終章
下校を告げるチャイムにさっきからずっと止まっていた細長い白腕がピクリと動いた。また、頬杖をついたままうたた寝をしてしまったらしい。
パタンっと、読みかけの本を閉じると「くー!」と声を上げながら大きく上半身を伸ばした。ずっと座りっぱなしでは身体が凝ってしまうものだ。
本をスクールバッグに入れると立ち上がり、椅子に掛けていた制服のブレザーを羽織る。うだるような暑い日がずっと続いていたのに今日になって急に冷えたのだ。
「さてと、行きますか」
(……あっ)
小さく独り言を呟いたつもりだったが、誰もいない部室では少しうるさいくらい大きく聞こえた。後輩から言われた「沙夜子さん~独り言多いですよ~」という和やかな突っ込みが頭を過った。
ほんのりと秋の薫りがする風が、落ち葉とともにスカートの裾を僅かに舞い上げた。
「独り言、か」
あれから確かに独り言が増えたような気はしていた。誰に話すとでもないのだが、自分の心情を思いを誰かに伝えたいかのような。
カラッと乾いた空気が溜め息を促す。成す術もなく風に飛ばされていく落ち葉の行方を目が追うと、いつもよりやや高い夕空が広がっていた。どこまでも続くようなその空がなぜだか目に染みる。
もう一つ息を吐くと、思い出したかのようにブレザーのポケットに仕舞い込んだイヤホンを手に取り、両耳に押し込んだ。アルペジオのギターが、止まっていた歩みを緩やかに動かしていく。ゆるゆる、ゆるゆると。
学校から電車で4駅と、さほど離れていない地点にそれはある。少し丘陵になっている先に。だけれども今日はすぐに降りる気になれずに足を伸ばした。アルバムの曲が一巡するまでは電車のリズムに揺られていたい。
車窓から見える景色は、ほとんど何も変わっていなかった。一時離れた者たちも少しずつ手探りで残された者たちの安全を確認して戻り、再び住まい始めた。その存在が公のものになったことに関して変わらず良い悪いの議論があちこちでされてはいるものの、その存在自体は、こうしてもう確立されたのだ。
その意味ではきっと、あの長かったようで短い戦いは決して無駄なものではなかったのだろう。
「けど」
やっぱりこの景色の中には、どうしても足りないものがあるんだ。
列車が止まり、開いたドアから風が吹き込み優しく髪を撫でていった。
下車。ぽつぽつと降りる人の群れに交じりながらそこへと向かう。思いが揺れても意志が揺れても、習慣は容易く目的地へと足を運んでくれるから楽ではあった。だけど、それがいつまで続くのかを思うとどうしようもない不安感に襲われるのだ。
一人、二人。列から外れていく。きっとそれぞれのあるべき場所へ向かっていくのだろうか。息を弾ませて見上げる先には、もう夕闇が迫ってきていた。
小高い傾斜を上るときにいつも最初に思い出すのは、皮膚にまとわりつくような雨音。それから連想するように、するすると記憶を確認していく。薄れないように、間違わないように、決して忘れないように。そうして辿り着いた先には、過去と同じ「鬼救寺」が口を開けて待っていてくれる。
「ただいま」
これも独り言だ。返ってくる言葉はないにしても何も話さないよりは随分いい。他に行く場所のない自分にとっては唯一無二のあるべき場所、なのだから。
茶色のローファーを脱ぎながら耳からイヤホンを外す。
「おかえりなさい」
これは独り言ではなかった。意に反して言葉が返ってきた。皺が刻まれたしわくちゃな破顔が出迎えてくれた。
「……梓……さん?」
何の予告もなく登場した一時の師匠ーー京極梓のその柔和な笑顔に戸惑いを隠すことはできなかった。なんでーーと、問う前に梓が落ち着きのある優しげな声で答える。
「そろそろ、見頃かなぁと思いまして」
「……見頃、ですか?」
新しくなった木目調の玄関に立ち尽くしたまま、沙夜子は意味がわからずに聞いた。
「ええ。鬼灯がね。お墓の辺りになってはったでしょう。見事な紅い実が」
「鬼灯……」
その名が示す形態を頭の中に浮かべたとき、あの瞳に睨み付けられた錯覚に陥った。随分と懐かしい、あの紅い瞳。いつでも真っ直ぐに突き進み、見つめてきたあの燃えるような灯ともしび。
「ーー私、なんで」
それを思い出したから。確かな過去の一瞬一瞬が鮮明に再生されたから。
「泣いてるの?」
