陸
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誰もが寝静まった深夜。街灯がない山道を月明かりが照らしていた。本格的な夏の暑さも乗り越え、この時間になると少し肌寒いくらいだった。
木々の隙間を縫って月の光がまるでスポットライトのように沙夜子の顔を照らした。肌寒いとはいえ、3、40分近く歩いてきたため、その顔にはうっすらと汗が流れていた。小さめのリュックから白無地のふわりとしたタオルを取り出すと、汗を拭き取り、ついでにペットボトルのジャスミンティーで喉を潤した。
「いやエロいですね」
犬山がすかさずコメントする。
「はっ? 何言ってんのよ?」
「もちろん汗ですよ。美少女の汗! これほど健康的かつエロスなものはほかにない!」
「変態」
数歩犬山から距離を取って、沙夜子は吐き捨てるように言った。
「ちょっと、遊んでないで詳しく説明してよ!」
増上が声を荒げた。犬山がすみませんでした、と深く頭を下げる。
「そうね。じゃあ、歩きながら説明するわ」
そう言うと、沙夜子はリュックを背負い直して歩みを進めた。再び暗闇が4人を包む。
「あなたが寝ている間にいろいろ調べたのよ。武安という人物をこの変態に調べさせたら、周囲からはいわゆる不良のレッテルを貼られていることを知って、心霊スポットでも肝試しに行ったんじゃないかと仮定したの。そしたらネットの掲示板がちょうど廃病院の噂で持ちきりになっていたのよ」
「掲示板?」
「ええ。ちょっと遡って見てみたら、3日前くらいから話題になってたわ」
急に増上が立ち止まった。ちょうど後ろを歩いていた吉良がその背にぶつかる。
「知らなかった……知ってたらぜったいに、ぜったいに止めたのに……」
その言葉が、哀しげな口調が沙夜子の心を抉った。それでも冷静にならなければと、顔を上げる。緑を讃えた木々が風に吹かれ、小刻みに揺れていた。
「……その掲示板に載っていた廃病院の噂を元に吉良が持っている辞典で調べさせたの。そしたら、『火車』と呼ばれる妖怪が該当した」
そこで口を閉じる。やや沈黙が流れて慌てて吉良が後を継いだ。
「ええっと! あ、あの、いろんな噂があったんですが、どれもよくある怪談話みたいで。ただ、その中にむやみに病院に入ったら火がつくという、ちょっと珍しい特徴があったんです。か、火車は、姿形は伝承によってバラバラなんですが、生前悪い行いをした者の死体を盗み、地獄へ運ぶという……」
増上が吉良の方へ振り返っと思った途端、胸ぐらがぐっとつかまれた。
「ちょっと待って! 武安は何も悪いことしてない!」
「はっ はい、いや、すみません! そういうつもりで言ったんじゃなくて」
「じゃあ、どういう意味よ! どうせあんたも武安のこと、不良でどうしようもないやつだって見てんでしょ? だからそんな言葉が出てくるんだ! 武安はそんな人じゃない!」
「ち、違う……。僕は、そんなふうになんか……」
「ちょっといい加減にやめなさい!!」
沙夜子の声が木霊のように森の中に響いた。一拍ののち再び静けさが戻ってくる。
「あなたの彼氏がどんな人か私たちにはわからないわ。ただ、周りからは相当な不良として見られていたのは間違いない事実でしょ?」
「そうっスね。煙草は当たり前、ケンカもよくしてたって言うし」
「だから、もしかしたら火車が……」
慎重に言葉を選ぶ。
「いえ、この事件を起こした者が本当に妖怪で、その妖怪が火車だとしたら、その噂や表面だけを見て判断したのかもしれない」
いや、そもそも生きている人間を襲うというのが、伝承の性質からすると不自然なんだけどーーその仮説はまだ心の中に留めておく。
「だから、今、私たちは真実を確かめに行くんじゃない。まだ、あなたの彼が亡くなったかどうかもわからないし」
増上は吉良の胸ぐらをつかんでいた手を離すと、小声で謝りの言葉を述べた。
それを見届けると、沙夜子は少しだけ笑みを浮かべて踵を返して歩みを進めた。しかし、心の中では不安定な状態の増上を連れてきてよかったのかどうか、その懸念が膨らんでいく。
(ああは言ったけど、おそらく彼氏は……。部室では大丈夫そうに思えたけど、何かがあった場合まずいかもしれない)
