壱
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蒸し蒸しとした暑さも落ち着き、幾分過ごしやすい気候になった晩夏のその日は、朝から細かい雨が降り頻っていた。雨音が屋根や窓に当たり、一種リズミカルな音を刻んでいる。
その音を赤い傘を通じて感じながら、沙夜子は山門を抜けた先の茶色の木製の引戸の前で躊躇していた。
頭上には雨天に似合う鈍色の瓦屋根が沙夜子の行く手を阻むように威圧感を放っている。屋根の下、引戸の右上に置かれた扁額にはなかなかの達筆だが、素っ気なく鬼救寺と書かれていた。
(鬼救寺なんて、やっぱり変な名前ね)
沙夜子は、改めてそう思った。自宅から電車で5駅とさほど離れていない位置に長年佇んでいたが、来るのは初めてだった。存在を知ったのもついこの間のことだ。
調べてみると、鬼救寺の歴史は意外にも古く、天文13年、1544年、つまり戦国時代に建立されたことがわかった。それから現在の鬼神御言の代まで戦禍を逃れ脈々と受け継がれている。
問題はそれくらいしか情報が出てこなかったことだ。沙夜子は、インターネット以外に市立図書館へも行き郷土資料などを漁った。しかし、どこにも鬼救寺の名前は出てこないのだ。これだけ歴史が古く、確実に南柳市で最も古い寺がほとんど何も資料がないということは、情報がないのではなく、意図的に隠されているのではないかーーと沙夜子は考えていた。
沙夜子は再び鬼救寺の文字に目を向けた。屋根で庇いきれない雨が滴り落ち、濡れている。
鬼ーーの一文字がクローズアップされ、沙夜子の脳裏には先日の夜の出来事、そして、それ以前の怪異に遭遇した出来事が瞬時に流れ過ぎていった。謎の男、火車、樹木子、足長手長ーーそして、鬼神紙都。
あれだけ怪異を待ち望んでいたはずなのに、沙夜子の心は今の天気のように重苦しかった。
あの日以降、海の水が一斉に引いたように奥深くに隠れていた記憶が浮かび上がった。なかったはずの記憶が次々とフラッシュバックのように思い出されるなかで、多くの人の死が、妖怪の脅威が沙夜子を急襲した。一人で家にいて絶叫してしまったときもあった。
沙夜子は傘の柄を握った。今でも思い出すだけで、体が震えてしまう。最も嫌なのは、あの目。紙都のーーいや、鬼の血の色のようなあの赤い紅い瞳だった。それを思い出すと、体が凍りついたように強張り、動かなくなってしまう。そして、数秒後じっとりと冷たい嫌な汗が背中を濡らし、息が止まっていたことに気づくのだ。
沙夜子はそして、同時に自分がどんなに浅薄だったか知った。人々の死を見て、本物の怪異は興味本位で探るようなものじゃなかったと思った。
雨音が一段と強まった。このままここに突っ立っていればびしょ濡れになってしまうかもしれない。
それでも、沙夜子はここに来たのだ。オカルト研究部としての興味ではなく、自分の身に何が起こったのか、そして何より紙都がどんな存在なのか、命を掛けてでも知りたい、知らなければいけない、と決意して。
意を決して引戸に手を伸ばすと、するすると引戸が開き、中から白衣を纏った若い女性が現れた。
「あなたが柳田沙夜子さんね。風邪引くから、ひとまず中に入って」
鬼神御言はいつもの如く無表情のままで、しかし柔らかく優しい声色で案内した。
鬼救寺に連なる居住部分の居間に通された沙夜子は、雨粒が窓を叩く音を聞きながら畳の縁をずっと見つめていた。どこかでこの光景を見たような気がする。
静かに襖が開く音がして、振り返ると、お茶を乗せたお盆を持った御言が視線を合わせて会釈する。沙夜子もそれにつられて軽く頭を下げた。
「ごめんなさいね。寺の前に誰かが来ていたのは知っていたのだけど、来客中で」
言いながら沙夜子と自分の前にお茶を置く。
「あ、いえ、こちらこそ不躾にお邪魔してすみません」
