伍
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「怜強!」
声が聞こえたのか羅城門の鬼が御言にいぶかしむような視線を向ける。注意が逸れた瞬間を狙って、怜強が顎目掛けて左拳を振り上げた。
その攻撃を読んでいたのか、咄嗟の反応か判別できないが、鬼は僅かに体を後ろへ反らす。が、それは上手くいかなかった。
手を突き出した御言の技が鬼の動きを封じていたからだ。怜強の渾身の一撃は見事にその頑強な顎へ命中する。そして、続けざまに負傷した右手も交えて連打を食らわせた。無防備になった体へ叩き込まれた一連の攻撃に、さすがに羅城門の鬼も呻き声を上げて体を傾ける。
「倒れろ!」
その瞬間を見計らっていたように、怜強は跳び上がり顔面に回し蹴りを放った。鈍い音が発せられ、鬼の首が明後日の方向に曲がった。そのまま、鬼は濡れた地面へと崩れ落ちていく。
怜強も地に膝をついていた。息を切らせながらも顔は上げたまま羅城門の鬼を見据える。まるで、立ち上がるなと念じるように。
「……嘘……」
陣を張り続けていた御言は思わずそう漏らしてしまった。あれだけの連撃を受けたのだ、首も骨が折れたように曲がっているーーにも関わらず、鬼はゆらりと立ち上がった。時間にしてたった数秒間。
怜強も脚を震わせながら立ち上がろうとしている。噛まれた右腕は血は止まったもののどす黒くなっており、どう見ても限界が来ているのがわかった。
鬼はにぃっと悪寒が走る気持ち悪い笑みを浮かべると、自らの手で曲がった首を直した。まるで、こわれた玩具を乱暴にくっ付けるように。
鬼の本当の恐ろしさは、その腕力や破壊衝動ではない。その再生能力の高さ。御言が術を重ねると一瞬動きが鈍るものの、またすぐに強大な化物は動き始める。ーーだからこそ、退治することは叶わず、現在まで生き延びてきたのだ。
もう止めることができない。そう悟ったとき、怜強が雄叫びを上げて立ち上がった。
また正面からの突進。どう考えても敵うはずがない。もう止めて、という悲痛な心の叫びも虚しく、怜強の攻撃は何ら痛打を与えることなく、無惨にもその腕から先は、手刀によって空高く弾き飛ばされた。御言の顔にその血が雨に当たったかのように飛び散る。
追い打ちをかけるように鬼は怜強の頭を掴んで持ち上げた。抵抗しようにもその拳は届かず、一周振り回された上に地面へと投げ棄てられる。
駆け寄る御言が見たのは、息の代わりに血を吐く苦渋の顔。
怜強は、絞り出すように喉を鳴らした。
「俺の……結界を……解いてくれ」
「結界」
そうか。怜強を覆う結界から解放されれば、鬼本来の力を取り戻す。おそらく、同じ鬼であるために備わっているはずの、その驚嘆すべき回復力も。
「わかった」
御言は躊躇うことなく、地面へ座り込むと、怜強の頭を自身の膝の上に乗せ、手を翳した。途端に怜強の角張った顔に付けられた無数の裂傷や打撲傷が小さくなっていく。土気色だった顔には赤味が生まれ、その大きな瞳に生気が宿っていく。ーーそして、同時に狂気をも。
(え……?)
怜強は起き上がり様に御言を残った左手で突き飛ばした。水溜まりへと着水した御言がその冷たさを感じるまでにはやや間があった。
血の雨を降らしながら曇天に向かって吠えるその咆哮を聞いて、御言はわざと怜強が自分を突き飛ばしたことに気がついた。満身創痍だった怜強は、殺戮と残虐をその本性とする鬼に戻り、羅城門の鬼に向かって形振り構わず三度突進していく。
余裕の笑みを浮かべて待ち構える鬼の零距離に到達した怜強は左腕を後ろへ引く。腕を交差し、防御姿勢を取るーーその鬼の予想と反応を裏切って、身体を捻らせると、怜強は斬り飛ばされたはずの右腕を振り抜いた。交差した腕に当たる直前に急再生した右拳は、衝撃音とともに受けた鬼を吹き飛ばした。
予想外の一撃に成す術もなく耳障りな声を上げながら羅城門の鬼は地面へと倒れ込んだ。
「御言様!! 大丈夫ですか!?」
応援が駆け付けたのはちょうどそのときだ。御言と同じ白装束に身を包んだ五人の男女が、鬼を中心に円を形作るように現れると、同じタイミングで手を前に突き出した。
(まずい……!)