「ところで、その火車とやら本当に出てきたらどうやって対処するんスか?」
しばらく歩いたのち、犬山が口を開いた。
「ああ、それね。逃げるに決まってるじゃない」
「えぇ!? マジすか!?」
「どんな妖怪かもわかってないのよ? まぁ、火を扱う妖怪だから、水とか消火器持ってきて消すとか強風で掻き消すとかできるかもしれないけど、そんなものそうそう用意できるものじゃないし。もし、本当に現れたなら対応を決めてまたくればいいのよ。あっ、ほら、もう着いたわよ」
林の合間を縫って沙夜子たちの目の前に件の廃病院が急に姿を現した。窓や壁にはヒビが入り、草木も伸び放題と荒れ果てた建物が夜の闇に不気味に聳え立っている。
「……やっぱり、怖い」
そう呟くと、増上は両肩を擦った。
「先輩、大丈夫です! 僕が手をつないであげーー」
「バカなこと言ってないで先に進むわよ」
沙夜子の鋭い突っ込みを受けて、残念そうに頭を横に振った犬山は、何かを思い出したように「あっ」と声を出した。
「沙夜子さん!」
「何よ?」
「紙都が来てません!」
「いいのよあんなやつ」
瞬時に返ってきた声は、気にしないふうを装ってはいたが、刺々しかった。
「僕から連絡しときましょうか? 沙夜子さんがマジおこだぞって」
「いらない」
犬山が「そうか」と言ってポンと手を叩いた。
「沙夜子さん直々に連絡を?」
「しないわよ! 第一、かみ……あいつの連絡先知らないもの」
「えぇ? なんで知らないんスか? 部活の連絡とかどうやってやってたんスか?」
沙夜子は腕を組んでそっぽを向く。
「そ、それはあんたとかから連絡してもらって」
「え、なんで直接連絡しないんスか? その方が楽なのに」
「そ、それは、その……もう 行くわよ! そんな無駄話してるときじゃないわ」
へーい、と気のない返事が聞こえたが、そんなことは沙夜子の頭には残らなかった。いざ、両開きのドアに手をかけると、さすがに恐怖感や緊張感で体がいっぱいになる。
キーッと軋む音を立てる重い扉をゆっくりと開けると、外の闇よりもさらに暗く重苦しい雰囲気が沙夜子を包んだ。常闇という言葉が沙夜子の脳裏に浮かぶ。
「さすがに雰囲気あるわね。増上さん大丈夫?」
増上は自分の両手で自分の身体を抱き締め、かろうじて頭を縦に動かす。
(……やっぱり、厳しそうね)
「早く進むわよ。あんたたち二人は前に行って。私は増上さんと一緒に行くわ」
「りょーかいっす」
犬山は嫌がる吉良の肩を押しながら暗闇の中を進んだ。
「2階だからね」
「へーい」
「さて、私達も行くわよ」
そう言うと、沙夜子は微笑みを浮かべて増上に手を差し出した。
「よければ、どうぞ」
増上は躊躇しながらもその手を握った。温かいその手の感触がいくらか恐怖や不安や緊張や後悔、そのた諸々の負の感情を緩和させる。同時に、彼、武安の手を思い出た。
ゴツゴツしてて、力強いあの手。守ってやると言ったあの手。
増上は目を閉じた。そして、再び目を開けるとその瞳には確固とした意思の光が宿っていた。
増上は沙夜子の手から自分の手を離した。
「大丈夫。一人で行けるから」
驚いたように沙夜子は目を丸くしたが、すぐに「そう」と言ってまた柔らかく笑った。
ところどころ欠損した階段を慎重に上る。前へ進む増上の足取りは確かで揺るぎのない思いを沙夜子は感じ取った。と、件の部屋の前で犬山と吉良が立ち止まっている。
「どうしたの?」
増上が問いかける。確かにここは手術室だが、二人はここで私たちが襲われたことを知っているのだろうか。そう思い、扉に近づく。
「っつ……」
暗いが、焼け焦げた跡がはっきりと扉全体にこびりついていた。部屋中を真っ赤に染めたあの炎だ。
「ここで間違いないわね」
いつの間にか隣にいた沙夜子が呟いた質問に増上はしっかりと首肯した。
「あんたたちこのドア開けて。焦げついて扉が動かないわ」
「え? マジすか? さすがにちょっと怖いな……吉良、いっせーのでで押すぞ」
二人が何度かの体当たりで無理矢理扉を開けると、中にはさらに惨状が広がっていた。
「これ……」
