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**********


 その日、鬼神紙都はいつもよりも早く目が覚めた。いや、正確に言うと起こされていた。けたたましいベルの音が6畳間ほどの部屋いっぱいに響き渡る。


 紙都はふかふかの枕にうつ伏せになったまま、腕だけを伸ばし喧騒の主である目覚まし時計の息の根を断った。


「……暑い」


 数秒後布団からむくりと起き上がった第一声がこれである。少し汗ばんだTシャツの襟を揺らすと僅かに心地の良い風が流れる。


 そのまま簾のようなブラインドカーテンを上げると、眩しくて熱い日差しが紙都の寝起きの顔を照らした。窓を開けると、先日までの雨が嘘のようなスッキリとした青空が広がる。


「あら、おはよう紙都」


 青空の下では紙都の母、鬼神御言が人目に付かないよう境内の裏に置いた物干し竿に洗濯物を干していた。


 南柳市で一番古く一番貧相な佇まいの「鬼救(きぐ)寺」。これが紙都の住居である。紙都の部屋は元々物置だった所をあてがわれている。


 鬼救寺の歴史について、紙都はよく知らないが、前に確かに明治以前からあったという噂を聞いたことがあった。しかし、その鬼と入った名前のせいか代を重ねるうちにそのネットワークもその建物もどんどん小さくみすぼらしくなっていってしまった。


