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 紙都が勢いに任せてぬらりひょんの身体に刀を突きつける。それを苦もなく左に避けると、ぬらりひょんはその足で紙都の背中を蹴り飛ばした。


 鈍器が当たったような鈍い音とともに紙都の顔が地面に激突する。


「痛いだろうな。体も心も。だが、今は君の相手をしてる場合じゃないんだ。最後の封印を解かなければね」


 ぬらりひょんは、不気味な笑みをつくると庭を突っ切り本堂へと向かった。


 紙都がむくりと泥だらけの顔を起こすと、沙夜子の啜り泣く声が聞こえる。振り返れば、地べたに座り込んだ沙夜子の膝の上に頭を乗せた御言が眠ったように横になっていた。


 もちろん、眠ったわけではないことは沙夜子の手が押さえる腹部から流れ出る鮮血が物語っていた。その血は雨とそして沙夜子の涙と混ざりあってもなお色を失わずにぬかるんだ土砂の上を伝っていく。


「紙都……御言さんの体がどんどん冷たくなってく……血も止まらない……どうしたらいい? ねえ、どうしたらいいの?」


 顔に落ちる涙雨と体から流れる血。そのコントラストが、不謹慎にも綺麗だと紙都に思わせた。「綺麗な死に顔だったね」なんて通夜でよく聞く台詞だったが、目の前の光景こそがそれなんじゃないかと思ってしまう。


 紙都は御言を両腕で持ち上げた。思った以上に軽く、風に吹かれて飛んでいってしまうと思うほど、か細かった。


「沙夜子、中で母さんを見ててくれ」


 不思議な感覚だった。自分の声が他人のそれのように聞こえる。体もふわふわ浮いているような感じがして、自分の体じゃないようだった。


 それでも、御言ならきっとぬらりひょんを止めることを最優先にするだろう。


 玄関の木板の上に御言の体をそっと置くと、沙夜子に目配せして紙都はすぐに本堂に向かった。


 走っていくうちに体の感覚が戻り、熱を帯びていく。自分の目的を達成させるためだけに、大勢の人々を犠牲にした奴を許すことはできない。


 揺れる瞳の先に光が漏れ出ていた。


 本堂の襖を蹴破ると、ぬらりひょんは千手観音像に左手を当てもう一方の手は下に向けて何か呪詛のようなものを呟いていた。


 紙都は一足飛に跳躍すると、刀を思い切り振り下ろす。渾身の一撃は外れ、後ろから仕込み杖の切っ先を抜く音が聞こえた。その斬撃をあえて受けると、紙都は後ろ手でぬらりひょんの腕をつかみ、素早く振り向き様に刀を薙いだ。


 両者の身体から血が飛び散り、大仏の左顔を赤く染め上げた。


 ぬらりひょんは痛みに顔を歪めながらも、紙都の胸を蹴り飛ばし、体を引き離すと後ろに一回転しながら畳の上に着地した。


「なるほど。君は父親とは違うようだな」


 紙都は背中に刺さったままの小刀を力づくで抜き取った。


「何が、だ!」


「君の父親は、妖怪でありながら人間と暮らすなんて道を選んだために、その強さを封印せざるをえなかった。全く馬鹿げた話だよ。そのせいで、同胞に殺されることになったんだからな。だが、君は違う。鬼の力を人間の理性とやらでコントロールして、飛躍的な強さを獲得した。そうでないと、あの甘えん坊の鎌倉颯太が殺されるはずがないからね」


 紙都も飛び上がると、数メートルある距離を落下し、猫のそれのように静かに畳の上へと降り立った。


「鎌倉は殺してない。それにあいつは甘えん坊じゃない。何かはわからないけど、ずっと一人で抱え込んできたんだ」


 それを聞いてぬらりひょんの身体が震えた。そして、堪えかねたのか、下卑た笑い声が静まり返った本堂の中を木霊する。


「ああ、可笑しい。君たち半妖というものは、いつも私の予想の斜め上の発言をしてくれる。殺し合いをしたもの同士が止めを刺さないなんて、甘過ぎるにも程がある。いいか。所詮、この世は弱肉強食の社会なんだ。君の母親、鬼神御言の封印によって仮初めの平和が続いているだけで、真の姿は私利私欲にまみれた醜い世界なんだよ」


「違う! 俺が守りたかった、守ってきた人たちはそんな人間じゃない!!」


 ぬらりひょんは、天井を見上げると、深く長く息を吐き出した。


「やはり、まだまだ甘いなぁ。煮すぎた汁粉のような甘さだ。我々がどれだけ人間に虐げられてきたか、その歴史をまだ知らないらしい。君を受け入れてくれた人間は果たして多数派かな?」


 紙都は刀を両手で強く握った。ぬらりひょんの見開かれた眼から言葉にし得ない威圧感を感じる。


(……こいつは、いったい何を言ってるんだ?)


