肆
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(……来た)
弱まった雨音に混じって足音が近づいてきた。今時珍しい唐傘が雨粒を弾く音も聞こえる。
鬼神怜強はおもむろに立ち上がると、その方を見た。赤い唐傘の中にしっとりと伸びる黒髪が視界に入る。
「御言――」
「待て」
労いと歓迎の言葉でも投げかけようかと名前を呼んだ矢先に、風を切るような鋭い口調で止められた。
「怜強、お前は本当に怜強か?」
妙な質問をするな、と怜強は思った。だが、近づいてくる引き締まったその表情を見て、すぐに何かあったことを察する。怜強は確信を持って強く頷くと、「何があったんだ?」と逆に御言に質問した。
「結論から言うと、妖怪が現れた」
傘を閉じ、付いた雨水を落としながら御言は早口で状況を説明する。
「件の鬼ではない。別の妖怪――ぬらりひょんと名乗っていたが――が、京極家の屋敷を襲撃した。具体的な狙いはわからないが、人間から妖怪を解放するのが目的のようだ。現時点で確認できるところですでに二名――京極紋奈と京極玄都、どちらも私の親だが、が殺されている。鬼との関係性もわからないが、そいつは殺した者の皮を被り、成り済ます能力を持っているため、怜強、お前がお前のままか確認した、というわけだ」
そこまで言って御言はようやく息を吐いた。怜強の目には、そんな御言の姿がひどく小さく見えていた。雨に濡れた子犬のそれのように。
「いろいろわからないけど、御言、大丈夫かい?」
「大丈夫だ。大丈夫じゃなければここへは来ない」
怜強の力強い大きな瞳は、御言が自嘲気味に口元を歪ませたのを見逃さなかった。
「大丈夫、だと言うなら、なんで俺に大事な情報を話したんだ。それに、両親が殺されたことも。御言、俺に親はいないから断言することはできないけど、少なくとも今の君は肉親が殺されたことに動揺しているように見える」
「動揺など……していない。確かに殺されたことは無念だが、もはや嘆いても仕方のないこと」
その声は湿り気を帯びていた。
「ならなぜ、声を震わせる!」
「声など震わせていない! 私は、京極御言! 妖怪が出た以上、何よりも率先して迅速に対応しないといけないんだ!」
怜強は声を荒げる御言の肩にそっと手を置いた。
「そしたら、なんで今、御言は泣いているんだ?」
その言葉が御言を抑え込んでいてた分厚い蓋を砕いた。後から出てくるのは沸き上がるような情動から生まれる涙。
「泣いてなんか……いない……これは、雨だ」
「そうか。なら、雨が上がるまで待っていることにしよう」
囁くように、密やかに。なるべく優しく聞こえるように言葉を届けると、怜強は御言の手から唐傘を取って開いた。傘の下で滴る雨は、鮮やかな赤色に囲われて終ぞ外に漏れることはなかった。
「ーーもう、大丈夫。こんなことをしてる場合ではないんだけど」
御言の冷たい手が傘を持つ手に触れると、怜強は傘を閉じた。
「御言。ここでずっと考えていたんだけど、その妖怪退治、やっぱり俺にも手伝わせてくれないか? 敵はもしかしたら二人いるかもしれないんだろ? なら、きっと、俺も役に立てるはずだ」
言いながら、一瞬でも自身が妖怪であることを忘れていた自分に怜強は気づいた。妖怪が人間の味方をし、同じ妖怪を倒そうと考えているのだからおかしな話だ。ーー妖怪とか人間とか関係ない。自分に名を与えてくれた、自分の前で泣いてくれた御言を守らなければいけない。
「……けれど……」
御言は躊躇うように怜強を見上げた。泣き腫らしたばかりの赤い目に見つめられて、怜強の心臓が早鐘を打った。おそらく、御言が逡巡しているのは、鬼と行動を共にしていたことで咎められる恐れではない、自分に危機が及ぶ可能性のあることだと、なぜか怜強は確信していた。
異変が起こったのはそのときだった。よく深く注意しないと聞こえないほどの小さな声が二人の耳に届いた。
「聞こえた?」
「ああ」
二人は顔を見合わせた。雨に消え入りそうなその微かな声は、何度も何度も繰り返される。それが甲高い女性の声と気がついたとき、二人はどちらかともなく走り出した。
橋の上にのぼったところで怜強が立ち止まり辺りを見回した。
「声はどこから聞こえたんだ!?」
「真っ直ぐ! あの橋の向こう!!」
