弐
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「フンフンフーン♪」
鼻歌交じりにマウスを動かす少女は、楽しそうにディスプレイを眺めていた。緩くパーマをかけた茶髪のショートボブにクリっとした茶色の目が印象的な可愛らしい少女。
ディスプレイには今晩の思いがけないプランが映し出されていた。
「通りすがりの妖怪
8月21日 14:58
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深夜0:00、森の入口でどうでしょう」
もちろんOKだ。高校のオカルト部に所属する彼女は、これで先輩方が戻ってくると上機嫌だった。
深夜0時ジャスト。ショートボブの少女は、緑色のカーゴパンツに黄色のシャツ、念のためその上に薄手の白いカーディガンといった出で立ちで件の森の前にやってきていた。
この時間になっても雨は降り続いていた。今まで持っていなかったためにコンビニで買った安いビニール傘の中で、少女は10分前から待ち人をしている。それにしても暑い。深夜で雨が降っているというのに、じっとしていても汗が滲み出てくるほど蒸し暑かった。カーディガンはいらなかったかもしれない。
滴る雨の下、傘に隠れて少女は汗を拭った。
「すみません、お待たせしました」
突然の声の出現にビクッと肩を震わす。体ごと振り返ると、予想していたよりずっと年上の30代ぐらいの丸顔の優しそうな男性がそこにいた。
「驚かせてしまいましたか? すみません」
「はあ、はい……いえ! いいえ」
何とか笑顔を取り繕うとするが、引きつった笑顔になってしまった。
「暗くて見えなかったのでしょう。雨も降っていますし」
「そうですね!」
今度はちゃんとした笑顔になった。その笑顔に合わせて男性も微笑んだ。
(……これなら大丈夫ね)
少女は笑顔のまま背中に隠したスタンガンをパンツの後ろポケットに戻すと、気がついたように大きな瞳をパチパチさせて「もう一人の方は遅いですね」と言った。
「そうですね。でも、まあ、まだ5分くらいしか経ってないですし」
男性のその言葉を聞いて、少女は雨音を遮るように舌打ちをした。
「まだ5分くらい!? もう5分じゃない! だいたいなんでトピック立てた奴が一番最初にいないのよ!!」
いきなりの暴言にたじろいだのか、男性から返答が返ってくるまで少しの間があった。返答を期待しているかすら定かではないが。
「え? あ、あの……よ、よくわかりましたね」
「何がよ」
「私が『通りすがりの妖怪』だと」
少女は呆れたように息を吐いた。
「当たり前じゃない。掲示板での言葉遣いが違ったもの。あなたのは礼儀正しくて大人な印象だけど、大遅刻のバカ野郎のはイラッとくるような子どもっぽい感じだったわ」
「そうですか」
「そうよ!」
そう言うと、少女はくるりと男性に背を向けた。
(全く! どうしてオカルト好きな男はロクなやつがいないのよ!! まだマシだと思ったのに! コミュニケーションも取れないなんてどういうこと!)
ああ、もうこれじゃ、今回もガセネタ確定ね。
「あ、あの~」
「何よ!」
男性は申し訳なさそうに頭を下げると、申し訳なさそうに口を開いた。
「……何か聞こえませんか?」
男性の視線は森の方を向いていた。少女も森に目を向け、耳を澄ます。改めてよく見ると不気味に感じられる。曰くつきの場所と知ってそう感じるのか、本当にそこに何かを感じるのか。
「何も聞こえないじゃない!」
「い、いや、そんなことないですよ。だんだん大きく」
少女は男性を睨みつけた。
「あんた怖いの? 何にも聞こえないのに。そんな怖いならさっさと帰ればいいじゃ――え!?」
少女の足元が震えていた。
(違うは私じゃない、これは――)
「オォォォォ……オォォォォ……」
森の中から低い唸り声が聞こえた。次第にその声は大きくなっていき、足元の揺れも激しくなっていく。
「ちょっと、ねえ見て、すごいわよ、これ!」
こんな状況で嬉々として喜べるのは彼女くらいではないだろうか。
「う、うわぁぁぁ!!!」と裏返った叫び声を上げながら、男性は一目散に逃げていった。
「ちょ! 何逃げてんのよ! ここにいなさい!」
