泡は幾重にも渡る黒い帯によってかき消されていく。


(しまっ……)


 それは、髪の毛だった。縮れた漆黒の黒髪が一本一本蛇のようにうねり、紙都の右腕を絡め取っていた。


(くそっ! 抜け出せない! このままじゃ息が……)


 真後ろから衝撃が走った。紙都は一つ大きな問題を失念してしまっていた。打ちつけられた身体が前方に飛び上がる前に、素早く前に移動した尾が胸を締め付ける。


 尾は器用に肺を締め付け、肺胞に溜め込んだ酸素を一気に吐き出させていく。激痛と苦しみが同時に胸部を襲い、頭が麻痺したように重くなる。


 痺れた腕を振り回すも、尾が解ほどけることはなかった。たとえ十全な状態だったとしても、身体中を交差し合い、鎖のように絡み合う尾から拳一つで逃れるのは用意ではなかっただろう。


(刀が……鬼面仏心さえあれば……)


 伸ばした手の先に見えたのは、懐かしい黒髪の後ろ姿だった。一際大きな泡が水中に吐き出されると、その姿を目に浮かべたまま紙都の視界はブラックアウトしていった。


 指の間に入り込んだ髪の毛は、しゅるしゅると紙都を取り込むようにその触手を伸ばしていく。大蛇は歓喜に震えるように滑らかな肢体を動かし、赤い舌を伸ばすと紙都の頬を、唇を、胸を――撫で回すように舐めていく。繊細に丁寧に、そしてねっとりと。その行為は見ようによっては、妖艶なものにも見えた。


 身体中を覆った無数の髪の毛が、まだ温もりの残る少年の体を口腔へと運ぶ。黒い二つの穴の奥に妖しい光が宿り、空間が裂けたかのような異次元の割れ目が出現した。途端に激しい水流が巻き起こり、紙都もろともその空間へ吸い込まれていった。


 それが違和感に気づいたのは、そのすぐ後のことだった。そして幸運だったのは、他の犠牲者たちとは違い、紙都の体が丸呑みされたことと、口に入れられて数秒も満たない時間に異変が起こったこと。


 すぐに収まるはずの水流は収まることなく拡大を始めた。だが、すでに濡れ女の口は閉ざされている。そんなことができるのはーー。


 雌蛇は、水面へと視線を動かすと同時に、先程よりも膨らんだ尾を丸めて警戒態勢に入った。


 水底が抉られるような鳴動を舌先が察知したときには、すでにその身体全体が空中へと放り出されていた。いや、正確に言うと――。


「やっと出てきたか」


 濡れ女の周囲の水が全て空中へと巻き上げられていた。突如発生した竜巻によって。


「紙都も吐き出させてもらうぞ」


 絹糸のように細長い白髪が風に舞った。柔らかなその風は、一足飛に間合いを詰めると、重い一撃を化物の腹へと命中させた。


「グボォォォォォォォォォォ!!!!」


 汚い奇声とともに吐き出された物体は、砂利の上に投げ出され転がる。吐瀉物がまとわりついたその姿を見て、鎌倉は眉間に皺を寄せた。


「起きろ! 紙都!!」


 頭の中がぐわんぐわんと揺れるように掻き乱される。ジェットコースターを連続して乗った後のような強力な揺れに目を覚ました紙都がまず気が付いたのは、酸っぱい体液のような臭いと、それを舐める何者かの舌触り、そして多量の雨音だった。


(――誰!?)


 ハッとして目を見開くと、瞳の先に白い鼬の姿が飛び込んできた。赤味を帯びた宝玉のようなつぶらな瞳が心配そうに紙都を見つめる。


(てん)。離れていろ。喰われるぞ」


 真横から聞こえる鎌倉の声を聞いて気絶する前の状況を思い出すと、紙都は川面だったはずの場所へと顔を向けた。身体は痺れ、まだ言うことを聞かない。


 飛礫(つぶて)を打つような雨が、苦しそうに尾を捩る濡れ女の巨体に降り注いでいた。数瞬のうちに竜巻が巻き上げた水が戻り、元の川を形成する。


「お前がやったのか、颯太」


「ああ。ついでに油断して呑み込まれたどっかの鬼も救ってやった」


 お互いに目線は川底へ向けたまま、淡々と会話が交わされる。感情を伴わせる余裕はまだなかった。得体の知れない生温さが、消えない臭いとともに纏わりついていた。


 鎌倉は片手に提げた鎌をくるりと回転させると、両手で構える。


「どうやら、奴はお前が気に入ったようだな」


「……なんだって?」


「これまでの行方不明者は全て男だった。恐らくは、繁殖相手を探していたんだろう。ご丁寧に丸呑みされたということは、お前がその相手に選ばれたってことだ」


 ゾクッと背筋に悪寒が走った。確認しなくとも鳥肌が一斉に沸き立ったのがわかる。


「気味が悪いな。だが、お前が寝ている間にもう一つ気味の悪い怪異が生じている」


 貂が紙都の身体から駆け下り、急いで草藪へ逃げていった。再び、水飛沫が宙を高く舞う。


 アドレナリンが全身を駆け巡り、紙都はバネのように跳ね上がった。


「話は後だな。まずは、こいつを片付ける」


 水上に現れた尾が二人の間を割るように振り下ろされた。


 身体が判断を下し、横へ転がるようにかわすも、鞭のようにしなる尾は地上ギリギリを這うように紙都の後を追い掛ける。


(疾い!!)


 黒紫の尾が紙都の足元目掛けて飛び付いた。ぬめりとした片手を地に付けて逆向けにした身体を預けると、そのまま宙へと飛ぶ。が、尾は自動追尾機能でも持っているかのように垂直に伸びると、速度を上げて紙都を追った。

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