伍
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その少年は産まれたときから嫌われていた。親戚や祖父母はもちろんのこと、父親はおろか母親まで。
出産直後に母親が呟いた言葉は「気持ち悪い」だったそうだ。少年の目の前で事切れるときに母親は恨み節のようにそのことを話し、死んでいった。
少年の周りには誰もいなかった。一人、いや一匹のイタチを除いては。話し相手のいない少年に唯一応えてくれるのがこのイタチだった。だから、必然と言うべきか少年の周りの人間は全て血だらけの死体に変わった。
事を終えたとき、血塗れの自分自身の身体と家の中を眺めて、少年は微笑んだ。ーーやっと自由になれたのだ、これで世界に復讐ができる。
突然の落雷に驚き、少年の肩にイタチが乗った。あるいは、相対する妖怪に恐怖を感じたか。
「いい雷だ。やはり変革のときにはこういう天気に限る。そう思わないかね」
鎌倉颯太はその問いかけには答えず、イタチの背を撫でていた。降り注ぐ雨でその毛は冷たくびしょ濡れになり、微かに震えてもいた。
「もうすぐ君の望む世界へと変わるぞ。封印されていた百鬼夜行の群れが現れ、人間どもを襲い出す」
「俺がしたいのは復讐だけだ。人間も妖怪も関係ない。邪魔するやつは全て殺す」
「ほう。では、なぜ鬼神御言を殺さなかったんだ? 君が鬼救寺に行っていたのは知っている。あの鬼神紙都の女をつけていたからな。今頃はただの肉塊になっているだろうが」
そう言うと、ぬらりひょんは嘲るように口角を上げて鎌倉の顔に目を向けた。嫌らしい馬鹿にしたような目付きが鎌倉の心に怒りを灯す。
鎌倉は背中に背負った大鎌に手を伸ばした。ぬらりひょんは大仰に手を振ると、攻撃の意思がないことを表明する。
「冗談はやめてくれ。今、君と一線交える意志はない」
今は、か。いぶかしりながらも、鎌倉は手を戻す。
「鬼神御言はきっとあんたが殺したいだろうなと思ってたからな」
ぬらりひょんは口を横に引き、意地の悪い笑みを浮かべた。
「そうだ。あの女はここまで来るのに散々手こずらせてくれたからな。あの出来損ないの鬼を殺したときのようにこの手で殺してやりたい。目の前で歪む顔を見るのが愉しみだ」
その顔にどっちが歪んでるんだかと思った。同時に自分自身も歪んでいることも。
鬼神御言を殺せなかったのは、ぬらりひょんのためなどではなかった。あのときーー鬼救寺に侵入した鎌倉を見て怯えも軽蔑もせず、ただ淡々と「可哀想に」と御言は言ったのだ。そして、鎌倉のために手を合わせ祈ったのだ。その首を今すぐ跳ねて殺すことはできた。怒りも沸々と沸き上がっていた。だが、殺すことはできなかった。なぜだかは今でも鎌倉自身わからないでいた。
砂利を踏む足音と空気すらも緊張させる殺気に、鎌倉は我に返った。その方向へ顔を向ける。
「来ましたね。鬼神紙都。その様子だと、女は助からなかったか」
キンッと金属音が鳴り、花火のような閃光が迸った。
「さすがに速いですね」
ぬらりひょんは紙都の刀を短刀で止めるとそう言った。が、尖った爪を備えた手に力がこもると耐えきれず、後ろへと体を捻らせる。紙都の刀は地面を抉った。
「そして力強い。やはり半妖とはいえ鬼か」
紙都は上へ跳んだ。上空からの渾身の一撃をなんとか受け止めるが、続けざまに振り下ろされる刀を捌ききれず、短刀が弾かれた。紙都は素早く懐に入り込み、下から上へ刀を振り抜いた。
ぬらりひょんはニヤリと嗤った。紙都の後ろから銀色に光る大鎌が現れる。刀がぬらりひょんを捉える寸前に紙都の体が刃に引き裂かれ、血が吹き出した。
苦痛の声を上げ、そのままの勢いで倒れ込む自我を失った鬼を見下ろすと、ぬらりひょんは嘲りの言葉を投げ掛けた。
「鬼というやつはどの時代もこうだ。暴れることばかりで知恵が回らない。確かに力も強いし動きも早い。だが、行動は単純で読みやすい」
ぬらりひょんが腕を横に伸ばすと、弾かれた短刀がその手に戻ってきた。それを懐へと戻すと、ぬらりひょんは空を見上げた。降りしきる雨に目を細める。
「ウォォォォォ!!」
紙都は雄叫びを上げると、ぬらりひょんに向かって突進していった。近距離で刀を振り回すが、全てかわされる。
「無駄だよ」
刀を難なく避けるとぬらりひょんはそのまま紙都に向かって跳ね、その顔を蹴り抜いた。濡れた地面に背中が叩きつけられる。
「さて、君との遊びは終わりだ紙都くん。私は君の母君に用があるのでね」
声なき声を出し、なんとか立ち上がろうとするが、顔と背中を強打したせいか体が言うことを聞かなかった。
その様子を愉しむように、にたりと笑うと、ぬらりひょんはくるりと背を向けて闇の中へ消えていった。
やっと言うことを聞いた体でそのあとを追うが、後ろから風を切る音が聞こえ、続けて肩に激痛が走った。前のめりにまた転びそうになるが、地面に両手をついてその勢いのまま足を空へと向けて回転した。
地面に降り立つと鎌倉が得物を構えた。紙都も拳を構える。瞳はやはり紅く、口からは牙が生えた異形の姿がそこにあった。
「これこそ憐れだな。妖怪にも人間にも成り切れない、化物だ」
吐き捨てるように言うと、両手で鎌を大きく振り上げ紙都に向かって跳躍する。やや遅れて紙都も地面を蹴った。空中で振り下ろされた鎌を左右から両拳で押さえ込むように止めた紙都は、力任せにその得物ごと鎌倉を持ち上げ地面へと叩き付ける。
鎌倉は、地に着く直前に風を起こし着地すると、連続して繰り出される紙都の攻撃を確実に避けていった。どんなに素早くとも力が強くとも、冷静に見極めれば攻撃を避けることは容易い。あとは。
伸びた紙都の腕をすり抜けるように移動すると、再び背中を切りつける。今さっき開いたばかりの傷口に重なるように鎌を払うと、呻き声を上げて紙都は膝をついた。
「今度こそ、これで終わりだ」
目の前の光景が過去とダブる。命乞いをしてきた父親と母親の目は最期まで化物を見るような目付きだった。その瞳から光が消えたとき、生まれて初めて心から笑えたのだ。
「所詮、お前も俺も化物なんだよ」
鎌倉は、構えた鎌に力を込めた。何人もの血を吸ってきた鋭利な刃物が紙都の頭上に振り下ろされるーー。
鎌が唐突に地面に投げ出され、カランカランと音が鳴る。鎌倉は違和感を覚え、十指を目の前で広げる。
(なんだ? これは……手先が痺れる)
振り向くと殺されたはずの少女の姿がそこにあった。微かに震えるその手に持っているのはスタンガン。
柳田沙夜子は鎌倉の先で動けないでいる紙都をきっと睨み付けると、そのふっくらとした口を大きく開いた。
「紙都、あんた何やってんのよ! さっさと戻ってきなさい!!」