走りながら御言の頭は急回転し始めた。あの方向には確か寺院があったはず。……夜とはいえ人がいる可能性が大きい。もし、あの声が妖怪に襲われている声だとすれば、被害がさらに拡大するかもしれない。
近付くにつれて声は大きく、そして切れ切れになっていく。
「! 怜強!?」
怜強は御言を追い抜き、なおも緩めることなく逆に走る速度を上げて声のする方角へと急ぐ。一刻も早く向かわなければと心が焦る。
その声がはっきりと聞こえると同時に怜強はその原因も視認した。それは自身よりも一回り、いや二回り大きい鬼。
それは必死に逃げ惑う若い女性をついに捕まえると、放すまいと握った両手を口に近付ける。
「おい、なんやあれ!?」「え、映画の撮影やないの? でも、カメラ見えへんけど……」
複数の一般人の姿も確認するものの、怜強は御言を待っていられるほど強くはなかった。
「やめろおおお!!」
突進。姿をさらけ出してそのまま特攻するあまりにも無謀な策。だが、その鬼は敵意の存在に気づき女性を放り投げると、迎え撃つかのように腰を落として体勢を整えた。
事態に気づき、騒然とし始めた人々の間を真っ直ぐに走り抜けると、怜強は拳を強く握った。武器などない。一対一の戦いにおいて頼れるのは己の体一つ。
勢いに乗ったまま渾身の拳打を相手の左腹部にぶち込む。そのまま真上に跳びながら左手で掌底を見舞い、回し蹴りを胸に当てた。全身赤毛で覆われた鬼は後ろへと吹き飛び、派手な音を立てて寺の外壁に突っ込んでいった。
だが、手応えは全くなかった。
怜強の予想通り鬼は平然と起き上がり、肩と首をぐるんと回す。鬼は拳を前に出すと、戦闘体勢を取り、そして動いた。
地を揺らしながら怜強と同じように突進してくる。動きは遅いが、その分全身についた筋肉は怜強の比ではなかった。人の体格に近い怜強と違い、向かってくるのは完全なる鬼。鬼は後ろに半身を捻ると、顔が歪むほどの風圧とともに重い一撃を怜強の顔に叩きつけようとした。
しかし、次の瞬間には鬼は宙を舞っていた。すんでのところで殴打を避けた怜強が懐に入り込み、鬼を投げ飛ばしていたからだ。
背中から地面に激突した鬼は、さすがに苦悶の声を絞り出す。
(今だ!)
連打を叩き込もうと両拳を振り上げる。が、腕が鬼の強腕に押さえ付けられ、 微塵も動くことができなかった。
鬼の目が怪しく光る。鬼は頭を持ち上げると、掴んだ腕にその尖った牙を突き付けた。
「ぐぁぁぁ!!」
怜強の腕から血が噴き出した。鬼は下卑た嗤い顔を浮かべさらに歯に力を込める。徐々に肉が引き千切られていく音が怜強の痛覚をさらに刺激する。
|もがけばもがくほど歯は食い込んでいく。それに加えて鬼の手ががっしりと腕をつかんだまま動きようがない。このままじゃダメだ、それならーー。
怜強は足で鬼の腹を踏むと、後ろに全体重をかけた。鮮血が勢いよく飛び散り、歯が肉と皮を貫通しようと歪な音を立てる。ーーこのまま、腕が取れれば楽になる。
「怜強!」
御言の声が弾けた。
走り寄ってきた御言が手をかざすと同時に鬼は動きを止めた。その隙に口をこじ開けて腕を引き抜くと、怜強は御言の横へ跳んで鬼と距離を取った。
「怜強、止血しないと」
御言は腕をぐっと強く押すも、流れ出す血はすぐには止まらない。その血が白装束を汚していくのを見て、怜強は御言の手から腕を振り払った。
「これくらい大丈夫だ。それより、どうすーー」
耳をつんざくような咆哮が辺り一帯を震わせた。言葉も思考も中断させられる。結界が破られたのだ。
「細かく話し合っている時間はない! 御言、俺が戦っている間に何か策を考えろ!」
おもむろに立ち上がった鬼に向かって再び怜強は特攻を始めた。
「待って!」
御言の叫びは聞き入れられることなく、拳と拳がぶつかり合う。夏の花火に似た火花が、散るように。腕を振るう度に、身体を動かす度に飛び散り、流れ落ちる赤い血を御言は正視することができなかった。
無茶だーー。御言は懐から二つ折りの黒一色の携帯を取り出すと、梓へと電話をかける。一秒足らずして梓が電話口に出た。
「はい」
「梓。火急の連絡。当主に伝えて、件の鬼が出た、と」
それだけ言って電話を切ると、周囲の状況を確認する。境内へ続く階段下に、たぶん襲われた女性が一名気を失って倒れている。怜強と鬼が争う向こうには、観光客らしき男女が複数人。これだけならば、救護班で対処可能。ならばーー。
御言は両耳にその長い黒髪を掛けると、件の鬼ーー羅城門の鬼に向かって地を蹴った。