陸
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ドス黒い瘴気が舞うような暗闇の中に紙都はいた。何も見えず、何も聞こえないその空間でひたすら待ち続けていた。
何を? と自問するものの答えは浮かばない。ただ、瘴気が体を通過するときには得も知れぬ快感が走った。それはエネルギーの塊のようだった。触れれば力も意欲もみなぎってくる感じがした。
たぶん、そのエネルギーを待っているのだと思った。瘴気が体にない状態のときは途端に無気力が襲った。だから動けない体に瘴気が来るのを待っていた。時間が経つにつれて、それはより大きく、より黒くなっていった。体を通過する度に束の間味わえる快感も増していった。
次第にそれは紙都の許容範囲を超えていく。体が芯まで痺れ、恍惚感をも感じるようになっていた。このままでは体が壊れるかもしれないと思った。それでも、やめることはできなかった。行き交う瘴気が紙都の体を貫いていく。津波のそれのように引いては押し寄せて、引いてはまた押し寄せ、その水量は加速度的に増えていく。
呑み込まれてもいいと思った。いっそのこと呑み込まれたいとすら思った。何度目かの瘴気の大波が襲ってきたとき紙都は自分が何を待っていたのか直感的に気づいた。
それは、壊れることだった。自我も意識もなにもかもが破壊され、ただ本能と快楽を全うする。そのときを待っていた。
自分の背丈よりもはるかに大きく、全貌が見えない瘴気が襲ってきたとき。紙都は穏やかに目を瞑り、両の手を広げた。
声が聞こえたのはそのときだ。それは紙都の耳と脳と、そして世界全体を激しく振動させた。
「紙都、あんた何やってんのよ! さっさと戻ってきなさい!!」
慌てて目を開くと、水溜りが目に入った。茶色に濁った水溜りだ。次には、降り頻る雨音が耳に流れ込んできた。そして、雨が体を伝うのがわかった。頭に垂れる無数の雨粒は顔、肩、背中、腕、脚へと容赦なく降り注ぐ。
「紙都!」
もう聞き馴染んでしまったその弾けた声の主の下へ、紙都は跳躍した。
地へ足をつけると同時に、体に激痛が走る。痺れるような痛みに視界が歪むが、その嬉しそうな顔だけは捕らえて離さなかった。
「もう、何やってんのよ!」
「何って、痛みに耐えてんだよ。集中しないと、このまま倒れそうだ」
背中には大きな刃傷、胸には穴が開き、顔面と後頭部には鈍い痛みが持続している。沙夜子はその満身創痍な体をぐいっと動かし、無理矢理180度回転させた。
「ほら、話はあとあと、あいつを何とかして!」
そこにはぽかんと目と口を開けた鎌倉が立っていた。鎌倉は紙都と目が合うと、痺れた手をぶらぶらと振り、地面に落ちた大鎌を拾い上げた。
「スタンガンか、そんなもの携帯してるなんて物騒な女だな」
氷のような視線が沙夜子を貫く。沙夜子は紙都の後ろで生唾を飲み込んだが、悟られないように啖呵を切った。
「そんな大きな鎌を持ち歩いてる方がよっぽど物騒だと思うけど。私のはあんた達みたいなサイコ野郎から身を守るためにあるのよ」
「煩いやつだ。ぬらりひょんはお前を殺し損ねたのか?」
「違うわ。御言さんが助けれくれたのよ」
「母さんが!?」
痛みに慣れてきたのか、紙都は拳を構えて鎌倉を見据えた。
「なるほど、鬼神御言か。結界陣とやらは便利だな」
言いながら手を合わせる姿が自然と浮かび上がる。鎌倉は、大鎌を上下に振ってその姿を掻き消した。
「だったら、早く寺に戻るべきだな。ぬらりひょんはすでに鬼神御言を殺しに行ったぞ」
「わかってるさ。あいつがここにいないってことは、最後の封印を解きにいったんだろ?」
「ああ、そうだ」
瞬時に間合いを詰めると、刃が紙都の首に飛び掛かった。紙一重で体を傾けてそれを避けると、紙都は体を屈みながら鎌倉の懐に入り込み、右腕を思い切り突き上げた。
