拾肆
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蓮のスマートフォンから聞こえる声は紙都の耳にも届いた。根を切り落としていくうちに根元近くまで進んでいたため、自分に聞こえる声は樹木子にも届いているはずと紙都は考えていた。
(だが、どういうことだ? 電話で藤澤さんに話しかけるなんて。真相を知るためには樹木子に聞けと言われたが、そのまま聞く馬鹿がいるか?)
横に払った刃を後ろ手に持ち替えて、背後から迫った根を弾き飛ばす。激痛が腹部に走った。一撃一撃に重みはないものの、休む暇なく捌き続けて体への負担がピークに達していた。
再び電話の主が声を発した。
『……そこに百合がいるんですね』
「ええ、そうよ」
返答したのは沙夜子の声だった。……よくわからないが、意味もなくこんなことをするやつじゃないだろう。こいつの行動に賭けてもう少し耐えてみるか。
『わかりました。……百合、私の声わかるよね? 私のこと忘れてないよね? 百合、私、何も言うことが浮かばないよ』
今度は地面を割って真下から根が飛び出してきた。前方に身を投げ出すことでそれを避けると、振り向きざまに刀を振り払う。
『だって、わからないから。わからないよ! 最後に私と話したとき、あんなに笑ってくれてたのに。いつものように手を振ってまた明日会えるみたいに笑ってたのに!……なのに、もう会えないんだ……』
紙都を取り囲むように複数の根が地面から噴き出してきた。紙都は上空へと跳びそれらの攻撃を刀で受け止めた。
(……おかしい)
『何も知らなかったよ。何も教えてくれなかった。私達本当に友達だと思っていたのに、大事な所何も話してくれなかったじゃない!』
地面へ着地すると同時に上から根が鞭のように振り下ろされた。左に避けようと体を捻るが、再び痛みが体中を駆け抜けた。足が出ず、体が前のめりになってそのまま倒れ込んでいった。背中に風圧が襲い掛かる。
しかし、その攻撃は紙都の体には届かなかった。届かなかったというよりも、途中でその動きを止めていた。紙都が体を翻すと、その目には根だけではなく、幹に浮き出た顔面も焼け残った枝も全てが静止している姿が映っていた。
そこに、少女の悲痛な叫びが響き渡った。
『どうして私に何も言ってくれなかったの!!』
根が力を無くしたように地面に叩きつけられた。紙都の髪が揺れ、刀が樹木子の方へ引っ張られ、体ごと持っていかれそうになる。強い風が中庭一面に生じた。
風が不意に止まる。
「ヤめろおおおおおおおオオオオオオォぉぉォォぉ!!!!!!」
枯れきってしまったような女の声が紙都の耳を貫いていった。
『百合、なの?』
幹に浮き出た顔がバラバラに口を開き、呻き声を上げた。顔は徐々に隣同士くっついていき、一つの巨大な顔を形成していく。
「これは、青柳百合?」
声が震えていた。胸の辺りがひどくムカつき、視界が歪む。
「有り得ない……」
遠くの方で沙夜子の声が聞こえる。
「……なんて禍々しい……そうか、きっと樹木子の中に宿ったネガティブなものが全て彼女に注ぎ込まれて」
それには生前の彼女の面影などどこにもなかった。顔全体を覆う髪の毛はウネウネと柳の木のように揺れ動き、すべてを否定し閉ざされた瞼からは無数の血が溢れ出て、その血をぽっかりと空いた穴のような口が飲み込み続けていた。
その口が広がり、口角が裂ける。
「わタシのなヲヨぶなぁ!!!」
「え!? なんで!?」
沙夜子が驚いたような声を上げた。
『わ、私だよ、わからないの!? 』
「わスれるワケがナイ! ワすレらレるワけガなイ!! ワたしノすべてヲうバったおマエをワすれルワケガなイ!!!」
紙都の頬を冷たい風が撫でていった。
「ど、どういうことっすか!?」
「わ、わからないわよ!」
後ろで二人が混乱しているやり取りを聞きながらも、紙都の中では事の顛末が整理されていっていた。
担任になり変わっていた妖怪、自殺を遂げた女子生徒、樹木子、そしてあのとき目に焼き付けたあの涙。あの涙は、涙だけは間違いなく真実だった。
『どうして?……どうしちゃったの?……わた、し、なにかしたの、かなぁ?』
泣き声混じりの心の叫びが紙都の心を震わせた。
「ォまえがウばッた! ォまえがセんせイをウばッタ!!」
黄金色の装飾が施された柄が強く握りしめられる。暗闇の中に紅い閃光が瞬いた。
「違う」
夜の闇に浮かぶ月のように、静かにその一言は空気を伝わり中庭にいた全ての人間に響いていった。
「そンなハズナい、ワたシはきイタ、セんせイガいっタ、『ふジサワトつきアッてルワかレてクれ』。シゃしんもみタ、だきアッてルすがタヲ! わらッてタ、ばカミたいにワたシをみタ!!」
「その先生は妖怪だ。妖と言った方がいいか? あんたは騙された、だけだ」
紙都の言葉に沈黙が続いた。誰も何も答えることができず、仕方なく紙都は話を続ける。
「先程対峙した。元々は人間だったようだが、最近荒席に化けた。あんたが荒席といつからそういう関係になったのかはわからないが、少なくともその写真を見せられたときの荒席は妖怪だった。あんたは騙されている」
樹木子から葉擦れのようなざわめきが聞こえた。確かにざわめきだった。だが、葉は残ってないのだ。紙都の目には藤澤が哭いている姿が映っていた。
再び開けようとした口は、ざわめきに応えるのに相応しい少女の声に閉ざされる。
『ごめんなさい。……ごめんなさい……ごめんね……』
風が吹けばかき消されてしまいそうなか細い声だった。その声は紙都に足長手長のときとは違う痛みと悔しさとを味わわせていた。
「……ち、ガう」
樹木子のざわめきが大きくなった。青柳の口角が修復され、血の涙は止まり、顔全体が小さくなっていく。
「呪縛から解放されたんだわ。親友の気持ちがネガティブな彼女を救い出したのよ!」
「それは違うな。見ろ、髪の毛はまだ彼女を離しちゃいない」
眩い光が青柳の顔の上を照らした。髪の毛のように見えていたのは絡み合った枝で、彼女を逃さないように頭部を押さえつけていた。
「これが妖怪だ。人の心に入り込み、決して離そうとはしない」
そう、だから。紙都は刀を両手で持ち直した。
「青柳さん、言い残したことはないか」
青柳は黙って目を瞑り、微笑みを浮かべた。その顔はこの世の物とは思えないほど、美しく、紙都には感じられた。
「やメろ……」
樹木子の根が紙都の足元に向かって這っていく。地面を蹴り、紙都は跳躍した。樹木子の根が、縛りが届かない高さへ。
そこから見下ろした風景には、大切なものが切り取られていた。吉良に蓮に沙夜子に藤澤、そして青柳。
ーー俺はこいつらを守りたい。
鳥のようなスピードで人と鬼との半人半妖が、舞い降りていく。そして空を切るかのように携えられた刀を振るうと、桜の大木が縦に真っ二つに割れた。
衝撃音が地面を揺らす。