拾参
「ねぇ、あんた」
沙夜子はその細い腕をしっかりと組んだ。
「なんでしょうか?」
「紙都の足取り、なんか危なっかしくない?」
犬山はちらりと沙夜子の様子をうかがい、戦場に目を向けた。
紙都は足元からはたまた頭上から襲い来る根を紙一重で躱し続けている。僅かながら前に進んでいるようにも見えたが、紙都の目線を見ると次ぎから次へと伸ばされる根だけしか見ていないことに気がつく。つまり、それは余裕がないということ。
「あいつ、全然ダメじゃないすか! だから止めたのに!!」
沙夜子はポケットから懐中電灯を取り出して灯りをつけた。数メートル離れた紙都の足元を光のスポットが照らす。土埃が舞う中よく凝視して見ると赤い物がポタポタと落ちているのが見える。それは紙都が動く度に落下速度を上げていた。
「血だ」
犬山が重苦しそうに呟いた。その横で沙夜子も静かにうなずく。
「どうします!? やっぱ、なんとか止めに入ってみんなで逃げましょう。俺行きます!」
「待って!」
「さすがに待てねーっすよ! 紙都が死んでしまう!!」
犬山は声を荒げてそう言った。友達が危険な状態なのに悠長に構えている沙夜子に苛立っているのだろう。焦る気持ちは沙夜子も同じだった。
「紙都!!」
沙夜子の呼び掛けにほんの一瞬紙都は声の主に顔を向けた。しかし、すぐに絶え間ない攻撃の嵐に晒される。
「ダメだ!! 俺、もう待てねーっす!!」
犬山は威勢よく声を上げながら紙都に向かって突進していった。紙都の目前に迫った根がピタリと止まり、標的をより単純な獲物に変えた。
「そうだ! こっちへ来やがれ!!」
立ち止まり、両手を広げた犬山に向かって下からも上からも鋭く尖った根が嬉しそうに動き出した。
「馬鹿! 早く離れなさい!!死ぬわよ!」
死ぬつもりはなかった。犬山はギリギリまで狂った根を引き付けその一撃をかわし、紙都を引きずってでも逃げるつもりだった。それくらいの身体能力を持ち合わせている算段もあった。ところがーー。
「!? 足が動かな・・・・・・!」
足元に目をやると両の足に何重もの根ががっしりと巻き付いていた。
「ヤッベ!! どうすっーー」
土埃が吹き上がった。淡い円状の光はその先を通ることができず、沙夜子の目では犬山の無事を確認することができない。ただ、何かに根が続けざまに突き刺さる音は聞こえていた。
懐中電灯を持つ手が震える。それを抑えるためにもう片方の手を添えて両手でグリップを握り締めた。
それでも僅かに揺れる光の先は少しずつ晴れていった。根は地面に突き刺さっている。しかし、そこには予想された紅い惨状は何もなかった。
「お前、何してんだ!」
「紙都!」
左前方にライトを移す。地面に転がっている二人の姿がそこにあった。
犬山は地面に手をついて立ち上がった。
「いっつ・・・・・・何ってお前を助けようと思って」
「大丈夫だ、俺は」
「大丈夫ねーだろ! そんな血塗れな体で」
紙都は刀に付いた土を払うと、樹木子に向かって一歩足を進めた。
「真相を知りたければ樹木子に聞け」
「は?」
「おそらく、この事件の真相を知る鍵だ」
それだけを呟くと再び根を集め始めた化物に走り始めた。
「後半、何を話していたのよ」
納得行かない様子で戦場から戻ってきた犬山に沙夜子は昂る感情を抑えて質問を投げかけた。
「よくわかんねーすよ。あいつ、あんなに血流してんのに、何が大丈夫だってーー」
沙夜子は紙都に向けていたライトを間近にいる犬山の顔面に浴びせた。
「うわ! まぶし!!」
「あの馬鹿が傷を負っているのはわかってんのよ。私はあいつが何を言ったか聞いているの」
ライトがまた紙都の姿を映し出した。刀を振り回し迫り来る根を次々と切り落としている。
「『真相を知りたければ樹木子に聞け』そう言っていました」
「真相を知りたければ樹木子に聞け? それがあいつが、紙都が私達に頼んだことなのね」
「いや、頼んだ感じではなーー」
「頼んだのよ! あいつが幹を攻撃しないのは、傷のせいもあるかもしれない。でも、それよりもこの事件の真実を知りたい、その気持ちの方が大きいのよ!!」