沙夜子は神妙な顔をして体の前で手を振ると、いただきますと言って湯気の立つお茶を一口、口に含んだ。甘い玉露の味わいが口いっぱいに広がる。
「ところで私のことご存知なんですか?」
「ええ、紙都からよく話を聞いているから」
「紙都が私の話を?」
どんなことを? と聞きたくなったが、本題からずれていきそうと、思いとどまる。
御言は色白の細長い指で上品に湯飲みに手を添えてお茶を啜った。
「それに。あなたにはずいぶん昔に一度会ったことがあるの。覚えているかしら? いえ、思い出せた? と聞いた方がいいわね」
沙夜子の目が少し大きく見開かれる。
「この部屋見覚えがある気がするんですが、まさか」
御言は柔らかく頷いた。
「そう。ここで少し話をしたわね。あれはまだ私の夫ーー紙都の父、怜強が生きていたとき、妖怪に襲われたあなたをここに連れてきたのよ」
衝撃の言葉に持っていた湯飲みを落としそうになる。
「私が妖怪に!?」
「ええ。あなたを襲った妖怪は取りつく類いの妖怪で、怜強だけじゃ対処しきれなくてここへ連れてきたのよ」
「ここへ連れてきたって何をしたんですか?」
御言は持っていた湯呑みを畳の上にそっと置いた。
「沙夜子さん。さすがに京極家は知らないわよね?」
「京極家?」
「ええ。妖怪に対抗するために人間が作り上げた技術の一つ『結界陣』を用いた妖怪退治のスペシャリスト集団……だった。私はね、そこの出身なのよ。その術を使ってあなたに憑依した妖怪を追い出した。そのあとあなたを家に帰して、もちろん記憶は消えたはずだったんだけど、封じられた記憶は怪異への尋常じゃない強い興味関心となってあなたの中に残ったみたいね」
「そう……だったんですか」
沙夜子の目が泳いだ。樹木子のときに思い出した過去の記憶が鮮やかに甦る。亡き父の記憶、そして周りから浴びせられた罵声ーーそれらを思考の外に置くために沙夜子は強く目を瞑った。
「私は、結界陣。そして怜強は鬼の力で南柳市に出現する妖怪を退治しながら調査をしていたわ」
やっぱり、紙都の父は鬼だったのか。
「それでこの地域には強力な結界が施されてることに気がついたのよ。鬼救寺を中心にした人間を守るための結界がね。ところが何者かが結界を壊そうと各地の封印を解いていることがわかった。それを阻止するために私達は動いていたのだけど、あるとき、怜強が殺された」
「殺された? じゃあ、結界はどうなっているんですか?」
「怜強が死ぬ前に弱まっていた封印すべてを私の術で修復したから、結界は壊されずにすんだわ。でも、最近になって再び各地の封印が解かれて怪異が出現するようになった」
「それがこの間の怪異の原因」
御言は小さく頷く。
「ええ。同時に紙都の中の鬼の力も目覚めて、怜強の後を継いで妖怪から人間を守っていたというわけ」
「紙都はそのことを……」
「私の口からは伝えてないわ」
「なんでですか!? 知らせていれば危険な目に合わなかったかもしれないのに! それにあんな、あんなーー」
何事もないような口ぶりに思わず声を荒らげる。
「鬼状態になった紙都を見たのね? 感情が暴走し人間としての自我が保てなくなると、鬼に呑み込まれてしまう」
「それを知ってるならなおさら!」
「知っていたところでどうすることもできないわ。これは紙都に与えられた試練のようなもの。いずれ起こることなら、むしろ全く知らないで戸惑った方がいい」
「そんな勝手ですよ!」
「だけど、あなたがいるじゃない。あなたは妖怪の記憶を取り戻したからここに来たのでしょう?」
何もかも見透すような漆黒の瞳が沙夜子の瞳を見据えた。紙都にそっくりな瞳だった。
「そうです。記憶が急に浮かび上がったんです。とても信じられないような、信じたくない記憶でしたが、これは事実だと確信しました。だけど、妖怪のことや紙都……くんのことがわからなくて、ここへ来たんです」
「紙都の言った通りね」
「え?」
御言の顔には珍しく微笑みが浮かんでいた。
