弐
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昼でもなお暗い霊安室は、不気味なくらい静かだった。外の大雨が存在しないかのようなその静けさは、もしかすると異界に迷い込んでしまったのではと錯覚させるほどだった。
紙都は大きく溜め息を吐いた。いやがおうにもそのときのことが思い出されるからだ。あのとき、紙都は自分の行動をただ黙って見ていることしかできなかった。これは夢だと、自覚のある夢の中のように何もすることができなかった。そして、それ以上に強い力で誰かを捩じ伏せる快感を覚えているのが許せず、気持ち悪かった。
母、御言の言うとおり沙夜子がいなければ、その快感に呑み込まれていたかもしれない。そのせいで沙夜子に危害を加えるようなことがあれば……と恐怖すら感じていた。
そんなもやもやが起こることをわかっていて紙都がここへやって来たのは、浄霊のためだった。御言が指示したという理由もあるが、何よりも真実を解き明かす必要があると感じたからだった。
紙都が数珠を取り出し、念仏を唱えると十数体の青白い光が次々と現れ漆黒の闇を照らした。それらは次第に人の形を成していく。
そのうちの一人、一際強く輝く一人に数珠を絡めた右手で触れる。死ぬ直前の思考が、感情が紙都の中に流れ込んだ。
火の海のなかを逃げる増上の後ろ姿。守り切ることができた安堵に浸ることもできず、内蔵含め全身が焼ける痛み苦しみ、一人で逝くことの絶望、そして最後に見たのは増上の笑顔だった。
右手を引き離すと、紙都はがくりと床に膝をついた。荒い息を整えながら、昂る感情を押さえ込む。
増上の言うとおり、酒谷武安は罪人などではなかった。少なくとも業火に焼かれるような罪など犯していない。最後まで大切な人の命を案じ、大切な人を想う人間が地獄のような責め苦を追われる理由なんてない。
紙都の拳が床を割った。そして、ゆっくりと立ち上がると鬼面仏心を呼び出し、満身の力を込めて横断。静かに魂が消え行くなか、紙都は一つの決意をした。
(必ず、ぬらりひょんを止める)
「それが浄霊とかいうやつか」
後ろから聞き覚えのある声がした。振り向きざま刀を振るうが、柄で防がれる。と、男の鎌を持つ手が緩んだ。
「やめろ。殺しにきたわけじゃない」
「なに!?」
「お前と真正面から戦っても勝ち目はない。今日はぬらりひょんの居場所を教えに来た」
紙都は一巡したあと刀を柄から離した。同時に男も鎌を手元に引き寄せる。
「どういうことだ?」
紙都は殺気を放ったまま単刀直入に聞いた。
「目的が変わっただけだ。ぬらりひょんから命じられてお前を殺そうとしたが、気が変わった。お前と組めばぬらりひょんを殺せる」
「そんな話信じられるか!」
「信じなくてもいいが。このままだとお前の母親が死ぬぞ。ぬらりひょんは次の封印を解いたら、最後の封印である鬼救寺に乗り込み、結界を施したお前の母親を殺しに来る」
紙都の手から刀がふっと消えた。両手で男の胸ぐらをつかむ。
「なんだって!?」
「当然の話だ。ぬらりひょんの狙いはお前も知ってるだろ? どんな手段を使ってもあいつはこの地の封印を解こうとしてる。それを防ぐんだったら、俺の話に乗るしかない」
紙都はその手を離すと、「わかった」と短く答えた。