沙夜子は目を輝かせながら紙都に当ててた電灯を樹木子本体、つまり禍々しい人面樹に向けた。眩しいのか明かりに照らされた多くの顔が苦渋の声を上げ、憎悪に満ちた瞳を閉ざした。
「や、ヤバイんじゃないすか?」
犬山の狼狽えたような声に沙夜子は冷静に返した。
「大丈夫よ。樹木子がこっちに根を伸ばしてもあいつがしっかり守ってくれるわ」
そう言い切れる自分にどこか可笑しさを覚えて、沙夜子は微笑んだ。あったばかりのしかも半妖だかなんだか素性も知れない相手をここまで信頼できるなんて。
「あんた。私の話を聞きなさい」
「『真相を知りたければ樹木子に聞け』ということは、この木偶の坊は事件の真相に関係していることになるわね」
沙夜子は早口で自分の推理を構築していく。
「ええ、そうだと思いますが」
「じゃあ、事件の真相ってなにか。私達は教師、あんたたちの担任荒関と付き合っていたこの学校の女子生徒、青柳百合が樹木子に自殺させられたことまではわかっているわ」
「そうすっね。あの花粉に毒されて美しい心がズタボロにされた」
沙夜子は力強く頷く。
「という仮説ね。首吊りの状態で見つかったんだから、きっとネガティブな記憶と感情を増幅させられたと思うけど。知らないのはここからさき。青柳百合のネガティブな記憶ってなにか。あんたは花粉に包まれたとき、どんな記憶を頭に浮かべてた?」
「どんなって……」
言い淀む犬山を気遣うように横目で見る。
「言える範囲でいいわ。抽象的な感じでもいい」
「……今までの人生で一番、サイアクなこと……っすかね。思い出したくないくらい、記憶から消し去りたいくらい」
「ありがとう。……青柳百合にとってそれだけの出来事ってなに? 大人しくて目立たない、けれど友達がいないほど孤独なわけではなかった一人の女の子にとって」
犬山は首を捻った。
「あんたもそんなに女心がわかってるわけじゃないわね。それは『恋』よ」
手足のように動く根が沙夜子めがけて飛んできた。瞬き一つすらしない気丈な少女の目の前でそれは動きを止めて地面に落ちていく。紙都が根を断ち切っていた。
「女の子は恋をすると変わる。どんなに大人しい子でも自信を持って、前向きになるものよ。では、それが真逆に作用したらどう?」
「真逆?」
「恋に裏切られたとしたら。きっと世界は絶望色に塗り固められるわ。好きな人に裏切られる。それもこの子の場合、尊敬し最も信頼されるはずの教師に裏切られた。その痛みは想像できないほど、酷いものだと思う」
それはきっと満開の桜の花が嵐によって散りゆくような。そんな、そんな思い。
「そのネガティブな記憶は樹木子によって増幅され、彼女は自ら命を落とすことで樹木子の一部となった。ならば、樹木子の中に彼女はいる。この世への怨嗟を抱えながら。だから、聞いてみればいいのよ、彼女に事の真相を」
犬山は呆気に取られ、しばらく口をポカンと開けたままだった。そして、我に返ったとたん、当たり前の疑問がその大きな口から出された。
「どうやって聞くんですか? これだけの顔がいるのに。そもそもそんなことできるかどうか」
沙夜子のライトがぐるりと樹木子の幹を回る。
「これは勘だけど、ネガティブな状態に侵されたなら、ポジティブな刺激を与えればいいんじゃないかしら」
「ポジティブな刺激っすか? 何かエロ的なことっすかね」
「馬鹿。それはあんただけよ。彼女にとってのポジティブは彼女の親友。絶対に裏切らない、男との関係よりももっと強い絆。あんた、藤澤さんと連絡取れるんでしょ?」
犬山はにやにや笑いながら、ブラックジーンズの左ポケットからスマートフォンを取り出した。
「ちゃっかり交換していました!」
「いいから、さっさと電話しなさい!!」
「はい!!」
犬山は器用な手つきで画面を操作し、耳に当てた。最大ボリュームにしたコール音が沙夜子の耳にもはっきり聞こえるくらい響く。
長いコール音。深夜のこんな時間に電話なんて出ないかもしれない。でも、きっと彼女なら眠れない夜を過ごしているに違いない。
『はい、もしもし!?』
慌ただしい声が電話口に出た。この期に及んでどうでもいい挨拶をしようとする犬山からスマートフォンを引ったくると、単刀直入に用件だけ述べる。
「何でもいいから、青柳さんにあなたの思いを伝えて!」