参
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昼間でも太陽の光を通さない地下にその部屋はあった。
「それじゃあ、『鬼化』の儀式をするのね」
紙都は母親――鬼神御言の穏やかだが厳しくもある問いかけに「はい」と頷いた。いつもならこんな厳かな会話にはならないが、ことがことだけにそうならざるを得なかった。
「頑張りなさい」
それだけ言うと白装束に身を包んだ御言は出ていった。鬼の絵が描かれた襖が静かに閉められる。
ぼうっと蝋の灯が照らす先には刀があった。昨晩、紙都の手にあったその刀――『鬼面仏心』は、今は鞘に入り眠っている。
昨日、自宅へと逃げ帰った紙都を待っていたのは、父の死の真相と自身の出生の秘密だった。御言はいつもと変わらず無表情で無機質にこう述べた。
「貴方の父親は鬼。そして、貴方は鬼と人の間に生まれた半妖。父親は人を守るため妖と対峙し、命を落とした」
紙都は立ち上がると、意を決して鞘から刀身を抜き出し、その刃に指を這わせた。そして、力を込めて自分の指を切る。
「封印されたはずの妖怪達が蠢き出した。貴方に宿るその鬼の力。どう使うかは、貴方次第」
血が刃を伝わって床にぽたぽたと滴り落ちる。瞬間、部屋の中に光が走った。昨夜森で見たのと同じ光だった。その光が紙都にも当たり、紙都の身体が怪しげな淡い赤色の光に包まれる。次第に紙都の髪は逆立ち、目元が鋭くなり、瞳が鬼のそれのように紅く染まっていく。
光が止むと、真暗な部屋の中には月光のように輝く刀だけがあった――。
紙都は掌にぐっと力を込めた。紙都よりも遥かに大きいはずの脚と腕がいとも簡単に押し返される。
「おい、女」
鬼化した紙都は口調までも変わっていた。
「な、何よ」
「さっさと逃げろ」
「嫌よ! あんた私を助けてくれるんでしょ?」
「助ける?」
そう。母に言われたのは、父が亡くなってから妖怪から人間を守る存在がいなくなったこと。ならば、俺が人間を守る存在となろう。そう決めた。だが。
「お前だけは助けたくない」
「なんでよ!」
紙都はさらに腕に力を込めると、脚と腕を持ち上げ始めた。そのままの勢いで投げ捨てる。
地響きが辺り一面を襲った。
「少しは自覚しろよ」
「はぁ?」
こいつには何を言っても無駄か。
「わかった。守ってやるよ。だから遠くへ行ってろ」
「ホント! ありがとう!! じゃあ、遠くで一部始終を見てるわね」
紙都は不覚にも少女の笑顔に見惚れてしまった。
「オォォォォ!!!」
紙都に対する怒りの声か、狂ったような雄叫びが雨風を数秒かき消した。
「……あの馬鹿の相手をしている暇はないな」
「さて、どうしたものか」
鬼化した紙都の身体は玉鋼のように硬く、身体能力は普段と比べ物にならないほど高い。このまま殴る蹴るを単純に繰り返していっても、倒すことはできるかもしれなかった。しかし、それがイコール殺すことに繋がるかどうか。
そんな状態の紙都になりふり構わず二体の塊は突進してきた。後ろに跳ねてそれを軽々しく避けると、腕の長い方の頭を素手で殴る。軽く当てたつもりだったのだが、相手は勢いよく地面に衝突した。
地面に着地するなり、今度は頭上から風圧を感じ、横に飛んだ。巨大な脚が地面にめり込む。その脚を伝って頂上まで一足飛に駆け上がると、勢いに任せて頭を蹴った。巨体はバランスを失い、そのまま後方へと倒れ込んだ。
(……とにかく、脚の長い方が足長で腕の長い方が手長で間違いないな。昨日は、一つの塊だったから、本来は二体一身の妖怪なんだろう)
足長手長は変わらず雄叫びを上げながら再び起き上がった。痛みを感じている様子は見られない。幾度も振り下ろされる足長手長の攻撃を避けながら、紙都は思考に集中していた。
(これだけの巨体だから、体力は相当あるはず。痛みも感じていないようだし、地面に倒れてもすぐに起き上がってくる。だとすれば――)
紙都は後ろへ高く跳んで距離を取り、親指を強く噛むと、指の皮膚を切った。
「オォォォォ……オオォォォォ!!!!」