 それでもいまだに鬼神御言の代、より正確には御言の夫、つまり紙都の父親の代まで受け継がれてきたのだ。最近では、前よりも評判が良くなってきている節もある。


 ひとえにそれは御言のおかげであった。


 紙都は、近所でも美人と評判の実年齢よりも遥かに若く見られがちなその母親の後ろ姿に挨拶を返した。


「おはよう」


「今日から学校だっけ?」


 相変わらずあっさりとした物言いだった。息子の登校日ぐらい覚えておけよ。


「そうだよ」


 憮然と答えると、御言は洗濯を干す手を止めて急に振り返った。切れ長の目に化粧をせずとも陶器を思わせる白い肌は、32歳という年齢よりももっと若く見える。


 御言はちょうど半分の年齢である自分の息子の顔をまじまじと見つめた。


「……紙都」


「な、なんだよ」


「今日から眼鏡掛けていきなさい。居間に置いておくから」


「はい?」


 突然の話に何の面白味もない返答をしてしまうのも無理はないだろう。家族であればなおさらだ。


「あなた、鬼化した状態で顔を見られたのでしょう」


 紙都の怪訝そうな顔を見て楽しげな表情を、瞳にだけ浮かべながら――つまり身内にしかわからないくらいほとんど変わらない表情のまま、御言は簡潔に説明する。


 それが紙都に「はい、そうですか」と呑み込めないのが問題なのだが。


「……えっと……どういうこと?」


 少し考えたが、わかるわけがなかった。


 御言は再び手を動かし始めた。2人分の洗濯物を丁寧にかつ手際よく干していく。


「この間あなたから聞いた話だと、1人女の子を助けて家に送ったそうじゃない」


 紙都は窓枠に肘をつき、だるそうに頭を乗せた。


「そうだけど、それが? 妖怪のしたことは時間が経つと消えるんじゃないの? 俺のことなんて覚えてないんじゃ」


 パンッと白い布が鳴った。


「そうとは限らないわ。あなた、情報収集の際に鬼化していた?」


「いや、してないけど」


 していないということは、妖怪について調べていたことがわかることだけど、帰ってすぐ消したし。


「すぐ消したから大丈夫と思ってるんだろうけれど、まだ危険性は残ってるわ」


「へ?」


「その彼女がもしメモを残していたら?」


「あっ!」


 わけのわからないメモだけが残ることになる。そのメモはそのまま捨てられるかもしれない。しかし、そのメモが何を示しているのか探し求めるかもしれない。


「だけど、まだあの女子が探すかどうかわからないし、それにこれだけ広い街なんだからわかんないって」


 御言は艶のある長い髪を揺らして深いため息を吐いた。


「……だといいけれど」





「おっはよー!!」


 久しぶりの登校でまだどことなく肌寒いようなぎこちない空気の流れる教室を一変させたのは、こんがりと黒く焼けた健康的な肌の男子生徒のこれまた健康的な挨拶だった。


 クラスにいた全員の視線がその男子生徒に向くやいなや一斉に挨拶が返ってきた。側にいた何人かは頭や肩を軽く叩き、さっそく雑談を始めている。


 二言三言言葉を交わすうちに自然と笑い声が起こり、それが伝播でんぱするように教室のあちこちから大小の談笑の輪が広がっていった。


 クラスはいつの間にか夏休みが始まる一月前のうるさいくらい賑やかな状態に戻っていた。


 入ってくるなりクラスの空気を変えた男子生徒――犬山蓮は、肩に掛けたスクールバッグを右手に提げると窓際の後ろから2番目の自分の席に進んだ。


「よっす、紙都!」


 後ろの席に座っていた紙都は手を挙げてそれに答えると、すでに話し込んでいた何人かのクラスメートの会話を終わらせ、蓮の方へ顔を向ける。


「おはよー久しぶり」


「おう、久しぶり! ……って、眼鏡!?」


 蓮はバッグを投げつけるように机の上に置くと、驚いて声を大きくした。その表情を見て突き動かされたように紙都は呟いた。


「いつも通りだ」


「あ? 何が?」


「いやーなんでもない」


 紙都は誤魔化すように笑った。


「なんだ? まだ、寝ぼけてんのか?」


「ちげーよ」


 教室はいつもと何も変わらなかった。季節は下り、外には秋の風が吹き始めても、そこはいまだ真夏の太陽のように輝いていた。ただ違うのは、紙都が誤魔化し笑いを続けているその一点だけだ。


「で、なんで眼鏡なんだよ」


「なんでって……実は俺ずっとコンタクトだったんだけど、コンタクトが壊れて。だから今コレ掛けてんだよ」


 用意した台詞をズラズラと並べて、最後に眼鏡を上げた。


「たしかに! 前の方が目が大きく見えたしな」


 じっくりと紙都の顔を眺めた後に、蓮はそう言った。


「それで、どうだった? 夏休みは」


「どうって、特に何もないけど、普通に過ごしてた」


 あの事件を除いては。あの事件以来、生まれたときからずっと育ち、見慣れたどころか見飽きたはずの場所も初めて訪れたかのように錯覚してしまうときがある。


 今このとき、この瞬間もそうだった。


「フツーの毎日か」


 急ににやけ顔に変わる。爽やかな表情とは打って変わってハイエナを連想させるようないやらしい顔だ。


 出会ってから半年近く経つが、蓮のこの表情にどうしても紙都は慣れることができないでいた。この表情そのものも嫌悪感を抱くが、それ以上に表情が指すものが紙都にとっては受け入れられないものだからだ。


「あんな美人の御言さんと毎日一緒にいられて、いいなーお前は」


 バシッと鈍い音がした。紙都は半ば本気で蓮の頬を殴った。これが紙都が嫌悪する蓮の一部分。


「またあの『エロ犬』紙都に殴られてるよ」


「バカだよなぁ。でも、なんかもうあれ挨拶になってんじゃねぇ?」


 微かな手の痛みとともに顔全体に火照ったような熱さを感じた。


「いや~なんか注目を浴びてるぜ」


 頬をさすりながらも嬉しそうに蓮ははにかんだ。


「お前のせいだろ!」


「いや、俺のせいじゃねえよ。これは美しすぎるお前の母親、御言さんのせいだ。御言さんへの熱い思いが親友に殴られても消えないくらいの――」


「わかった! もうそれ以上母さんのことしゃべんな」


 蓮は大げさにため息を吐くと、肩をすくませて見せた。状況が違えばそれなりに格好良くは見えるのだろう。


「じゃあ別の女の子の話をしよう」


「いらない」


 紙都は頬杖をついて窓の外に目を向けた。窓のすぐ下は中庭だった。真ん中にある青々と葉を茂らせた大きく太い桜の木を囲むようにところどころ禿掛けた茶色のベンチが並ぶ。


 校内からでないと入ることのできないその空間には、そろそろ始業のチャイムが鳴るというのにチラホラとカップルのような男女の姿が見えた。


「なんだ、誰か気になるやつでもいんのか?」


 蓮が窓に張り付くように下を覗き込む。


「いないよ」


 随分と冷たい言い方になってしまった。こんな風に蓮がバカをやって俺が突っ込んで、周りの友達が笑う。ワンパターンみたいに毎日がその繰り返しだった。それでよくて、それだけでくだらないけど楽しくて、……だけど今は。