「自分の信念や正義感には絶対真っ直ぐなやつだから、危険を省みないから困る。そうやってちょっと嬉しそうに言ってたわ」
そこで言葉を切って、御言はお茶に口をつけた。
「沙夜子さん。あなたには全てを話します。話した方がたぶん、あなたのためになると思うし、きっと紙都のためにもなる」
沙夜子は目線を合わせたままゆっくりと頷いた。雨音がやけに気になる。
「妖怪にはそれぞれいろんな能力があるけど、そのなかでも鬼の力は、殺戮の力。争いの中で一度スイッチが入れば、殺戮、破壊の本能が身体を支配して、本人の意思や理性と関係なく破壊に興じる。だから、妖怪の中で最も危険で最も厄介な存在として、今までの歴史にその名が刻まれてきたのよ」
沙夜子は廃病院での紙都の姿を思い出していた。普段の紙都から想像もつかない容赦のない攻撃は、確かに本能と言った方が的を得ていると感じた。
「怜強もそうだった。優しい人だったけど、一度タガが外れると荒れ狂った。だから、私の力で怜強の中の鬼の力を無理矢理抑えることで理性を保ったまま戦うことができていたのよ。だけど、鬼の力を一定封印されている状態だから、どうしても弱体化してしまって、それが死につながる一因にもなってしまったの」
沙夜子が口を挟む。
「だとしたら、紙都も鬼にならないと本当の力が発揮されないってことですか?」
御言は静かに首を横に振った。
「紙都には、人間の血と鬼の血が入っている。だから、おそらく、紙都の場合、人間の理性を保ったまま鬼の力を100%発揮することができるはず。あなたの呼びかけで紙都の行動がストップし、そのまま倒れ込んだのは、人間の理性が暴れる鬼の本能をなんとか抑え込んだ結果生じたことだと思うの」
「ええ」
そう短く返答し、御言は少し冷めたお茶を飲んだ。
「沙夜子さん。この寺の名前、なんで鬼救寺か知ってる?」
「いえ、知りません。変わった名前だとは思ってましたけど」
「鬼は昔人間だったんじゃないかって説があるの。いろんな理由で苛められて迫害されて行き場のなくなった人間が鬼になると。先々代の住職はそんな鬼を救うことこそ、真の仏の道と言っていたわ」
御言は沙夜子の目を真っ直ぐに見つめた。
「嬉しかった。私と怜強が共に生きられる世界がこの鬼救寺ならつくれるって」
喜びとともに憂いも帯びたその言い方に、沙夜子は二人の過去を想像した。妖怪退治専門の家に生まれた女性と鬼の男性。二人が共に生き抜くことは決して簡単なことではなかったはず。
「紙都はね。私と怜強の希望でもあるの。相容れないはずの二人が交わることが証明されたのだから。だから、そんな紙都をあなたに守ってほしい」
「はい」
と、自然に自分の口から出た言葉に沙夜子はびっくりした。
「あっ、いやその守ってって言われても、その」
「そのままのあなたでいいのよ。また怪異が起こったときに、あなたと紙都はまた一緒に行動することになるでしょ?」
「それはまあ、確かにそうかもしれないですが」
たぶん、いや間違いなくそうなるだろう。そんな予感はあった。
「それでいいんだと思う。紙都のことよろしくお願いします」
(……え?)
御言の口調がなぜか哀しげに聞こえた。しとしとと降る長雨のような。
それが気になったものの聞くことができずに、沙夜子は鬼救寺を後にした。
赤い傘を広げるとリズミカルな雨音が傘を揺らした。
来たときと違い帰りの足取りは軽かった。大変な真実を聞かされたものの自分のやるべきことが見えてきた、そんな気がしていた。
これからのこと、紙都のことに思いを巡らせながら帰路に着く。まずは情報の整理をしなければ。
電車を降りてしばらくしたとき、すれ違う男性と目が合った。
「行きはよいよい帰りはこわい。この唄知ってます?」
「え?」
思わず立ち止まってしまった沙夜子が最後に見たのは、意地悪く笑う男の顔だった。
傘が宙を舞い、水溜まりに落ちる。その上を冷たい雨が降り続いた。