「なっ……!」
顎部に予想だにしない強烈な打撃を叩き込まれた鎌倉は、上空へと跳ばされる。紙都はすかさず真上に回転しながら跳び、柄ごとその胸を回し蹴りする。鎌倉は息ができないまま、地面へと叩きつけられた。
(速い、そして重い)
紙都は自身の両手をまじまじと見つめた。体の痛みはとうに薄れ、体の隅々まで力がみなぎってくる。今なら容易に鎌倉を倒せるかもしれない。そんな感覚すら覚えていた。
「鬼の力を人間の理性がコントロールしている!」
大雨に負けないように張り上げた沙夜子の声に振り返る。
「御言さんが言ってたの! 半分人間で半分妖怪のあんたなら、『人間の理性を保ったまま鬼の力を100%発揮することができる』って!! それがあんたの本当の力なのよ! 鬼神紙都!」
「……これが俺の本当の力」
紙都は手をぐっと握った。これならきっと守れる。沙夜子も母さんも、大切な人々全てを。
「……そういう、ことか」
ぼそりと呟きが聞こえたと思ったら、紙都の目の前に強風が巻き起こった。それは周囲の土砂を巻き込みながら次第に大きさを増していく。立っているだけで精一杯で体を動かすことができなかった。
それはハッキリと風の流れが見えるほど巨大な竜巻となり、一気に上空へと吹き飛んでいった。急激に気圧が変わったせいか、紙都たちの周囲一体だけぽっかりと穴が開いたように眩しい陽光が照りつける。
態勢を整えた紙都が見たのは、白銀に輝く長髪を靡かせた鎌倉の姿だった。その手には髪と同色の大鎌が握られている。
「出し惜しみしてる場合じゃないな」
ぼそっと呟くと、鎌倉は鎌を思い切り振り上げて突進してくる紙都目掛けて振り下ろした。甲高い金属音とともに空気が断ち切られ、研ぎ澄まされた刃先に似た形状の烈風が紙都を襲う。横に避けるが、空中に何重にも風の刃が張り巡らされていて、行動の選択肢を狭めていた。
紙都は咄嗟に顔の前で腕を交差させ、空を駆った。強風が身体全体を襲い、手の甲の皮膚が抉られ、血が飛び散る。
(これじゃ、近づけない! 刀があれば……)
すぐに周囲を見渡すが、探し物は見つからなかった。地面が間近に迫るなか、すでに鎌倉が発生させた幾重にも重なった刃が着地のタイミングに合わせて襲い掛かろうと勢いを増していた。
「紙都!!」
声のする方へ目をやると、暗闇の中から沙夜子が飛び出してきた。その手元で眩く光るものは「鬼面仏心」。
「沙夜子!」
名前を呼ぶと同時に沙夜子が刀を放り投げた。生まれてから今まで全く持ったことも触れたことすらない刀は非常に重く、軌道が全くずれて紙都のいる方向と違うところへ飛んでいった。
刀の元へ走る紙都の目の前に複数の刃が空気を切って迫る。かわすのは容易いそれを紙都はあえて身体に受けて進んだ。
「なっ……」
予想外の行動に一瞬判断が鈍ったのが悪かったのか、紙都の動きが想定より速かったのかわからない。
だが、空中で刀を手にした紙都はそのまま地を蹴り一閃。幾重もの風の刃ごとその身体を切り裂いた。
鎌倉の体は宙を舞うように飛び上がった。言うことを聞かない体に重い風圧がかかる。硬い地面に打ちつけられた全身に大量の雨が戻ってくる。
腹部に強烈な痛みが走ったのはそのあとだった。それでもすぐに鎌倉は立ち上がった。
「こんなところで……」
負けるわけにはいかなかった。自分の体がどうなろうとよかった。それでも、それ以上にやらなければいけないことがあった。世界に、このどうしようもない世界にーー。
「諦めが悪いわね」
突然、燃えるような熱さを感じると同時に身体中の動きが止まったのを感じた。自分の意志とは無関係に体が勝手に倒れ込んでいく。瞼すらずっしりと重く動かなかった。
鎌倉の倒れた水溜まりに投げ込まれたスタンガンが、最後に短い電流を発し、壊れた。