「なーんか、テンション低いな、お前」


 不意に投げかけられたその一言にはっとして顔を上げると、蓮の真っ直ぐな瞳とぶつかる。肌の色に似合う茶色がかった黒眼に隠し事を見透かされそうで、紙都はすぐに眼鏡を上げて目をそらした。


「なんかあったんじゃねえの?」


「何もねーよ!」


 無理矢理声を張り上げて、笑ってみせる。


「ふーん……なあ、紙都」


「な、なんだよ」


 冷や汗が流れていた。心臓の音がうるさいくらい鳴っていた。バレるはずがない。例の事件の痕跡は全て消したのだから。それでも脳裏には早朝の御言の声が離れて消えなかった。


 蓮の口が言葉を紡ぐために大きく開いた。


「やっぱ、御言さんきれいだよなあ。今日久々に挨拶したけど、あの凛とした声に立ち居振る舞い。あれはまさに――」


 その後の台詞は声に乗せることができなかった。紙都のやや本気のパンチが再び鼻の下が伸びきったエロ犬の頬にヒットしたからだ。


「……あっ、ごめん」


 条件反射的に、しかも明らかに蓮が悪かったとしても、冗談ですまされない強さで殴ってしまった。妖怪を殺したときに似た後味の悪さだけが握ったままの右手に残る。


 ところが、蓮は笑った。まじまじとその顔を見ても、作り笑いには見えない快活な笑い顔があった。


「そうそう。それでいいんじゃね?」


「はぁ?」


「何を悩んでるかしらねぇけど、俺が何かやらかすとお前がつっこむ。お前はそれでいいんじゃね?」


 素っ気なくて馬鹿っぽい言い方だった。ただ、それは突き刺すような太陽の日差しではなく穏やかな日だまりのよう。


「……ありがとう」


 紙都は照れくさいのか横目で窓を見ながら小声で答えた。


「だー!! 男に照れられてもぜんっぜん来ないわ!! もう、やめようぜ! はい終了!」


 パンッと手を合わせて、蓮は椅子に戻った。そしてまたにけ顔になる。


「それでさあ。その女の子なんだけど。今日登校中に話しかけられたのよ。誰か探しているみたいだったなぁ」


「誰か探している?」


「そう、何だったっけ? ぬかなんとかって」


 紙都は気づかないうちに身を乗り出して聞いていた。


「いや~可愛い子だったぜ! うちの制服着てたんだけど、髪がなんつーの? なんかオシャレな感じで――」


 そのとき、ガラガラと威勢良く教室の扉が開いた。同時に女子生徒の雷のような怒鳴り声が賑やかな教室を突き抜けた。


「ヌカヅキ出てきなさい!!」


 ビクッと肩を震わせておそるおそるドアの方に目を向けると、そこには忘れもしない例の口の悪い女の子が上下紺色の大きな赤いリボンが特徴的な制服に身を包んで、弁慶のそれを彷彿とさせるように仁王立ちしていた。