沙夜子ですら声が出なかった。テレビのニュースでよく見る火災現場のようだが、あらゆるものが燃やし尽くされて原型を留めていなかった。まだ何かが焼け焦げた臭いが鼻につく。かろうじてわかるのは、部屋の真ん中の瓦礫の山の上に突き立てられている銀色のメスだけ。
「ひどいっスね」
その言葉に沙夜子は返事をしなかった。増上が立ち尽くす三人を置いて中に入り、ここにいたはずの彼氏の姿を探している。吉良はまともに現場を見られず、ハンカチで顔を覆っていた。
(何か変ね……)
もう一度じっくりと部屋の中を見回すとその違和感の正体に気がついた。
人の姿がないのだ。焼かれたとはいえ、ここにあるはずの遺体がなかった。かといって焼いた何者かが運んでいった形跡もなかった。移動できるとすれば、それは、瓦礫の下だけ。
その音に気づいたときにはもう遅かった。地面が割れるようなその音が沙夜子の耳に到達したその瞬間。眩い光が目を覆い、背中が廊下の壁に打ちつけられていた。
痛みに顔を歪めながらも沙夜子が急いで目を開けた先には――炎の塊があった。
「逃げて!」
そう叫ぶやいなや、全員が悲鳴を上げながら駆け出した。
犬山が横にいた吉良を捕まえると同時に沙夜子は部屋の中へ入り、増上の手を握ってその怪物の横を走り抜けた。部屋を出ると、二階の廊下を走っていく犬山と吉良の後ろ姿を目に止める。
次の瞬間、視線を遮るように化物が現れた。炎を体中に纏ったそれは類人猿のように毛むくじゃらだった。その姿に悪寒が走るが、踵を返して沙夜子は増上の手を引いて階段を駆け下りていった。――それは上半身だけしかなかったのだ。
階段を降りればすぐに入口に着く。がそれを察知したのか化物は異常なまでに膨れ上がった両腕を這うように素早く動かして、沙夜子たちの先回りをした。
「増上さんこっち!」
反転し、そのままの勢いで一階奥の廊下を走り抜けていく。後ろから壁や床を叩き壊しながら突進してくる音が聞こえる。
(まるで車輪。だから火車、か)
一際大きい両開きの扉が沙夜子の目に入る。
「増上さん、あそこ入るわよ!」
扉を勢いよく開けると雪崩れ込むように二人は中に入っていった。沙夜子はすぐに辺りを見回す。
「出口がない! とりあえず奥へ行くわよ」
部屋の片隅へと早足で進み、後ろを振り返るが、何の物音もしない。
(変ね。もしかして見失った? そしたら今が脱出のチャンス。まずは、あの馬鹿二人を探してーー)
「きゃーーーーーー!!!!」
耳をつんざくような叫び声に沙夜子の思考は中断させられた。横を向くと、増上が目口を大きく開けて恐怖の顔を浮かべている。
「どうしたの?」
「あ、あれ……」
増上の震える指が示す方向には、何かが積み重なっていた。目を凝らすと、それのシルエットが形を成していく。
沙夜子は思わず両手で口を覆った。それはほとんど炭化した人間の成れの果てだった。それが十数体積み上げられている。
「……た、たけ……たけ、やす」
「え……?」
二人は急いでその死体の山に近づいた。一番上に乱雑に置かれた死体は真っ黒に焼け焦げていた。だが、顔の表情はよくわかった。地獄を見たような苦悶の表情だった。
腰が抜けたように増上は死体の前にへたり込んでしまった。光を失った黒い瞳が中空を泳ぎ、掠れた声でその者の名前を連呼する。
(ダメだ)
残念ながら、沙夜子の悪い予感は的中した。
「ダメ、増上さん立って! 逃げなきゃ! 今は逃げなきゃ!」
沙夜子は増上の腕をつかんだ。無理矢理立たせようとするも全く力が入らず、立ち上がらせることができない。
「増上さん立って! 立ってよ!」
そのとき。沙夜子の目に赤い光が飛び込んできた。乱暴な音ともに扉が破られる。周囲のもの全てを嘗めるように蠢く炎がそこにあった。
聞いたこともない唸り声を上げながらそれは沙夜子の元へ向かっていく。死体の山が崩れ、焔が沙夜子の顔に触れるーーその刹那、髪の毛のようにうねる炎の奥に隠れた火車の目が大きく見開かれて止まった。
「かみ、と?」
直感で理解した。そして、問いかけに答えるように火車の後ろから現れた姿を見て確信した。
「紙都!」
「無茶するなよな」
そう呟くと、紙都は握った刀を大きく振り回し、跳躍した。