拾伍
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沙夜子は頬をつねった。痛い。古典的な方法だと思ったが、それが現実を知る一番簡単で確かな方法だった。
言葉が出なかった。目の前で展開された出来事を表現する言葉がわからずにいたというだけでなく、電話口の奥にいる少女がどう感じているのかを気にしてもいた。
たった今、夢ーー良い夢とも悪夢ともつかないーーのような出来事を起こした男子生徒が刀を片手に歩み寄ってくる。
ただのそこらへんにいる男子生徒と同じだと思っていた。いや、ヌカズキとの繋がりからただのよりは金箔一枚分くらいミステリアスな男子生徒だとは思っていたが。でも、その男子生徒が実は半分妖怪の血が流れていて、樹木子という名の妖怪から自分達を救うために戦ったなんて、そんな絵空事のような出来事が実際に起こったなんて誰が思うだろうか。ーーそう思ってしまった。
目の前に立った紙都の目は哀しみに沈んでいた。
「……どうし、たの?」
電話の向こうに誰かがいるなんて忘れて思わず沙夜子は質問してしまった。
「ワクワクできてよかったな」
「え? なによ、そりゃこんなことあれば興奮するじゃない!」
紅い瞳が睨み付けた。
「興奮したんだろ? 自分と違う特別な存在が起こした物語を見て!」
「あっ……」
手に持ったスマートフォンが地面へと落ちていく。
そうか。私は知らず知らずに紙都を自分と違う異質な存在と捉えてしまった。すごい、って思うことはそういうこと。
「ごめん」
目を合わせて謝ることができない。
「……もういい。いや、怒ってもしょうがないよな」
そう言うと、紙都は踵を返して折れた桜の大木へと重たそうな足取りで進んでいった。
「まだやることが残ってる」
「……そう、なの?」
「ああ、浄霊だ」
「…………」
刀身が赤く光り、赤い一閃が空を切り裂ーー。
「ちょっと待てや、コラ!!」
懐中電灯が紙都の刀を弾き飛ばした。
「人が素直に謝ってんのに、なによその態度は!! そりゃあ興奮したわよ! あんたを特別視したわよ! だけど、そんなんで不貞腐れるなんて、やっぱ、あんたはただの紙都ね」
沙夜子は大きく息を吸って前に一歩歩を進めた。
「なにうじうじしてんのよ。あんたは、半分妖怪で、人より何倍も力があって、人より何倍も優しいじゃない。月並みな言い方だけど、あんたはそれでいいのよ。あんたがいなかったら私達全員ここで死んでたのよ」
決して後ろを振り向こうとはしない紙都の後ろ姿が、沙夜子の目にはひどく頼りなげに見えた。真っ暗闇の中にぽつんと立っている一本の木のように。そう思うと連想されるものがある。
ーーああ、こいつは一人なんだ。一人で戦っているんだ。
沙夜子はゆっくりとしかし強く心に刻み込んだ。
だったら、私が横に並ぼう。力では役に立たなくても、私の頭脳ならきっと役立てる。
だから、沙夜子は紙都の横に並び、仁王立ちした。
「……どうして?」
消え入りそうな声に堂々と答える。
「別に。ここにいたいだけよ」
恥ずかしい台詞を言わせないでよ。
紙都は驚き、目を大きく開いた。その横からも聞き慣れた声がかかる。
「俺もいるぞ。沙夜子さんを一人占めするにはまだ早い」
「あ、あんた何言ってんの!」
「イイんすよ。気にしないで下さい。沙夜子さんの気持ちは痛いほど伝わりました。あれ? ホントに胸が痛い」
やれやれと頭を振りながら長い溜息を吐くと、沙夜子は紙都の瞳を見つめた。
「鬼神紙都。あんたをオカルト研究部の副々部長に任命するわ。部長はあそこで寝ているやつで、私が副部長、私の下は副々部長、だからあんたは副々部長ね」
「すいませーん、オレはオレは?」
「あんたは部員ですらないわ。まあ、犬山だから、ペットでもいいなら入れてあげてもいいけど」
「むしろ、それの方がこいつは喜ぶぞ」
「わーい! ペット、ペット!」
再び懐中電灯が投げられた。
「さて、儀式を再開するか」
「紙都は地面に飛ばされた刀を拾うと、しばし刀身に自身の顔を照らした。横で覗き込む沙夜子の目にはその表情が微笑んでいるように思えた。
ふと、後ろから声がかけられる。
『紙都さん』
「あっ、電話のことすっかり忘れてたわ」
草原の上に放置されたディスプレイが明るく光る。
『私にはよくわかりませんが、あなたは百合と、私の命の恩人です。私、聞こえたんです! 最後に百合が「ありがとう」って言っているのを』
その報告は沙夜子の顔を綻ばせた。
「だってさ、紙都。よかったじゃない」
「……ああ、本当にな」
刀が横に払われ、赤い線が夜の中を走り抜けていった。




