壱
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雨が降っていた。柔らかく音もなく降る秋雨だったが、身体が芯から冷えるような冷たい雨だった。
ぞくりと全身の毛が逆立つような感覚を覚え、京極御言は数百メートル先を見据えた。
灯りがなく真暗な闇の中にぼうっと蜃気楼のように浮かび上がる赤橋の奥に「何か」がある。「何か」、とあえてそのものの判断を避けたのは、下手な先入観から起こる不意打ちを避けるためだ。
京極家の技は守りの技。ゆえに相手を冷静に分析してからことを運ぶのが最良の手。幼い頃から叩き込まれたその術を、図らずも御言は実践していた。
紅の塗られた唐傘をそっと閉じる。まさか一日のうちに二回も怪異に出逢うとは、と己の運命を呪いながらも、その足は躊躇うことなく前へ歩んでいた。
「何か」が動く気配はない。足音に気づかれていないのか、あるいは聞こえない種類のそれなのか。
御言は先刻、まさに妖あやかしに取り憑かれた自分とさほど年の変わらない思春期の少女と対峙していた。この頃の年齢で、それも少女とくればさほど珍しいことではない。占いや都市伝説など、多感な少女の時期には、そういった類いのものに接近しやすいからだ。
案の定、京極家へヒステリックに依頼をしてきた老舗呉服屋のその娘は、占いにどっぷり嵌まっていたようだった。数え切れないほどの占いを試していくうちに、それらの者に接近され、入り込まれていた。なるほど、確かに目は鋭利な刃物のようにつり上がり、常に奇妙な笑いを浮かべたその顔は、生来の人のそれとは違ったが、中に潜んでいたのは低俗なものたち。結界陣を指先に纏い少女に触れただけで、それらは少女の体から逃げ出し、すぐに塵となっていった。
事前に写真で見た通り、黒髪の似合う可愛い娘だった。幼さの残るその顔をじっと見ていると、随分と自分よりも年下に見えた。やはり、育った環境がまるで違うから、か。
その橋へと足を掛けるとさすがに音が響く。「何か」の影も音に気がつき、夜闇からその姿が分離した。御言は白装束の袖の下から細長い手を引き出すと、傘を投げ捨て、走り始めた。
影もこちらへと体の向きを変えて身構える。それは驚くほどの巨体だった。2mは優に超え、膨れ上がった筋肉が威圧感すら漂わせてくる。何よりも特徴的なのは、その頭部に備わった二本のーーおそらく、角。
その正体を知るや否や、御言は風を切るような勢いで右手を突き出した。
刹那。見えない方陣が押し寄せそれを縛り上げる。
京極家が、妖怪と対峙してきたその長い歴史が編み出したのは、敵を殲滅する剣ではなく、人間を守るための盾だった。それは、しばらくするとなぜか記憶から抜け落ちるという妖怪の特徴とも合致して、妖怪を人間世界から遠ざけることに役立っていた。
妖怪封じのその技術ーー結界陣は、陣に入った妖怪の力を著しく減少させる。弱い者ならば形を保てずに消滅してしまうほど。
だが、御言の目の前の妖あやかしは、その結界を破った。
間近で発せられた咆哮が鼓膜にダメージを与えて、耳から血が飛び出る。 痛みに顔をしかませながらも、橋の上に着地すると同時に御言は次の行動に移った。
結界陣は、その面積に応じて封じる力が変わってくる。小さければより強力に、大きければ弱まる。
だから御言は脚だけに狙いを定めてもう一度濡れた地面を滑らせた。
(動きを封じれば応援を呼んで対処できる……!!)
再び手をかざした御言の動きは、はたと止まった。瞳が眼前の出来事を正確に処理しようと大きくなる。同年代からは気味が悪いと言われるその深い黒色の瞳の中で、確かに二筋の涙が光った。
鬼が、泣いている。
そう、二本の角を持つ巨体の妖怪ーーそれは紛れもなく鬼だった。数ある妖怪のなかでも、象徴的な存在。その力、残虐さにおいては他に例のない最強最悪の妖怪、それが鬼。
情けの欠片すらないはずの鬼が、今、大粒の涙を流して泣いている。
急速に痛みが和らいでいくとともに雨が、戻ってきた。その涙に呼応するかのように絶え間なく降り続く霧雨の中、気がつけば御言はその手を下ろしていた。そして、気がつけばーー。
「なぜ、泣いている?」
自分の口が勝手に動き、敵かたきのはずのその存在に、問うていた。それは、とっくに失くしたはずの涙の理由が聞きたかったからなのか、過去、幾多受けてきた傷を思い出したからなのか。
「……わからない」
鬼は答えた。思いの外高いその声は、雨粒を辿って御言の耳に入り込む。
「わからないんだ、自分がなんなのか。誰も傷つけたくないのに、みんなが傷ついていく。君も、すまない、耳が……痛いだろう?」
痛みなど忘れてしまうほどの、まさに雷に打たれたような衝撃が、御言の身体を貫いた。鬼が謝るなどという事象は今まで身につけてきた判断の外にあった。
「お前、名は何と言う?」
男はゴツゴツとした太い手を額に当てると、苦しそうに首を横に振った。
「わからない。名前なんて付けられたことがない」
名前が……ない……? 親がいないということか。御言の脳裏に浮かんだ疑問は、すぐに自身の経験によって打ち消された。そもそも、妖怪が人間と同じように種を育む存在なのか明確になっていない。だからこその妖怪なわけで、何を考えているんだ、私は。