「そうそう、ああいう感じの……ってあれだよあれ!!」


 興奮しながら蓮が女子生徒を指差す。


「バカ! 指差すなって!」


 紙都としてはなんとかして見つからないようにという一心だったのだろうが、焦ったゆえの大声は静まり返った教室に響いてしまった。


 緩くパーマをかけた女子生徒の髪先が揺れる。


「マジかよ! こっち向いたぞ!!」


 不穏な空気などものともせず、いや気づいていないだけなのだろうが、何も知らない蓮は呑気に手を振っていた。


「ちょ、やめろって、あいつこっちくるぞ」


「何言ってんだ? ウェルカム、ウェルカム!」


「マジでやめ――」


 紙都が止める間もなく、女子生徒はそのままのポーズで蓮の机の前に立っていた。


「あんた、ヌカヅキのこと何か知ってるのね」


 高くそれでいて凛とした力強い声。例えるならば、誰もいない体育館で奏でるフォルテッシモのピアノのような声。それは断定的なニュアンスを含んで紙都を詰問した。


「お、俺?」


「当たり前じゃない」


 いや、そこにいて俺に話しかけるのは当たり前じゃない。


「美しいお嬢さん誰か忘れてはいな――」


「あんたにはもう聞いた。黙ってなさい」


「は、はい」


 女子生徒は蓮の顔を見ようともしなかった。その眼は瞬きを忘れたように紙都の顔に当てられている。


 吸い込まれるような澄んだ深い黒色の瞳に眼鏡に隠された紙都の目は釘付けになってしまっていた。正確に言うと蛇に睨まれた蛙のように目線を外すことができなかった。


 緊張だった。まさに蛙のように極度の緊張状態が紙都の全身を支配していた。自分がつい先日有り得ないような非現実的体験に関わり、それを解決した半人半妖の存在であることが暴かれる、そのことに対する緊張。


 ……でも、それだけなのか? 何かもっと違う何かがこの緊張を引き起こしているような気がする。別の、何かもっと違う何か――紙都の脳裏に彼女と初めて言葉を交わした瞬間が映し出された。


 不意に女子生徒は目をそらした。


「な、何よ、言いたいことがあるなら言いなさいよ、ヌカヅキのこと知っているんでしょ?」


 紙都の視線が素早く左右に動いた。俺のこと気づいていない? 眼鏡のおかげか。どっちでもいいけど、母さんに感謝だな。


 眼鏡を押し込むように上げると、紙都は小さく息を漏らした。


「いや、知らないよ」


 女子生徒は目をパチクリさせた。


「知らない? 知らないのになんで私を呼んだのよ」


 怒気を含んだ声音に冷や汗が流れる。


「それは、コイツが呼んだから、俺は別に……」


「呼んでいない? あーそー、じゃあ、なんで慌ててたのよ」


 いきなり教室に乗り込んできて大声を出す女を呼ぶやつがいれば誰だって焦るだろ――と嘘を突き通す程の自信はなかったから、一番簡単な方法を取ることにした。


「何黙ってるのよ? 知ってるんでしょ?」


「いや、知らない」


「嘘よ! 知らないなら慌てる必要ないじゃない、他に理由があるならそれを話しなさい」


「何も」


 何も答えようとしないことにしびれを切らしたのか、ムスッとした顔の女子はその顔をさらに怒り顔に変えると、組んでいた腕を解いて机に叩きつけた。



「いい加減にして!! なんとか答えたらどうなのよ!!」


 それでもじっと動かずに、紙都は女子生徒の顔をぼんやりと見上げていた。直接目を見れるほど冷静ではない。冷や汗はそのまま変わらず、震えを押さえるために握り締めた手の指はじっとりと汗ばんでいた。周囲のクラスメートの視線が自分に注視されているのを感じる。


 女子生徒の口が再び開かれる。だが、そこから声が漏れ出る前に馴染み深い学校のチャイムが機械的に鳴った。紙都の身体が緩やかに弛緩する。


 髭面の清潔感のない担任が教室に入ってくると同時に、女子生徒は何事もなかったかのように机から左腕を離した。


「昼休み。オカルト研究部に来て。柳田沙夜子と言えばわかるわ。じゃあね」


 穏やかな笑顔を浮かべてそれだけ言うと、女子生徒は担任に少し頭を下げて早足で教室から出ていった。


「なんだ、なんだ~告白か? 鬼神!」


 女子生徒を追っていたクラス全員の目が担任に向けられた。


「いや~違いますよ」と紙都は無理に明るく答えた。答えるしかなかった。


 中庭の大木が突風に激しく揺れた。

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