壱
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まず、眼鏡を外した。狭い四畳ほどの和室の端に置かれた鏡台の前で。私服を脱ぐと、藍色の着物を慣れた手つきで着こなしていく。軽く化粧を整え、唇にほんのり桃色の口紅をさすと、少女は無邪気な声を出しながら両腕を上へと伸ばした。
「ん~自由だーー!!」
つぶらな瞳に透き通るような色白の肌、キリリとした眉、真ん中で分けた艶やかな黒髪は、大和撫子という言葉を容易に連想させる。さきほどまでどこにでもいそうなーーいや、どちらというと地味な部類に入る十七のその少女は、今はもはや見違えるように二十四、五の色気を醸し出していた。
にっこりと笑顔を確認すると、再び眼鏡を掛けて立ち上がる。
「いや~久しぶりだね~二週間振りくらい? 愛姫ちゃん、何かあったの?」
「いえ~ちょっとお暇をいただいたんですよ。ごめんなさい、何度か直接お店にも電話いただいたみたいで」
部屋を出てしばらくすると、愛姫と呼ばれた少女は常連客らしき中年のサラリーマン風の男を伴って戻ってきた。
男はややくたびれた紺の背広を上品に微笑んだ少女に手渡すと、部屋の真ん中に用意された座布団の前に横になった。
「やっぱり、愛姫ちゃんが一番だからさ! 今日まで溜め込んでずっと待ってたよ!」
「ふふ。嬉しいけど、その言い方だと誤解されちゃいますよ? 二週間もしてなかったら痒くなりません?」
「なるなる。けど、それをこう、ごっそり全部取ってもらうのがいいんだよね。すっごい、スッキリするんだよ、耳の中が」
大人に化けた少女は座布団の上へ正座で座った。そのタイミングで男は、わざとネクタイを緩めた。
「あっ、かわいいネクタイですね! 赤のストライプなんてどうしたんですか? 猫ちゃんも描かれてるし」
「えっ? いや、いつもこうだよ?」
「へ~オシャレですね!」
もちろん、それは嘘だった。というよりも、少しでも気に入られたいという男の見栄だった。そんな見え透いた嘘。もちろん少女は理解していた。理解した上でにっこりとえくぼを見せると、しっとりとした吸い付くような手を男の顔に回し、優しく自身の膝の上へと乗せた。
少女は分厚い黒縁眼鏡を外して小机の上に置くと、耳掻きを手にしてくるりと手の中で回した。
「ふふ。こっち見てたら施術始められないですよ」
男は、その顔に釘付けになっていた。
耳かき専門店「みみ癒し」。少女にとってこの仕事は天職だった。一度に大勢を接客するような仕事は難しかったが、どこかで自分を偽りなく出せる場所が必要だった。ここならば、お客さんとの短い時間のあいだだけでも素の自分を出すことができる。家は別として、学校でも自分を押し込めなければいけない少女にとっては、このバイトが何より大事な居場所になっていた。変な客はときおりいるが、それでも、高校生であることを偽ってでも続けていきたい仕事だった。
「いや~やっぱり最高だね!」
「あんまり動かないでくださいね。傷つけちゃうから」
至福そうな笑顔を見るのが好きだった。どんな人であろうと、自然な笑顔は素敵だ。少女がこの仕事を初めてから気づいた大きなことだった。
「二週間と言えばさ」
「はい」
耳かきを変えながら相づちを打つ。垂れた長い黒髪を耳に掛けると、優しく耳に触る。
「二週間前の地震覚えてる?」
不意にその手が止まった。
「うん? どうしたの?」
「あっ、いえ、なんでもないです。大きかったですよね、あの地震」
「うん、オレ会社にいたんだけど、びっくりして大声だしちゃったんだよ」
「それは恥ずかしいやつだ~」
二人同時に笑い声を上げた。このお客さんとはもう一年くらいの長い付き合いになるから、割合気兼ねなく接することができていた。
「それで、その地震のあとから行方不明事件が多くなっているらしいよ?」
「えっ? そうなんですか?」
そんな情報はテレビではやってなかったような、と少女は今朝のニュース番組を思い返していた。いつもと変わらない芸能界のニュースや各種事件や事故のニュースはやっていたが、印象に残るような大々的な行方不明事件はなかったはず。
「まあ、ネットの情報だけどね。ある掲示板が情報の発信源らしいんだけど、なんだったかな、確かニューオカなんとか……まあいいや。そこからSNSを通して広がってるんだ。行方不明者が続出してるって」
「ちょっと、怖がらせようって止めてくださいよ! もう!」
「いやいやホントなんだって! オレも最初はデマかなとも思ったけどさ、親とか子どもとか、友達とか身内で行方不明になったって人がSNSで拡散してるんだよ。ほら、たとえば、これとかーー」
そう言って男はポケットから猫のシルエットが描かれた白いカバーで覆ったスマホの画面を取り出して見せた。
『助けてください! 兄が昨日の深夜からいなくなりました!! 財布も鞄も免許証も家にあるし、靴もあるんです! 兄はどこに行ったのですか? お願いです。助けてください!』
『彼氏が急に消えました。カラオケで私がトイレにいっている間に。かばんとかそのままです。部屋の防犯カメラは見たけど、いなくなったその瞬間だけ砂嵐みたいになって、怖いです。何が起きてるんですか?』
「きゃあ!!」
一気に血の気が引いていくのがわかった。一度落ち着こうと、耳かきをテーブルの上に戻し、小刻みに震える手をもう片方の手で受け止めて膨らみのある胸の前へ置く。
男は慌てたように膝枕から起き上がると、スマホの画面を消して怖がる少女のその握り締められた手を両手でそっと隠すように触れた。
「ごめん! 怖がらせるつもりはなかったんだ! 大丈夫?」
「だ、大丈夫です……あの、その、手を」
じっとのぞき込むように少女の黒真珠のような澄んだ瞳に向けられていた男の視線が、胸元に移る。パッと手が離れた。
「ごめん! そういうつもりではなくて、つい、その心配になって」
動揺したように視線をあちこちへ向ける男の姿に少女はニコッと微笑んだ。何もかもを受け入れてくれるような、女神のような微笑みを。
「いえ、大丈夫です。もう、怖がらせたりしないでくださいよ~」
わざとむくれて見せたその表情も男の心をとらえた。頭の後ろを掻きながらついにやけてしまっていた。
「はい、もう一回膝枕しますから。今度はじっとしててくださいね」
男は素直に言うことを聞いて、柔らかな太腿の上へ顔を埋めた。フリージアの甘い香りが鼻孔をくすぐるーー。
ーーその香りは店の外に出ても男の周りをたゆたっているように感じられた。残り香とはこのことか、などと浸りながら足を家へと向ける。
お礼のメッセージを送ったところで冷たい木枯らしが吹き、淡い橙色の電灯の元でスーツがはためいた。男は身震いしながら足を進め家路を急ぐ。
家に帰るのは少し億劫だった。別段何か問題があるわけではない。妻に子ども二人、仲良くやっている。だが、繰り返されるだけの日常に、少し窮屈さを感じるときもある。これは、そんなときにふと訪れたくなる日常から離れた一時。
川瀬愛姫というその少女は、確かに可愛かった。道を歩けば目を引くような、草木のなかに混じった一輪の花のような、その美貌。




