漆
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沙夜子がその視線に気付いたのはちょっとした偶然だった。蓮が女の子を物色しているのにうんざりして視線を変えようとしたときに、女性の声が聞こえてそっちへ首を動かしたその瞬間に、人込みから逃れようとしている大きな眼鏡を掛けた地味な女の子と目があった。
本当に人込みから逃れようとしていたのかどうかは定かではない。だが、妙に気になるその姿に沙夜子は引き寄せられ、そして観察していた。
(あれは、たぶんうちの制服ーー制服!?)
沙夜子は隣にいた蓮の首根っこを掴むとその少女の方へ無理矢理顔を動かした。
「あんた! 女の子好きでしょ! あの子知ってる?」
「いたたたたたっ! 沙夜子さん痛いっす!」
首を離すのと少女が人込みに紛れたのはほぼ同時だった。
「あれ? おかしいな、あんな子うちの学校にいたっけ?」
「追うわよ!!」
「えっ!?」
沙夜子は人混みを掻き分けて走り始めた。その後を紙都、鎌倉が追う。
「えっ!?」
出遅れた蓮と吉良は目を合わせると、大きく頷き足を急がされる。
「早く走れ吉良! 追い付かないとまた沙夜子さんに何言われるかわかんねーぞ! それもまたいいけど!」
ーー
「ダメ! 見失ったわ!」
街灯がともっているとは言えども、日が沈んだ夜闇の中を探すのはもう不可能に近かった。よく見知っている人物ならまだしもパッと見掛けただけの人物を探すのは。
「本当に誰かわからないのね?」
膝に両手を乗せて肩で息をしながら、沙夜子は後ろの部員へ疑問を投げ掛ける。
「ダメっすね~。いや~南柳高校の女子生徒は全て把握していると思ってたんすけど、まだまだですね!」
「『まだまだですね!』じゃないわよ、全く。真剣に探してんの? 全然息が上がってないじゃない!」
蓮は不敵な笑みを浮かべると、グッドポーズを示した。白い歯がキラキラと輝きそうだ。
「この犬山蓮、体力には自信があります!」
「そんなことより、どういうことだ沙夜子? 急に走り出したりして」
「いや、あの、紙都くん?」
蓮の顔を手の平で押し退けると、沙夜子は大きく息を吐いて紙都に向き直った。
「聞いてたでしょ? 高校の制服を着ていた女の子が死体の側にいたって。きっと彼女よ」
「その根拠は何かあるのか?」
「それはね」
ピッと人差し指が小さな顔の横で立てられる。
「私の直感よ」
紙都は首を横に振った。
「直感? そんなものーー」
「それに、あの子明らかに動揺してたわ。私と目が合って。それから私だったら犯人が誰かわかるかも、っていうあの場面で事件現場から離れたりはしないし」
「それはお前の思考であって、一般的な考え方じゃないと思うんだけど」
「む……」
言い返せなくなった沙夜子は、咳払いを一つして会話を終了させた。
「とにかく! 作戦会議よ!! あんた、あの子の情報収集して!」
その命令を嬉々として受け取ると、蓮はさっそく制服のポケットからシルバーブルーのスマホを取り出した。
ーー
テリヤキバーガーを意外な大口を開けて食べる紙都の顔をちらりと窺いながら、沙夜子は揚げたてのフライドポテトをつまんだ。
(なんだ、食欲はあるんじゃない。……少しやつれてたから……心配かけんじゃないわよ、全く!)