その刹那だった。耳をつんざくような雄叫びが聞こえて、少女の傘が宙を飛んだ。地面に落ちた傘はみるみるうちにどす黒い血色に染まっていく。
「え? 何……これ?」
ドンッと傘に続いて落ちてきたものがあった。逃げようとした男性だった。ところがよくよく見てみるとついさっきまで確かにあったはずの物が無い。
「なんで? どうして――」
腕と脚が無いのだろう。
少女の頭に何かが滴り落ちる。雨にしては滑っていて雨にしては不規則に落ちるそれは。
少女は恐る恐る頭上を見上げた。
「あ……あ…あ」
視覚より先にそれを捉えたのは聴覚だった。何かを食べているようなくちゃくちゃという音が聞こえたのだ。そしてそれを視覚でも捉えたとき、少女は今まで生きてきた中で出したことのない大声を張り上げていた。
つまりそいつは、男性の腕と脚とを食べていたのだ。
怯えきった少女の瞳に映るそれは、少女の背丈の三倍はあるだろうか。同じ姿形をしていても、左右で違う動きをしている二つの塊があって、二体いるのだとわかる。
だが、よくよく見てみればその二体は違う姿形をしていた。一体は脚が異様に長く、少女の頭上はるか高くで獲物を愉しんでいた。もう一体は腕が異様に長く逆立ちをして、上に伸びる脚と下で支える腕のちょうど中間点で獲物をすりつぶしていた。
ただただ異様な姿だった。発達したそれぞれの脚と腕以外は骨が浮き出るほど痩せ衰え、顔に当たる部分はぼろ切れのような黒い布で覆われていた。そして、二体の背中からは大量の血が流れていた。人と同じようなどす黒い赤い血が。
一定の間隔でしとしとと降る雨が少女に当たる。
大きく開いた目が、ただ単純に目の前の光景を分析させてくれたおかげで、少女は我に返り、幾分かの冷静さを取り戻していた。
すぐにポケットのスタンガンを手に持つ。護身用のスタンガンが、こんなに巨大なものに効果がないのは分かり切っていたが、何か武器を持っていればまだ対抗心が沸く。
目的は一つ逃げることだ。
(幸いにも今は私に攻撃してくる気はないみたい。今なら走って逃げればなんとかなるかも)
右足をじりじりと半歩後ろに下げる。石ころが当たる感覚があった。途端に逆立ちしている方が少女に顔を向けた。全身に緊張が走る。けれども、襲ってくる様子はなかった。
(逃げられないっていうの? 顔は布で覆われているから、何か音に反応するのかしら。……でも、そうだとすると叫び声を上げたときには襲われなかった。それにあの男よりも森に近かった私が襲われないで、男の方が襲われたのはなぜ?)
無差別? 雨で音が聞こえなかった?
少女の頭脳はあらゆる情報を総動員させて、一つの仮説を導き出そうとしていた。その仮説は、おそらく、より現状に対して安全な方法。
(私と男とで違う何か。性別? いえ、この森で行方不明になったアホな奴らの中に女性もいたはず。じゃあ何? 何が違うの!?)
感情が横やりし、思考が纏まり切らなくなったそのとき、一本の仮説が頭の中に閃いた。
(そうよ。あの男は逃げようとした。『背中を向けて』。獲物が背中を向けたときが一番襲いやすい)
でも、視覚は使えないのにどうやって……。いえ、音だけでも判断できるわね。正面と背中を向けたときでは、音波の進む方向が違うし、走り方で背中を向けているのがわかるわ。
だとすれば、山道で遭った熊の如く正面を向いたまま後ろ向きで歩けば。
「オォォォォ……オォォォォ!!」
「え……」
少女はまだ気づいていなかった。咀嚼はいつか終わるであろうことを。咀嚼が終われば次の獲物を狙う。ましてや逃げることもできずに立ち止まっている獲物ほど狙いやすい獲物はいない。
少女の眼前にこの世の物とは思えないほどおぞましい腕と脚が振り下ろされた。
「……私、死んだの? 死って痛くないのね」
「お前、実は馬鹿だろ」
「何言ってんの! 私はこれでも……あぁっ!?」
少女の目の前で展開されていたのは、今さっきと同じ光景だった。ただ一つ違うのは、髪全体をワックスで掻き上げたような髪型と全身黒ジャージの見知らぬ男が巨大な脚と腕を持ち上げていたことだ。
正確に言うと、持ち上げているのではなく、上からの圧力をびくともせずに耐えていた。それも素手で。
「あ、あんた誰よ」
「大遅刻のヌカヅキだ」