漆
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沙夜子の前に降り立つと、沙夜子はほっとしたような笑顔を紙都に見せた。
「遅いじゃない」
「仕方ないだろ。さっき蓮からのメールで知ったんだから。それよりーー」
後ろから唸り声が響く。
「しゃべってる暇はないな」
「そうみたいね」
後ろから放った斬撃は致命傷とはならず、火車は臨戦態勢に入っていた。両腕がさらに肥大化し、肝を潰すような唸り声を発し続け、身に纏った炎が激しく揺らめく。
焔の勢いが増大し、唸り声は地響きのような雄叫びに変わった。
(……来る)
紙都の身長ほどの右腕が空を切って振り下ろされる。刀でそれを防ぐと、一拍の隙もなく左腕の一打。後ろに思い切り跳ねると、紙都は着地と同時に飛び上がり刀を構えた。
そこへ巨大な火球が放たれる。
「なっ」
エネルギーと熱が凝縮された巨大な橙色の塊が迫る。避けるのは簡単だがーー。
紙都はちらりと後ろを見た。心配そうな表情の沙夜子と目が合う。
(避けるわけにはいかない)
構えた刀に力を込める。そこへ衝撃とともに火球がぶつかる。息すら焼き尽くすような高温の熱風が紙都を襲う。
歯を食いしばり、全身の力で刀を下から上へ振り抜き、火球を弾き飛ばす。天井に当たったそれは壁を抉った。
「沙夜子! 離れてろ!」
「わかってるわよ! でも、この子が」
増上は依然として地面に伏したままだった。自責の念からか何かを呟き続けている。
そこへ再び地面を震わす咆哮。
身構える紙都らに火車は呪詛のような言葉を発した。
「コ…ロ…ス、罪人は……地獄の炎……で殺す」
「なっ、地獄の炎?」
「火車は死んだ罪人の死体を地獄へ運ぶと言われているわ。もしかして、そのことを言っているのかもしれない」
「罪人って! どこに罪人がいるんだよ!」
「武安」
「え?」
振り返ると増上がよろよろと力なく立っていた。しかし、その目はしっかりと火車の顔を睨む。
「武安のことよ。みんな、みんな武安が悪人だって決めつけて。本当のあの人を見たことがないくせに。罪人? ふざけるなよ! 武安は罪人なんかじゃない! 武安を殺す理由や権利なんて誰にもない!!」
沙夜子は、ふらふらと前へ進もうとする増上の手をつかんだ。
「なに言ってるの? 逃げるわよ!」
「武安はね。唯一私の味方だったの。家にも学校にも本当の居場所なんてなかった私の唯一の居場所だったの! そんな人が罪人なわけない! 殺される理由なんてない! 殺したお前が罪人だ!!」
増上に答えるかのように火車は唸り声を上げた。
「罪人は……殺す」
「黙れ!!!」
沙夜子の手を振りほどいて、増上は火車に向かって突進していった。憎しみに身を任せて何も見えていなかった。
沙夜子と紙都は慌ててそのあとを追うが、火球が放たれ増上に迫る。
(ダメだ、間に合わない!)
「情けないやつだ」
その言葉とともに不意に風を切る音と突風が吹き、風によって角度を変えた火球が地面を抉る。次の瞬間には火車の体がズタズタに切り裂かれていた。
ゆっくりと仰向けに倒れ、地面を震わせると、その体を覆っていた火が、まるで蝋燭の火が吹き消されたかのように掻き消えた。
倒れた火車の後ろには自身の大きさ以上の巨大な鎌を携えた長髪の男が立っていた。
突然、増上が床に倒れる。
「増上さん!」
紙都と沙夜子が慌てて駆けつけると、気を失なっているだけだとわかり、安堵の息を吐く。
「紙都! あいつ誰よ?」
「知らねぇよ!」
「でも、あんたと同じ妖怪よね?」
沙夜子の発言にぎくりとした。どこまで思い出したのか気にかかるが、まず突然現れた男が何者なのか確かめなければ。
男は鎌の柄を肩に乗せると頭に手をやり深い溜息を吐いた。
「人間に正体がバレたのか」
低い落ち着いた声がそう呟いたのを聞くや否や紙都の体は宙に浮いていた。
(な……)
息つく間もなく地面に背中が叩きつけられる。起き上がろうと頭をもたげた目の前に鈍く光る刃物が突きつけられていた。
「死ね」
すんでのところで首をひねり刃を避けると、後ろ向きに飛び跳ねて距離を取る。なんとか離さず掴んでいた刀を縦に構えると、紙都は声を荒げた。
「いきなり何しやがる!」
「殺そうとしただけだ。あんな妖怪一人に手こずり、正体を知った人間と一緒にいるやつに生きる価値なんてない」
男は表情一つ変えずに早口で言うと、鎌を頭上から足元へ大きく振るい、跳躍した。
紙都の顔めがけて繰り出された一撃を刀で払う。重い一撃。紙都は指先が痺れるのを感じた。
すぐさま下からの二撃目。刀を水平にして受け止めるが、衝撃に体がよろけそうになる。
続けて右回転からの三撃目。四、五と一分の隙もない機械のような冷酷無比な斬撃を受け止める度に体にダメージが蓄積されていく。
「紙都!!」
防戦一方の様子を見かねたのか沙夜子から心配の声が上がった。
「これで終わりだ」
その思いもむなしく、上段からの強烈な一太刀が紙都の刀を弾き飛ばし、続けざまの横薙ぎが身体を貫く。
治ったばかりの傷痕ごと腹部が切り裂かれ、真っ赤な鮮血が暗闇のなかを飛び散った。
紙都は強烈な痛みに顔を歪めてうずくまってしまった。
「呆気ない。気が変わった」
男は得物についた血を振り払うと、くるりと向きを変えた。