「で? 少しかはわかったの? エロ犬」
目と目が合いそうだったので内心慌てて視線を逸らして、蓮に質問をぶつけた。が、蓮はその問いに力なく首を振って薄茶色の円形テーブルにスマホを置いた。
「ダメですね。大きめなメガネをかけた女子なんてたくさんいるし、当てになりそうな情報はなにもありません」
「はぁ……手掛かりなしか……」
焦げ茶色の壁に面した椅子に背を預けて、沙夜子は宙を眺めた。虱潰しに各クラスを回るか、聴き込みをするしかないか。いえ、でもさすがに怪しまれるし、逃げられてしまうかもしれないわね。
(あの子が、本当に犯人だとするなら)
ホットコーヒを口に運ぼうと顔を下ろした先では、吉良が明らかに挙動不審にモゾモゾと体を動かしていた。
「なに、吉良、あんたどうしたの?」
ビクッと身体を震わせる吉良の姿を見て、「小動物かお前は」と突っ込んでしまうのは仕方のないことかもしれない。
「……あの……もしかしたら、妖怪の正体がーー」
「わかったの!?」
バンッと机が叩かれる音ともにハンバーガーやドリンクが揺れる。
「わ、わかったっていうか、その」
「もう、ハッキリしないわね!」
「おい、落ち着け。周囲の人間から注目を浴びてるぞ」
冷たい声が熱くなった沙夜子の拳を解かしていく。言われた通り、雑談が溢れていたはずの店内が静まり返り、自分を注視していた。
「悪かったわ。教えてちょうだい、吉良。どういうことなのか」
腰掛けながら緩やかなトーンで話を促す。すぐにまた喧騒が戻ってきた。
「それは……」
吉良は椅子の下に置いた黒一色のリュックから妖怪辞典を取り出すと、テーブルの真ん中に置いて広げた。そこに描かれていたのは、艶のある長い黒髪を垂らした美貌の女性。
「濡、女?」
「ごめん、違う。そっちじゃなくてこっち」
小さな指が差した先には川姫の名前があった。
「川姫は、その名の通り川の付近に出現する妖怪なんだ。男を誘惑して、精気を吸い取ってしまう男にとっては天敵のような存在らしい」
「そうか! 川で男性の死体が発見されたから! でかしたわ、吉良!! だてに毎日本を読み耽っているわけではない……うん? 待ってーー」
シナプスを総動員して一つの結論に達すると、沙夜子は指をパチンと鳴らした。
「この間南柳市に起きている行方不明事件、全員失踪したのは男じゃない!?」
「……そうなのか?」
鎌倉の問いに頷いたのは、吉良だった。ポケットからスマホを取り出して掲示板を開く。
「この通り、全部男なんだ。カラオケとか家とか職場とか、場所はバラバラだけど、共通するのは全員男だということ。か、確証があるわけでは全然ないんだけど……」
「その証拠を集めるのは簡単よ。聞けばいいじゃない。掲示板でもSNSでも。そのカラオケや職場が川の近くにあるのかどうか! 私、それやるわ! それから犬山! あんたは引き続きあの女の子の情報を調べて! 可愛い子調べるのはお手のものでしょ?」
犬山は自身のスマホの画面から顔を上げると、にたりと笑った。
「いや~オレ、人間専門ですからね~いくらかわいくても妖怪はちょっと」
「とか言って鼻の下伸びてるわよ」
「ええ!? ホントすか!?」
二人のやり取りは店内の騒がしさのなかに霧散していった。気がつけばもう外はどっぷりと暗い。
紙都は、すっとトレーを持って立ち上がった。怪訝そうな顔を浮かべながら。
「蓮、話がまとまったのなら先に帰ってるよ」
「おお、おいまてまて! 一緒に帰ろうぜ! 夜道にその妖怪に襲われたらどうすんだ!?」
慌てたその様子を見て、紙都は小さく笑みを溢した。
「大丈夫だろ。相手は妖怪だから。蓮は妖怪には誘惑されないんだろ?」
「そりゃそうだが、あ、おい待てって!」
夜風が優しく頬を撫でる。つい数十分前までの騒がしさが嘘のようだ、と沙夜子は思った。駅を降りて沙夜子の家までは住宅地が続き、夜も更けたこの時間となっては静けさだけが辺りを包んでいた。
(……紙都のやつ、笑ってたわね)
自然な笑顔を見たのはいつぶりのことだったか。オカルト研究部として毎日のように顔を会わせていたのは、たぶんほんの二週間前のこと。だが、それ以上に長い期間紙都の顔を見ていなかったような気がしていた。
二階建てのどこにでもありそうな茶系で統一された一軒家の前で沙夜子は立ち止まった。中からうっすらと灯りが透けて見える。
(……今日はついてないわね)
鞄から取り出そうとした家の鍵を再び定位置に仕舞い込むと、大きく一つ溜め息を吐いて沙夜子は焦げ茶色の玄関のドアを開ける。中から甘ったるい香水の匂いが鼻をついた。ずっと嗅いでいれば吐き気を催しそうになるその匂いから逃げるように、沙夜子は2階にある自身の部屋へと向かう。
後ろ手で部屋の扉を閉めると、数秒後に匂いは消えていった。それでも、その匂いをきっかけに始まる自動思考は止めようがない。沙夜子はドアの前でうずくまると、両手で耳を塞いだ。途端に息が乱れる。それは、一度は消え去ったはずの過去の記憶。
ーー「なにこれキモい」「あの子ホントおかしいよね?」「やめて! あんたは病気なのよ! 狂ってる!!」ーー
(違う! 違う、違う、違う、違う!)
「妖怪は実在するし、私は取り憑かれたのよ……それに」
瞬間、紙都の笑顔が浮かんだ。
「あいつだって、居るんだから」
フラフラとしながらも立ち上がると、沙夜子は机の上に置いたノートパソコンを手に取りベッドの端へと座った。電気を消して居ないふりをしながらパソコンを起動させる。
(今、私にできることは、あいつを支えること。御言さん、それでいいんですよね)