この状況で五蘊結界が張られてしまえば怜強もろとも封印されてしまう。御言は咄嗟に怜強に駆け寄り、その後ろ髪目掛けて結界を張った。
「御言様!?」「何をしているのです!」
陣の中に御言がいては、陣をつくることが叶わない。その間に目の色が戻った怜強に一言「逃げて」と御言は伝えた。
怜強は頷くと大きく跳躍し、陣から抜け出した。だが、時間があったのは怜強だけではない。
「うるぐがぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
耳が痛くなるほどの唸り声にその場にいた全員が耳を塞いだ。羅城門の鬼が脚の反動で起き上がると、地面が揺れ、白装束が体躯を崩す。
起き上がったそのときには、 もうそこには何者もいなかった。
「くそっ!」「逃した!」
地面に拳をぶつけ、地を強く踏み、舌を鳴らし、悔しがる京極家の面々はすぐに視線を御言に向けた。封印の邪魔をした足手まといを見るような侮蔑した視線を。
「どういうことですか御言様!!」「私達からは鬼を庇ったように見えましたが」
「それは……」
御言は何も弁明することができなかった。咄嗟の行動だったとはいえ、明らかに封印されそうになった怜強を庇い、逃したのだから。それも羅城門の鬼を封印できたならまだお咎めがなかったかもしれない。だが、鬼をみすみす逃してしまった上、別の鬼を庇ったとあれば追及は免れなかった。
視線を宙に泳がせた御言の目に、よく知る二人の顔が映った。京極家の歴史でも珍しい双子の上段ーー楓と柊の姉妹だ。
二人は一足跳びで横に並ぶと、勝ち誇ったように暗闇でも目立つ紅を引いた唇を歪ませた。
「残念どしたなぁ。御言はん。愛する男は鬼どしたか。御言はんのようなお人でも愛欲に溺れることがあるんやなあ」
「それは違う! 私はそんな気持ちで接したわけではない!」
しまった、と自身の発言に驚愕したときにはもう後戻りができなかった。一斉に集中砲火が浴びせられる。
「やはり、鬼を庇ったのか!」「なぜですか!? あれは人間に害をなす鬼ですよ!」「これ以上の犠牲があれば、どう責任をとるおつもりですか!?」
何も言うことができない。どんなに言い返しても、自分のしたことが失態だということには何ら変わりはない。だが、それでも、御言は怜強への誤解を解かないわけにはいかなかった。
「あの鬼は、我々の知っている鬼ではない。人間を傷つけることを恐れ、涙を流すような鬼だ」
「なにを呑気なことを言うてはるんですか。鬼は鬼どすえ。鬼と交わって御言はんも妖になってもうたんですか?」
嘲るような楓の声音こわねにも御言はたじろがなかった。人間と妖怪は相容れない存在。だからこそ、もうずっと何百年以上にも渡って京極家は戦いの渦中に身を置かなくてはいけない運命を背負ってきた。ところが、その前提が崩れれば運命から逃れることができるかもしれない。少なくとも、別の道を提示することは。御言にとって、自分とともに羅城門の鬼と共闘した怜強の存在は、もはや暗闇の底に届く一筋の月の光のような儚い希望になっていた。
幼い頃から何度も遭ってきた中傷に差別。隔絶された自分達と違う存在に対する奇異な視線に我慢することなく、隣で座っていられるそんな世界が築けるかもしれない。そしてまた、あの強いくせに人一倍弱い鬼の涙を見なくてすむかもしれない。
「あの鬼ーーいや、鬼神怜強はただの鬼ではない。我々とともに生きることのできる妖だ」
まだ背の低い、幼い頃の自分に言い聞かせるように柔風にも似た声を出すと、御言は背を向けた。
「救護班が来た。襲われた女性と目撃者を屋敷へ運ぼう」
地面に横たわり気絶したままの女性の元に早足で向かう御言へ、慣れ親しんだ声が掛かった。
「御言様! ご無事でしたか!」
「梓……」
味方が駆け付けてくれたことに内心ホッとした御言は、足先を声の主に向けた。走り寄ってきた梓は、御言の手を握り、頬を触り、その無事を確認した。
「御言様、血が出てますが……?」
「ああ、これはーー」
「それは退治し損ねた鬼の血です。御言はんが愛して愛してやまへん鬼の」
「梓! これは……」
言い訳は立たない。御言は言葉を続けることなく俯いた。自分のことを一心に想い育ててくれた梓がどんな思いで柊の言葉を受けたのか、確認することが怖かった。ところがーー。
「楓に柊。御言様になんて口を聞くのですか! 御言様は、現当主が目を掛けたお方! 御言様への侮辱は当主への侮辱!」
(……梓……?)
顔を上げた御言の目には、まるで自分に言われたかのように真っ赤な顔をして怒る梓の姿が映った。
「しかし、現に御言はんが鬼を庇いはったからみすみす羅城門の鬼を逃がしたんどすえ。この責任はーー」
「御言様が羅城門の鬼を早期に発見したから、今回の被害は免れたのです。それにこんなになるまで戦っていたんですよ。貴方一人でも羅城門の鬼に立ち向かっていけましたか?」
「それは……」
楓と柊は互いに気まずそうに目を合わせるものの、何も反論することは叶わなかった。
梓は肩の力を抜き息を吐くと穏やかな瞳で御言に向き合った。
「御言様。事情はわかりました。ここにいては要らぬ中傷と追及を受けるだけ。当主のお声が掛かるまでどこかへ身を隠してください」
「なんで。どうして何も聞かないの?」
御言は驚いたまま梓の皺の寄った目尻を真っ直ぐに見た。
「簡単なことです。私は御言様のことを信頼していますから」
信頼。その言葉とともに御言は梓に送り出された。