玖
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どんよりとした重苦しい分厚い雲が、ますます登校の道のりを遠く感じさせた。それはまるで自分の心うちを表しているようだ、なんてーー。
「オレの柄じゃねえか」
無意識に頭を撫でて短く息を吐き出す。誰もいない一本道に白い息が滲んですぐに消えていった。
犬山蓮は遅刻をしていた。それも、ただの遅刻ではなく大遅刻だ。朝のホームルームはもうすでに終わり、一限目も半分を過ぎようとしていた。さっきからポケットで忙しく振動を繰り返しているのは、紙都か他のクラスメートからの連絡か。
いつもならすぐにチェックするところだが、今は見たくない。どんよりとした空が現しているのは、遅刻のせいではなかった。
昨日、結局目ぼしい情報は何も得られなかった。真面目な情報収集だったはずが、いつの間にか可愛い女の子の話に移り変わり、そして夜の変なテンションのせいもあって次第にあらぬ方向へと話が進み、気がつけば紙都に呆れられて電気を消されてしまった。
「おい、紙都! 少しはお前も話に入れよ! お前だって沙夜子さんのこと気になってるだろ?」
「別に。今は早く妖怪を退治したいんだ。悪いが無駄なおしゃべりをしている場合じゃない」
(ーーそんな感じでまったく相手にされなかったが、あいつは本当に大丈夫なんだろうか?)
それに。
(オレたちはずっとこうしていられるんだろうか?)
その問いに、曇天は何も返してはくれなかった。それどころかじっと眺めていればいるほど、灰色のネガティブな思考ばかりがまとわりついてくるように感じる。
「……本当に、性に合わないな」
舌打ちをすると、蓮はスマホを取り出してメッセージ画面を開いた。
「多いなっ!」
数十件の未読メッセージがずらっと並び、連絡がマメな蓮ですら眉を潜ませる。そんなに自分のことが心配なのか、と目を通していくが、すぐにメッセージの異常さに気がついた。
「な、なんだこれ?」
『おい、蓮! めっちゃ可愛い子がいたんだよ!』『天使だ!』『今、追跡中』『制服着てた! ウチの生徒だ!』ーー
それらのメッセージに共通しているのは、一人の女の子の情報だった。女の子の姿を探している旨のメッセージが送られた時間を考えると、授業を抜け出しているものも多数いることになる。
「まさか、川姫か!?」
蓮は、スマホを握りしめたまま走り始めた。
学校は、もはや授業が成り立つ状況ではなかった。川姫に魅了されたと思われる男子生徒が集団を成し、外から見てる分にはまるで暴徒のように各教室を探し回っている。
あちこちから沸き上がる教師の怒号や女子生徒の叫び声をまるで意に介さず、彼らはむしろ嬉々として探索に励んでいた。その中には、蓮の友達も何人も含まれている。
「おいおい、まるで野獣だぞこれじゃ。かくれんぼしてるんじゃねーんだから」
嘆息とともに口から出た言葉に一人の友人が振り返る。
「おい、蓮! お前、そんなこと言ってるけどな! 彼女の顔見てみろよ!」
それだけ早口で捲し立てると、走り去っていったその後ろ姿を眺めながら、後ろ頭を掻く。
(あいつ、確か最近彼女できたとか言ってなかったか?)
「……許せない……」
「……ん?」
微かな涙声を聞き取ると、蓮は恐る恐る騒ぎが終わった教室を覗き込んだ。何かの襲撃にあったように机と椅子が散乱するその真ん中で、今度は女子生徒が円を作っていた。
「……初めてだったのに……」
(お?)
初めてが何を指しているのか定かではないが、円の中心で泣きじゃくるその女子生徒の言葉は、蓮を妄想の世界に誘うのに十分だった。
(何が初めてなんだ! くっ! 声が小さくて聞き取れない!! それに外野の同情の声がうるさい!)
バレないように教室に入る一歩手前まで近づくと、ドアの死角にしゃがみ込んで耳をそばだてる。
(初めてとは何なのか。……待てよ。初めての彼氏だとかの場合は、おそらく初めての後にそれが掛かる単語が来るはず。初めて……と濁すということはーー! それに、そう言えば少し躊躇いがちに話していたような気がする! 以上の考察から予想されることはーー)
蓮は夢中になるあまりに気づいていなかった。コツコツと、聞き慣れたローファーの足音が、怒りを伴う足音が後ろから近付いてきていることに。それは、蓮の真後ろで止まった。そしてーー。
「あんた、こんなときまで何やってんのよ」
呆れと怒りが半々ぐらいで秘められたその声に、教室中の女子生徒が振り向く。
一瞬の間の後、目を瞑ってその場に立ち上がると、蓮はポケットに手を入れた。
「沙夜子さん。もちろん、調査ですよ。何が起きているのか調査しようとーー」
「あっそう。鼻血出てるわよ?」
「えっ!? うそ!?」
グーパンチが頬を抉った。
「痛い!」
「当たり前じゃない。殴ったんだから」
「そんな急に!」
「変態が犯罪をしでかす前に捕まえたのよ。むしろ、誉めてもらいたいくらいよ」
(いや、そうじゃなくて、沙夜子さんのパンチが意外に心地よくーーなんて言っている場合じゃないか)
蓮はまだヒリヒリする頬を手で擦りながら、ポケットからスマホを取り出すと、沙夜子に例の画面を見せた。
「メッセージね! ……ああ、やっぱり」
寝不足なのか疲れているのか、冷たく言い放つその声には元気がなかった。透き通った白い肌も少しくすんでいるように見える。
「沙夜子さん! だいぶお疲れのようで! 紙都の心配でもしてるんですか? あいつなら大丈夫ですよ! ほら、妖怪を憎んでるわけだし!」
紙都の名前を出した途端、瞳が大きくなり、顔がほんの少し赤くなった。わかりやすい限りだ。
「べ、別に紙都の心配なんてしてないわよ!! ……あっ」
大声に、また教室内の全員の視線が集まった。いよいよ顔を紅潮させた沙夜子は、蓮を引きずるようにして人目のつかない階下へと移動する。
「私が疲れてるのは、昨日遅くまで調べてたからよ! でも、そのおかげで、この間の南柳市の失踪事件の多くが川沿いで起こっていることがわかったわ! あんたの方はどうだったの?」
可愛い女の子の話に夢中になってました、なんてことはさすがにこの場において言えない。再びスマホを取り出すと、意味ありげに片方の人差し指でそれを示す。
「川姫の特定は無理でした。ですが、今日になって学校中が騒動になっている。オカルト研究部総出で手分けして校舎内を探すのはどうですか? 逃げ隠れしているっていうのなら、案外すぐに見つかるかもしれません」
「いい手だと思うけど大丈夫なの? あんたがもし川姫を見たらーー」
「大丈夫ですよ! 昨日も言いましたが、オレ、妖怪には絶対惚れたりしませんから!」
そう惚れるわけがない。全ての記憶を取り戻した今となっては。
「じゃあ、連絡してくれる? さっきから探してるんだけど、紙都、どこにもいないのよ」
「なんだ、やっぱりめちゃくちゃ気になってるじゃないですか?」
ムキになって否定するのを尻目に、蓮はすぐにメッセージを打った。
「紙都、お前の出番だぞ!」




