弐
「だけど、それだけじゃないんだよなぁ」
上手く言葉では言い表せないが、惹き付けられる魅力みたいなものを持っている。引き寄せられると言っても決して言い過ぎではない、と久しぶりに少女に会って男は改めて思った。きっとどんな奥手の男でも彼女の前ではあの瞳に吸い寄せられて生唾を飲み込むことだろう。実際に美人揃いのお店の中でも、愛姫は断トツでトップの指名数だと言う。
帰路の途中にある橋の中央に来た辺りで男は、ふと立ち止まって、川底を覗き込んだ。彼氏とかいるんだろうか、とあらぬ妄想が川面に映し出される。男の思考はさきほど両手をがっしりと掴んだ場面へと戻っていた。しっとりとしていて柔らかで、それでいてか細い。陶器のような白い肌という表現がピッタリときた。だが、その手は熱を帯びたように温かかった。ーーあの手はもっと温かく、いや熱くなるのだろうか、彼氏の前ではどんな風にーー。
「えっ……?」
気がついたときには、目の前に水面があった。確かな衝撃と氷を抱いたような冷たさが襲い、大量の水が喉奥へ突っ込まれたように押し寄せてくる。男は夢中になって足をバタつかせると暗い川から顔を上げたーーはずだった。
妙に身体が軽かった。ずぶ濡れのスーツは重石になるほど重量が増す筈なのに。そう思って揺れる水面に目を凝らすと、きつく結び直した赤のストライプがゆっくりと水底に向かって落ちて行くのが見えた。なぜか首から先のない見慣れた身体とともに。
氷水を背中に掛けられたように、瞬時に生気が引いていくのがわかる。だが、もうその背中は無いのだ。もはや絶叫すら出なかった。限界まで見開かれた男の絶望色に塗り固められた瞳が最後に見たものは、漆黒の塊の中を泳ぐように動く「何か」だった。
ーー川瀬愛姫は、制服に着替えると駅のトイレから外へと出た。家までは十駅分、時間にして約四十五分と、駅から家まで徒歩二十分の計一時間ほどの時間を掛けなければいけない。
タイミングよくホームに来ていた電車に乗り込み、空いていた座席に座るとスマホに繋げたイヤホンを両耳に入れて、お気に入りのJ-POPを流した。そのまま来ていたメッセージをチェックする。
(続報?)
それは、今日一番の客であった常連客の男からだった。嫌な予感に背中がざわつくが、仕方なく読み進める。
『今日はありがとう! 久しぶりで本当に気持ちよかった。さっきの話だけどさ、思い出したよ。ニューオカルト掲示板ってところで行方不明者の情報がたくさんやり取りされているんだ。サヤって子がよく更新してるんだけど、もし気になったら見てみたら? 怖がらせようとしてるわけじゃなくて、愛姫ちゃんのことが心配だから。もし一人で怖かったら今度お店でまた一緒に見てもいいしね』
また背筋がゾクッとする。申し訳ないが、愛姫はメッセージをそのまま消去して、ポケットにしまい込むと、太い黒縁眼鏡を上げた。
(……サヤ、か)
「あっ……」
小声でも電車内で声を出してしまったことに、恥ずかしさを感じて、愛姫はイヤホンを耳奥に押し込んだ。同じような名前の有名人、というよりも奇人、変人と思われている人物が同じ学校にいることを思い出したのだ。
(確か、柳田ーー沙夜子)
直接話したことはなかったが、遠巻きに見ていてもパワフルな人だなという印象は感じていた。
(オカルト研究部に所属しているんだったっけ?)
背筋を伸ばすと、ひっそりとため息を吐く。こうして目立たないようにひっそり、ひっそりと生きていければいいのに。
(きっとサヤは沙夜子のことだ。『樹木子』のこととか、二週間前の地震とか、大人しくしてられないのかなぁ)
愛姫はそっと目を閉じると、流れる音楽に身を委ねた。今は、ただ無心になりたかった。




