陸
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橋の下に戻った怜強は、自分の腕を改めて見つめていた。
切り落とされたのは間違いがなかった。現に右腕の先、再生した手には産毛も含めて毛が全く生えていなかった。新しく創られたばかりのその手はしかし、従来そこにあったかのように馴染み、意志通りに動く。自分の意識とは反対に。
記憶は、やはりなかった。いや、うっすらと夢を見ていたみたいに朧気に、切り取られた場面場面は脳裡に辛うじて引っ掛かっていた。
その映画のカットのような情景を思い浮かべるに、御言の結界陣から解かれた自分は、猛然とあの羅城門の鬼へと立ち向かっていった。そして、右腕が再生すると同時に吹き飛ばしていたのだ。ーーということは、わかっていたことになる。自分の手がどの程度の時間で回復するのかを。
それはきっと本能に刻み込まれた情報。そして意識が本能に乗っ取られることも、ただひたすらに殺戮を愉しむことも。
怜強は羅城門の鬼の顔を浮かべた。歯を立てたときのあの嬉々とした顔を、恐怖にひきつった顔を見たときのあの愉悦の表情を。ーーあれが、俺なんだ。
意識が乗っ取られる前に御言を突き放したが、そうしなければ拳は御言に向かっていたかもしれない。それだけは許されないことだった。
(さあ、しかし、どうするか……)
腕をだらりと下げると、怜強は地面に座り込んで腕を組んだ。
特徴的な足音が遠ざかっていったのを考えると、敵は、おそらく結界陣に縛られることなく逃げていった。御言は、その咎めを受けるだろう。危機的状況だったとはいえ、もっと上手く立ち回れていればーー。
「くそっ!」
地面に拳を押し付ける。鬼にならなければダメージを与えることすらできなかった。いや、不意討ちが成功したからよかったものの、あれがなければ本気になったとしても羅城門の鬼には敵わない。
(どうすればいい? どうすれば倒せる?)
このまま御言の足手まといになることだけは許せなかった。
近付いてくる足音に気がつかなかったのはあまりにも感情的になっていたからかもしれない。
「……怜強」
そこには雨に濡れ、血塗れのままの御言が幽霊みたいに立っていた。
「御言! なぜここに!?」
急いで立ち上がると、首を左右に振って周りに誰もいないことを確認する。
「京極家の意にそぐわないことを犯してしまったから」
「……すまない」
予想通りの結果になってしまったことが、悔やまれた。
「いや」
御言は濡れた髪を左右に分けた。
「怜強は悪くない。私だけでは到底歯が立たなかった。怜強がいたからこうして無事でいられる」
怜強の横に並ぶと、御言は体の力が抜けたかのように地面に座り込んでしまった。立てた膝に顔を埋める。
「怜強は間違っていない。私も間違っていない。ただ、敵があまりにも強大過ぎたんだ」
怜強も御言の横に座ると、その様子を心配そうな瞳で窺う。
「御言、その、血塗れにしてしまってすまない」
「血塗れ?」
顔を上げた御言は、服を引っ張り状況を確認するとうっすらと本当にうっすらと微笑んだ。
「忘れてた。大丈夫。怜強の血だから気にならない。それより、怜強こそ体はもう治ったの?」
「ああ、見ての通り完全に治癒してる。鬼の力を実感してたところだ」
「鬼のくせに?」
「ああ、鬼のくせに」
自然と冗談を言い合い、怜強が微笑むと御言もまた微笑んだ。その笑顔を見れたことが、怜強の中に晴れた日の陽だまりのような暖かさを生んでいた。
「怜強。少し休ませて」
「ああ」
御言はまた膝に顔を埋める。聞きたいことはたくさんあった。京極家の状況や今後の対策、そしてもう一体御言を襲った妖怪の行方ーーだが、今は休息の時間だ。柔らかな細雨が二人の空間をひっそりと包み込んでいった。
怜強は何かの振動で目を覚ました。いつの間にか眠っていたのかと思う間もなく、御言の顔が自身の肩に乗っていたことに心臓が跳ねた。改めて見るその顔は十五歳とは思えぬほど端整に造られていて一種の花のようだ、と怜強は思った。
ややあって御言もその振動で目を覚ます。懐で震える携帯を開くと、名前を確認して即座に出た。
「もしもし」
「御言様大変です!! 屋敷が! 屋敷が妖怪に襲われています!」
弾ける声に二人は同時に立ち上がった。梓の声の背景から何かが燃える音と人々の雑多な足音、それに悲鳴が聞こえた。
「御言様を襲ったあの、ぬらりひょんが! 鬼に襲われた女性に化けていて!! とにかく助けが! 至急お戻りください!!」
それで電話は切られた。御言の脳裡にはいろんな感情や思考が飛び交っていた。それを止めたのは怜強の力強い手だった。怜強は御言の腕を掴むと、走り出そうとする。が、急に体が動かなくなり前のめりに倒れていった。
「御言何を!」
「ごめん、怜強。私は、あなたを巻き込めない」
長い黒髪は雨の中を消えていった。