壱
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ところどころヒビが入った重いガラス張りの扉を開けると、夜闇に特有の静寂が来訪者二人を襲った。来訪者と言っても招かれた客ではなく、むしろ招かれざる客だ。
割れたガラスの破片を気にするふうでもなく進む一人は男だった。月の光が赤みがかった短い茶髪をぼんやりと照らす。背は高く、学校の制服をだらしなく着こなしていた。
男に手を引かれて慎重に歩を進めるのは、同じく赤みがかった茶髪をボブカットに揃えた制服姿の女だった。うっすらと見えるその表情からは不安、恐怖、困惑と言った感情が読み取れる。
ゆっくりと扉が閉まる音に女は立ち止まり、後ろを振り返る。つないだ手を強く握り締めた。
「ねぇ! ホントに大丈夫なの?」
声が辺り一面に響いた。反響に驚き思わず体を震わせた。
しかめ面をした男が振り向く。
「うっせ! もう少し小さい声でしゃべろや」
「ごめん。でも…何人もの人がここに入って行方不明になってるって言うし。廃病院ってだけで怖いし」
男は腰を落とし、まだ微かに震える女の顔を覗き込んだ。いつもは可愛らしい大きな瞳が潤み、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
空いた手を女の頭にそっと置き、なでる。
「大丈夫だって。あいつらは何もなく帰ってきたんだし、これで逃げたら笑い物にされちまう。それにー」
「それに?」
顔を上げた女は真っ直ぐに男の目を見つめた。恥ずかしさからか男は視線を外して言った。
「もし何かあっても絶対守ってやるよ」
女が言葉を発する前に、その手が強く引っ張られる。
「行くぞ!」
「うん!」
女の弾んだ声が響いた。
二人がいる場所は、南柳市の北、山の手前の坂道に面して建てられた病院の跡地ーーいわゆる廃病院だった。過去には総合病院として多くの患者が利用していたらしいが、時が経つにつれてどんな病院だったのか、なぜ廃墟と化しているのか、その過去が市民から忘れられ、今や心霊スポットの一つとして定着している。
「患者をメスで滅多刺しにして殺しまくった院長がまだ手術室と院長室の間をさ迷っているとか、殺された患者のナースコールが鳴るとか、いろんな噂があるんでしょ?」
そろった2つの足音が表面の剥げたタイルに反響する。
「よくある噂だよな~。あと、むやみに病院に入ったやつは急に体に火がついて黒焦げになるとか」
「え? なにそれ、初めて聞いた」
「なんでも火事で医者や患者もろとも建物が燃えて、その呪いがかかるとか……っと」
不意に足音が止まる。
「お、ここじゃね?」
両開きの扉の前で立ち止まった男は扉の上に置かれたプレートを指差した。かすれてところどころ読みづらいが。
「しゅ、手術室」
と、確かに書かれていた。
男の手が女の手から離れる。女は胸の前でぎゅっと手を組んだ。
「ほ、ほんとに入るの? 大丈夫かな?」
「大丈夫だって~今までなんともなかったじゃん」
男は扉に手をかけた。
「よし行くぞ」
部品が噛み合わなくなったのか、油が足りないのかわからないが軋んだ不愉快な音とともに扉が開いていく。
中にはーー。
「やっぱりなにもないじゃん」
そういう男の背中越しに女は室内の様子をこわごわと眺めた。
荒れ果ててはいるが、大きなベッドが一つに用途不明の電子機器、長机の上にはメスなど手術器具が散乱している。
「そうだ。あのメス、ベッドに突き立てて写真撮っとこうぜ。手術室に入ったって証拠」
男の背中が離れる。嫌な予感がした。
「待って! ダメだよ、さすがに」
「大丈夫だって。何かあれば守ってやるって言っただろ」
そう言って男はメスを手に持つ。それは銀色に怪しく輝いた。
「へ~けっこう軽いんだな」
「ねぇ! や、やっぱりやめよう! なんか別の写真撮ればーー」
男の手からメスが放たれた。綺麗な楕円形の軌道を保ちベッドの上に突き刺さる。
「ははっ、もう投げちゃった」
瞬間。部屋が赤に包まれた。
「え?」
ことを理解するまでに長い長い数秒の時間がかかった。ーーすなわち、部屋が明るくなったのは部屋が燃えているわけではなく、目の前にいる彼自身が燃えていること。そして、床下から得体の知れない「何か」が床を突き破って出てきたことを。
有り得ない状況が理解できたとき、女は扉の外へ突き飛ばされていた。
その目には、生き物が焦げた嫌な臭い、燃える体、男を呑み込む炎、炎、炎ーーそして男の叫ぶ口がスローモーションのように映っていった。
「逃げろ!!!!」
体に衝撃と激痛が走るが、構わず立ち上がった。そして、男の命令通り体を反転させて、来た道を駆け戻る。
建物の外へ出ても、女はスピードを緩めることなく走り続けた。地面には点々と涙が滴り落ちていった。




