弐
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夜が更け、空が白み、烏からすが鳴き始めた頃にようやく怜強は眠りについた。自分が自分じゃなくなる恐怖から、一時ではあるものの逃れることができ、怜強はほとんど初めてと言っていいほどの深い眠りにつくことができた。
突然、自分を認識したのは、つい最近のことなのか、遠い昔のことなのか、怜強には知る術がなかった。世界が忽然と姿を現したのは、混沌とした意識の中のほんの一部。目覚めるたびに、場所も季節も変わる。変わらないことと言えば、ボロ切れのような古びた布の服と一人だということのみ。
だが、今回、目覚めたときは、その後者が当てはまらなかった。
雨音とともにぼんやりとした夜闇に見えるのは、印象的な赤い紅い傘。傘が上がると、そこには美麗という表現が相応しい御言の顔があった。しかしその表情は深く沈んでいるように見える。
どうしたのか、と問う前に御言が左手を翳した。
「当主から討伐命令が下った。対象はーー鬼だ。市中の住民が何名か襲われたとの報告があった」
怜強は飛び起きると、御言の傘を掴んだ。
「待って。俺は何もしていない」
「だが確証はないのだろう。なんせ暴れ回ったときの記憶が怜強にはない」
傘で目元を隠すと、御言は左手に力を込めた。微かに震える手を隠すかのように。
そのか細い手に怜強の大きな手が重なる。
「……何の真似だ」
「何って、震えてるように見えたから」
「……このまま術を発動させることもできるんだぞ? 手だけ陣で囲んで傘の柄で叩き潰すこともできるかもしれない」
「御言は、そんなことしないよ」
重ねた手を優しく握って怜強はそう言った。細雨が頭上の橋に落ちる音だけが二人を包んだ。どちらとも微動だにしないまま一分程が経過し、どこかで雷が鳴ると同時に手が離れた。
一気に大粒の雨が降ってくる。傾けた傘の影のなかから双眸が覗く。
「信じていいんだな」
「ああ、もちろん。むしろ、協力させてくれないか? 自分で無実を証明したい」
「それは、無理だ。もし、怜強が私といるところが誰かに見られれば、その時点で陣に囲まれる。複数の結界陣に囲まれれば、いくら怜強でも破ることはできない。封印か消滅かわからないが、一瞬でことは終わる。鬼の正体が判明するまで、怜強はしばらくここで身を潜めていてくれ」
早口で捲し立てて踵を返した御言の腕を、怜強は強く掴んだ。
「待って。それで御言は大丈夫なのか?」
「大丈夫。私は、京極御言だから」
そっと怜強の腕から逃れると、御言は振り返らずに言い切った。雨が傘に降り注ぎ、急に騒がしくなった。季節を間違えた蝉が一斉に鳴き始めたかのように。
「御言。無理はしないで。君はもう俺の命の恩人なんだから」
その呼びかけに応えることなく、御言は雨の中に姿を消した。その背中がなぜか寂しそうで儚げで、意識的に足を地に張り付けておかなければ、身体が勝手に動いて全速力で後を追いかけていきそうだった。
倒せるのか? 御言に。たぶん、件の鬼は俺なんかよりも遥かに強大な力を持っている。結界陣は確かに強力な術だが、完全に鬼になっていた俺ですら破ることができたなら、その動きを封じることなんでできやしない。かといって今の俺が加勢したとしても。
怜強は右拳を地面に叩きつけた。地面にひびが入り、やがて抉られ、礫塊されきが飛び散る。
勝てるかどうかなんて関係ない。
「御言には悪いけど、戦いになったとしたらじっとなんてしてられない」
抉った地面の上に胡坐をかいて座ると、腕を組んで怜強は強く目を瞑った。雷鳴と雨音の中に起こる異常を見逃さないように。