再び突進を試みる足長手長を横目に、雨で濡れている地面に素早く血で円模様を描いた。模様が完成した途端、円が鬼化のときと同じような淡い赤色の光を帯びる。紙都は腰を上げ、右手の手の平を円模様に向けると、何かを取り出す仕草をした。
柄、鍔、月のように光輝く刀身と、円から徐々に形が現れる。
右手で柄を握り、一気に引き抜くと、地下に置いていたはずの刀が紙都の手に収まっていた。
刀を大きく一振りして紙都は宣言した。
「これでお前を殺す」
紙都は刀を握ったまま、二つの巨体に向かって走り始めた。足長の脚と手長の腕が宙に上がった。すかさず紙都も飛び上がる。体全体を覆い隠す程の大きさの足裏と掌が紙都の頭に触れる直前、紙都は両の手で刀を頭上に掲げ、横に払った。
重い衝撃が刀から体へと伝わる。それを耐え凌ぐと、急に衝撃が消えた。
足長手長の巨体がまたもや傾いていた。地に舞い戻った紙都は、巨体が完全に地に伏す前に素早く移動すると、それぞれの黒布をそれが隠す部位ごと斬り飛ばした。
黒ジャージ姿の少年は、地面に降りると刀を振るって付いた赤い鮮血を飛ばした。
薄汚れた2枚の黒布は、空中を漂い、やがて小さな水溜まりへ浸かった。そして、それきり黒布も巨体も動かなかった。
紙都の耳に降り注ぐ雨音が戻ってきた。刀を力無く持ちながら自分が殺した妖怪をどこか躊躇いがちに見やる。
ふと、雨が上がった。少女の傘が視界を覆う。
「血塗れだったけど、雨でほとんど流されたから」
紙都は、どういう神経をしているのかと横目で少女を睨んだ。少女は意に介さず、興味深げに倒れた巨体を眺めていた。
「死んだんだよね?」
「ああ、死んだ。だが、まだ終わっていない」
刀を提げたまま紙都は森の奥に向かって歩き始めた。少女も、急いでその後を追い掛ける。
「ちょっと待って!!」
「ついて来るな。ここから先は危険だ――」
紙都の後頭部に少女の傘がクリーンヒットした。
「効かん」
ビニール傘は台風でも曲がらないような角度に折れ曲がっていた。
「知ってるわよ。でも、こうしないとあんた止まんなかったじゃない」
……まあ、それは確かだ。だが、なぜ?
「あんたねー。もう私危険な目に会ってんの! わかる? こんな所に一人でいれるわけがないし、このまま一人で帰れるわけがないじゃない!」
「それは……そうだな」
「そうでしょ!」
「じゃあ、ついてくるのは勝手だが後悔するなよ」
「いいわよ。そのかわりしっかりとエスコートしなさい」
(この状況でなんでこんなに自分勝手でいられるんだ?)
紙都は溜め息を吐くしかなかった。
「こいつに何人殺されたかわかるか?」
「えっと、若者グループが4人だったんだから、男の人と合わせて5人?」
「いや、4人だ。そこに転がっているのは、ここに来る前にすでに死んだ人間だった」
「はい?」
二人は横に並び森の中を歩き始めた。場所と紙都の服装が違えばあるいは恋人同士に見えたかもしれない。
「あの通りすがりの妖怪とかいう男。そもそもおかしいと思わなかったか? いきなり森に行こうと言い出して」
隣を歩く少女はスタンガンを取り出した。
「思ったわよ。だから護身用にこれを」
つくづくなんて女だと思う。危険だとわかっててやってくるか普通。
「その線もあったが、俺には通りすがりの妖怪が本当に妖怪なんじゃないかという気がしていたんだ」
「……本当に妖怪?」
「お前も見ただろ、足長手長を」
少女は紙都の目をじっと見つめながら頷いた。
「妖怪は実在する。それを知っているからそう思えたんだろうが。実は掲示板、あの後あいつの発言だけ消えていた」
「消えていた? それなら怪しすぎるわね」
「ああ。だから、ここでお前とのやり取りを見させてもらった」
「はあ!? じゃあ着いてたの?」
「一時間前にな」
少女はスタンガンを紙都に向けて使った。もちろん痛みも何も感じないが。
「不愉快だ」
「不愉快なのはこっちよ! あんた私があいつに襲われたらどうすんのよ!」
紙都はスタンガンを指差し、「これを使うんだろ?」と聞き返した。
「妖怪じゃ通じないじゃない!」
「それはわからんが。大丈夫、あんたが襲われそうになったらしっかり守ってやってたよ」