「君は鬼が人間から生まれた仮説を知っているかい?」


「鬼が人間から……?」


「そうだ。鬼は元々人間。人間から嫌われ、迫害されて、住処すら追われた人間がその復讐心から鬼に姿を変えた。そんな説が人間の研究者の間であるらしい。そうだとすれば、鬼が生まれたのは人間のせい。突き詰めていけば人間が悪いとは思わないか」


 紙都は怒りを込めて刀を横に振った。


「それは仮説の話だろ? それに人間全てが悪いわけじゃないじゃないか!」


「そうだ。妖怪全てが人間を憎んでいるわけでもないようにな。だがね、私は思うんだよ。そもそも人間ってのはそういう性質を持つ生き物なんじゃないかってね。 差別意識が高いというか、他と自分との差をあまりにも気にしすぎる生物なんじゃないかとね。君だって自分が半妖であることに気づいて人間共に正体がバレるのを恐れていたんじゃないか? そんな人間が、生きてる限り差別を続ける人間がのさばっているこの世界が、私はどうしても気に食わないんだ!」


 言い終わると同時にぬらりひょんは紙都に迫ってきた。気迫のこもった斬撃が振り落とされ、甲高い金属音を響かせる。


「私は封印を解くぞ。たとえ君と刺し違ってもな」


 目の前の瞳は狂気を帯びたように爛々と輝いていた。畏怖すら覚えるような瞳を紙都はどうしても直視することができなかった。


「うおぉ!!」


 前傾姿勢で腕に力を込めて、刀を弾く。そのまま後ろへ跳び距離を置こうとしたが、ぬらりひょんが一足跳びに向かってきた。


「さっきまでの威勢はどうした?」


 小刀が紙都の顔を捉えた。剣先でそれを捌くが、予想していたかのように、ぬらりひょんはもう片方の手から潜ませていた刃を抜いた。


(嘘だろ!)


 研ぎ澄まされた鋭利な刃が無防備な頚に食い込む。


「う、ぐぅわああ!」


 反対側に身体を捻らせ、肘を柄に当て小刀ごと弾き飛ばす。ぬらりひょんの身体がよろけた隙に連撃を試みるが、全て紙一重で回避されてしまった。


 空中へ飛ばした小刀が畳に刺さる。


(攻撃が、当たらない)


 かわされるのでもない、防がれるのでもない、当たる気がしないという不可思議な感覚に紙都はとらわれていた。ものの数分も経っていないのに、もう肩で息をしていた。


「無駄だよ。君の攻撃はもう当たらない」


 一瞬の混乱が命取りになった。しまった、と思ったときにはすでに腹部が貫かれていた。


 目の前の光景が歪む。意識とは裏腹に、膝をついてしまい立ち上がることができなかった。


 小刀を鞘に戻したぬらりひょんが視界から遠退いていく。血にまみれた千手観音像の元へ高く飛び上がる。


「……ま……」


 声を上げることすらままならなかった。身体中を巡る痛みに飛びそうになる意識を保っているだけで精一杯だった。


 視界の片隅でぬらりひょんが仏像に手を当て再び何かを呟き始める。


(……ここが最後の封印なんだ)


 紙都は、痛みに耐えながら自分を奮い立たせようと思考を続ける。


 この封印が破られたら妖怪が頻繁に出現し、人間社会を混乱に陥れる。母さんが、父さんがずっと守ってきたものがなくなる。俺の守ってきたものもなくなってしまうんだ。


 震える右手が持ち主を求め光る鬼面仏心に触れる。


 確かに人間は元々差別をする生き物なのかもしれない。 自分たちと少しでも違うと、その違いをことさら主張する。鬼はその過程で生まれたものなのかもしれない。


 刀の柄をしっかり握ると、震えが次第に消えていった。


 ぬらりひょんの言葉は、今の俺にはわからない。それでも。


「それでも、俺は、人を守る」


 今まで出会ってきた人達が守ってくれたように。


 紙都の腹部から血が滴り落ちた。急に立ち上がったためだ。まだ視界は歪み、ふらふらな身体のままで刀だけは確かに握り締め、紙都は飛ぶように走った。


「ほお、まだ動けるか。すまない、また侮ってしまった」


 地を蹴った紙都がぬらりひょんの目前に迫る。 ぬらりひょんの顔が破顔した。


「だが、残念ながら君の負けだ。封印は、今解かれた!」


 紙都の刀が弾かれた。ぬらりひょんによってではない。天井に突如開いたブラックホールのような真っ暗闇の空間から現れた強固な棒状の物体が刀を弾いたのだ。


 バランスを崩した紙都は態勢を整える間もなく、頭から床に激突した。破れた畳をどかしながらそれを見ると、棒が4つに増えていた。


 いや、小刻みに動くそれは棒などという無生物ではなかった。今、気づいたが薄っすらと毛が生えている。このフォルムはどこかで見覚えがあった。


「鬼救寺という名だけあって、やはり大層なものを封印していたな」


 ぬらりひょんの言葉に合わせるように、それは現前した。牛のような顔に4本の脚が生えたまさに異形の姿。


「牛鬼。古来から知られる妖怪だ」


 牛鬼は有無を言わさず細身の剣のような鋭い脚を紙都の体に突きつけた。

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