捌
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「呆気ない。気が変わった」
そう吐き捨てるように言うと、男は振り返った。冷たい月光のような瞳が沙夜子の姿を見据える。その目に全身の血が引くような寒気を感じて、金縛りにあったかのように目が離せなかった。
ゆっくりと鎌を動かす音が部屋のなかに静かに響く。
「……うっ、何する……気だ」
紙都は息も絶え絶えになりながら立ち上がると、消え入りそうな声でそう言った。
「この女を殺す。妖怪の記憶を持っているんだ。殺すしかないだろう」
鎌を動かす音が消えた。今すぐ逃げ出さないと、という思いと裏腹に沙夜子の体はピクリとも動かない。
(なんでよ! なんで動かないのよ!)
それは、残念ながら本物の恐怖に相対したときの正常な反応だった。
「や……め、ろ!」
その声は届くことなく掻き消えた。鎌の切っ先が宙を切る。
沙夜子はやっと動いた瞼で目を瞑った。紙都の慟哭が部屋中に響き渡る。
何かが衝突する音が聞こえて沙夜子は恐る恐る目を開けた。その目がすぐに大きく見開かれる。
目の前には男のかわりに紙都が頭を上げて立っていた。いや、それに驚いたのではない。その紙都の口が大きく開かれ、犬歯というよりももはや牙と言った方がいい鋭い歯が並び、そして一本の角が生えていた。
その姿はすぐに沙夜子の既知の情報と結びついた。すなわち、それは。
「鬼」
紙都は雄叫びを上げた。思わず耳を塞ぎたくなる地鳴りにも似た声だった。
「紙、都?」
問いかけに答えることはせず、紙都は猛然と疾走した。その先にはついさっきまで自分を殺そうとしたはずの男が地面に足をついている。
「そんな、これが鬼の力ーー」
言葉を十分に発する間もなく紙都の拳が男の顔面に叩きつけられる。男の体は衝撃に耐えられず壁へと吹き飛ばされた。
続けて連打。一つ一つが壁面を割るほどの連撃。
(あんなの、あんなの紙都じゃない)
沙夜子は自分の体が勝手に震えているのを感じた。同時になぜか哀しみにもにた怒りが沸々と沸き上がってくる。
(やめて)
ぎゅっと強く両手を握る。沙夜子の瞳に映る紙都の背中が濡れていた。
紙都は男の胸ぐらをつかみ壁に押しつけると、もう片方の手で顔を殴りつけた。
(やめて!)
何度も何度も。
(やめて!!)
なぶるように。
「やめて!!!!」
沙夜子の言葉が届いたのか紙都の動きが時計の針が止まるように止まった。
その隙を縫って男は壁から這い出した。そのまま鎌を振るうと、強烈な風が男の周りに集まっていき、空間ごと切り取ったかのように目に見える風の層が出現した。
「侮っていた。次は必ず殺す」
その言葉だけを残して、男は姿を消した。
「終わった…… あ、ちょっと!」
沙夜子は駆け出して、倒れかかった紙都の背中に両腕を伸ばした。が、その体重が支えられるわけもなく共に床に倒れる。
「痛いわね もう……」
崩れ落ちた紙都は眠っているように穏やかな顔をしていた。
沙夜子はその頭を膝に置いて目や口をいじくり回した。瞳はいつものように黒く、尖った歯も、角も、もうない。
「戻ったのね。よかった」
紙都の顔に滴がポタポタと落ちていった。