「……そ、そう。それなら別にいいんだけど」
少女は、急に言葉を濁して俯いた。びしょ濡れになった髪の毛が気になるのか、両手で髪を掻き分ける。
「な、何よ! 見てんじゃないわよ! それより、続き話しなさいよ!!」
「それでずっと見ていたが、あいつはお前を襲うような動きはしなかった。何かしら不審な動きをすると思うんだが」
「自分の発言を消したわけだからね」
「そう。だからあいつは別の目的でお前や俺をここに呼んだんだ。……それがこれだよ」
紙都は、自身の力で輝く刀でそれらを指した。不気味な明るさに映し出されたものは、四人の人間の血塗れの頭と胴体だった。
「きゃっ!」
少女は反射的に数歩後ずさりした。
「あいつは、俺らを足長手長の餌にしようとしていたんだ」
少女は無残な状態の遺体から目を背けると、紙都に質問をぶつけた。
「で、でも本当にそうなの? 私はあの男の、その、死体を見ているわけだし、妖怪かどうかなんてわからないじゃない」
「お前、森の中で知り合いが見たっていう大きなへこみを見たか?」
少女は視線を上に向けてしばし考え込んでから首を横に振った。
「原理はよくわからないが、時間が経つと妖怪の残した爪痕はほとんど全部が消えるそうだ」
「だから、へこみが見当たらなかったってわけね。あっ、掲示板の書き込みも?」
「俺はそう考えている……でもそれじゃ、あの男が足長手長に殺されたのか、それ以前に死んでいたのかの直接的な理由にはならない。だから、見せてやるよ」
そう言うと、紙都は刀で空を薙ぎ払った。
「……何、これ……」
少女はそれしか言えなかった。森の中に数人の人が現れたのだ。それも普通の人間ではない。それらは青白く光り輝き、影絵を反転させたように身体の輪郭だけが浮かび上がっているような姿形をしていた。
「これが足長手長に食われた人間の魂だ。四人しかいないだろう?」
少女が数えてみると、確かに四体の輪郭しかなかった。
「でも、元からここには四人しかいないじゃない」
「俺が実際に死体を確認した数しか現れないんだよ。だから、あの男はここで死んだことにはならない」
「じ、じゃあ、あの男は何で動いてたのよ」
「さあ。何かが乗り移っていたのか、誰かが操っていたのか。……それより、危険だ。下がれ」
紙都は刀を横に払った。その刃先が当たりそうになって少女は慌てて後ろに下がる。
「ちょっと危ないじゃない!」と抗議しようとした少女はしかし、そうすることができなかった。その異様な雰囲気に呑まれてしまったのだ。
刀で斬られた魂は徐々にその輪郭を崩し、その輝きを無くしていく。同時に刀も空気に溶け込むように薄っすらと消えていった。
「何をしたの?」
「浄霊だよ」
浄霊。そして妖怪。少女の中には疑問が渦巻いていた。その中でも一番疑問に思っている事柄を少女は口にした。
「あんたは何なの?」
紙都は空を見つめると哀しげに微笑んだ。
「俺は半妖。鬼の妖怪と人の間に生まれた、どちらでもない存在」
小雨は半妖の少年の哀しみを代弁するかのように天から地へと降り注いだ。少年がその事実を知らされたのはまだ昨日のこと。その重荷を解き、その心を解く、あるいはそんな雨なのかもしれない。
「あんた何言ってんの?」
少女の言葉はあっさりと全てをぶち壊した。
「あんたが半妖だかなんだかどうでもいいのよ、私はあんたの名前とかそういうことを聞いてるの。ヌカヅキなんてハンドルネームじゃなくて、あるんでしょ? ちゃんとした本名が」
「あ、ああ――鬼神紙都」
思わず言ってしまった瞬間に後悔の大津波が襲ってきた。
「鬼神紙都ね。覚えておくわ」
「ああいや、覚えなくていい、というか実は本名は違うんだ、本当は――」
少女の手が少年の手をしっかり掴んだため、それ以上紙都は何も言えなかった。
「さあ帰るわよ! 明日には衝撃スクープが待っているんだから!!」
紙都は深く深く溜め息を吐いた。けれど、問題はなかった。明日になれば今日の出来事は忘れ去られる。半妖であっても間違いなく、この一連の出来事は妖怪がやったことなのだから。
だから楽しもう。こいつの家に着くまでは。