しかし、その思いとは反対に御言の足は一歩前に進んでいた。
「ならば、なぜここにいる」
見上げるその瞳には強い意志が宿っていた。批判でも攻撃でもない、純粋な強い興味。こんなにも誰かに興味を持ったのは久しぶりのことかもしれない。ーーその相手がまさか鬼とは皮肉なことだが。
「わからない。本当に何もわからないんだ。今の君の不思議な力で意識を取り戻したんだけど、またすぐにわけがわからなくなってしまう。そしたら、また君を攻撃してしまうかもしれない」
「人を傷つけることを恐れる鬼か……」
「なに?」
「いや、なんでもない。それよりここで話していては目立つ」
不思議な気持ちだった。本来ならすぐにでも駆除あるいは封印しないといけない対象にも関わらず、御言はもっとこの鬼らしくない鬼と話をしていたいと思ってしまっていたのだから。
おそらく、今の話からすると妖怪の力を弱める結界陣の効果で、鬼の力が抑えられ、男の意識や理性といったものが発揮されている状態に置かれている。そのことを口早に説明すると、男も納得したのか、御言の後に続いて橋の下へくだっていった。
道を往来するものにとっては死角となるここでなら、周りの目を気にせずに会話を交わすことが可能だった。男にとってはもちろんのこと、京極家の名前を背負う御言にとっても鬼と隣り合う状況は誰にも知られるわけにはいかない。
「私は、京極御言。伝統ある妖あやかし退治を生業とする京極家の人間だ。歳は今年で十五になる」
そう、忌まわしき十五の歳。京極家の者は、十五になると各々の能力に応じた職務を決められる。基本的に一生変わることのない職務を。身体能力に優れ、結界陣の扱いに長けたものは大きく上段、中段、下段に分かれる実戦部隊へ、実戦にそぐわないと認められたものは事務職や世話役に回る。幼い頃から才能を発揮していた御言は、そのなかでも特別な最上段、そして次期当主への道が半ば約束されていた。
「京極……御言……」
「そうだ。仰々しい名前だろう。御言なんて神の使いにでもなったような名前だ」
この名前のせいで、名前だけで、どれだけ周囲の人間から特別視されてきたことか。「あれは京極の子」「京極御言って呪いでもかけられそう」ーー瞬間、身体に染み付くほどの不躾な視線の嵐が蘇る。幼い頃から修行に明け暮れ、鳥籠の中で育てられた私は、物心ついたときにはもうすでに人と違う道を選択せざるを得なかった。どれだけ近付きたいと願っても、周りが離れていくのだから。京極家それ自体が妖怪みたいなものだ。
「確かに。だけど、君は京極御言っていう感じがする」
「……何を言ってる?」
「意志が強そうで力強くて。そんな感じの音の響きが君らしいというか。ただの第一印象に過ぎないけれどね」
これには御言もポカンと口を開けることしかできなかった。微笑を浮かべたその男の表情からは、からかうでもなく実直に本当にそう思ったんだなということが見てとれた。
「お前、変わった奴と言われないか」
「どうだろう、わからない。こんなに話をすること自体が初めてのことだから」
男は、柔らかく眉を広げて笑った。その表情の奥にある哀しみをしかし、御言は感じ取っていた。ーーそこにあるのはきっと。
「それに名前があるだけで羨ましいよ。名があるということは、他と自分がしっかり区分けされているってことだろう? 俺は、呼ばれたとしても『鬼』とか『妖怪』とか、その他大勢といっしょくたにした呼び方しかされないから」
「そうかーー。そうだな、そしたら……」
御言は頭を傾けると目を閉じた。こんなにも無防備な状態をさらけ出すとは、と自分自身に驚きながら。「鬼」に、そうだな弱々しいが、決して弱いわけではない。昔、梓が言っていた。「弱さを知り、悩める者こそが、最も強いのです」と。
「決めた」
御言の切れ長の瞳が瞬いた。
「お前の名は。鬼の神にいつくしむ意味を持つ怜、そして強弱の強、鬼神怜強、だ。人を傷つけることを恐れる鬼にはピッタリな名だ」
「鬼神……怜強……」
まるで自分の名前を初めて発見したときの子どものように、何度も何度も噛み締めるようにその名を呟いた怜強は、鬼には似つかわしくない大きな眸を、少年のそれのように輝かせた。
ふと気が付けば、雨の音が止んでいた。
そろそろ頃合いだ、と名残惜しそうにゆっくりと重い腰を上げると、御言は降り続いた雨で背を伸ばした雑草に絡まった傘を手に取り、怜強の額に手を当てた。
「これで私がいなくても鬼の力は弱まったはずだ。……しばらく、ここにいるのか?」
「そうだね。まだ一雨来そうだから。晴れ間が見えるまでは、きっと」
「そうか。では、また、怜強」
濡れる心配もないのに傘に隠れた後ろ姿に向かって、怜強は大きく頷く。名を与えられた自分の存在を確認するように。
「ああ、また、御言」
そうして怜強の元から御言は去っていった。少しぬかるんだ地を踏む足音が軽快なリズムを奏でる。橙色の街の灯が見えると、日常が少し火照った体を冷ましていくと同時に、一つわかったことがある。怜強と自分とは似ているんだということを。