あれからもう半年は経っているはずだ。いろいろあったけれど無事進級し、部長になって後輩もできて、時間は随分経ったはずなのに、どうして。
「……鬼灯は、御言様が一番好きだった花や。それに、紙都くんのハンドルネームでもあるんやない?」
「……憶えて、いたんですね……」
そうだ。鬼灯は別名『ヌカヅキ』ーー紙都にたくさんの怪異に出会うきっかけになった言葉。
「当たり前や。たとえ一般人が忘れようとも、京極家は、忘れへん。忘れようとしても忘れられへん。……でも、あんた一人で頑張ってたんやな」
子どもみたいに泣きじゃくる沙夜子の頭をしわくちゃの手がそっと包み込むように撫でた。その小さな傘の中で、沙夜子の口から小さく嗚咽が漏れた。
「学校の名簿からも消えていて、周りの友達も知らなくて、吉良は卒業しちゃうし、犬山と愛姫ちゃんは退学しちゃうし、私が、私がしっかり憶えていないと、紙都の存在が無かったことになっちゃうから、だから。だから!ーー」
「大丈夫、大丈夫や。みんな忘れてなんかない。落ち着いて後ろ見てみい」
「えっ?」
言われた通り涙を拭いながら後ろを振り返った沙夜子の動きが、はたと止まった。
「沙夜子さん。あのーー」
「た、たまたまなんです。梓さんから連絡もらって来たら、たまたまこのタイミングだってだけで、ねえ、蓮くん」
「いやー梓さん、ナイスです! こんな可愛い沙夜子さん見られることなんてなかなかなーー」
最後まで言い切る前に鉄拳が飛び、それ以上言葉を発することを強制的に止めさせられた。
「あんた! いったいなんだってここにいんのよ! 来るんなら来るで連絡くれればいいじゃない! こんな、こんなーー」
「泣いているところ見れてよかったです!」
愛姫が口を挟んだ。眼鏡の奥にある大きな瞳が沙夜子の感情を探るように見開らかれる。
「えっ、どういうーー」
「私達、沙夜子さんがそこまで悩んでいるなんて知らなかったから。沙夜子さん、強いから」
「そうそう。沙夜子さんならきっと、紙都のことなんて忘れるわけないじゃない、とかなんとかそんな感じで構えているんじゃないかなと、なあ吉良?」
吉良は頷くと一歩前へと足を進めた。
「何よ、吉良」
「僕は今、結婚を前提に愛姫とお付き合いしています」
突然の告白に犬山から野太い驚きの声が上がった。
「おま、おま……」
「おめでとう。でも、それが何なのよ」
「とは言っても結婚はできないかもしれません。今の仕組みのままでは。人と妖が籍を入れることなど。だけど、もしかしたら、きっと変えられるんじゃないかなと、そう思うんです」
しっかりと見据えていた。揺るぎのない意志がその目に宿っていた。
「だって、僕も変われた。それに僕だけじゃない。愛姫も、蓮くんも、沙夜子さんだって変わったじゃないですか。それだけじゃない。もっと大きなものが変わった。今まで妖なんて存在しないと思われていたんですよ。だからきっと変えられるんです。人も妖も変わることができる。そうして変わることができたら」
「ーーできたら?」
「そのときこそ、封印を解くときなのではないでしょうか」
封印を解く。紙都の存在をもう一度。でも、それにはどれだけ時間が掛かるというの?
「でも、そんなにーーそんなに長い時間忘れないでいられるのかどうかわからないじゃない。私は、大事な父親の記憶ですら失っていたのよ?」
「大丈夫です。みんなで憶えていればーー」
「大丈夫じゃないわよ。人は変わるって言ったわよね。そりゃ変わるかもしれない。だけど、良い方向ばかりとは限らないじゃない。ここでみんなで約束して、本当に憶えていられる、そんな根拠はどこにもないのよ」
そうだ。忘れたくないのに、忘れてしまうことだってきっとある。忘れたいことほど、いつまでも憶えてしまっているのに。
「沙夜子さん」
背中に声が掛けられた。撫でるような落ち着く声だ。
「御言様は大切なものほど、そっと遠くへ置いて愛でるような方でした。鬼灯が目につくような場所ではなく、少し離れた場所に植えられていたように。紙都さんにもきっとそう接していたのではないかと思います」
御言の線の細い色白の顔が思い浮かぶ。怪異のことも、紙都自身のことも、確かにほとんど語ることがなかったのだろう。
「それは、真実を知られたくないからではありません。御言様ほど誠実な方を私は知りません。だからおそらく、御言様はすでに見つけていたのではないでしょうか。仮に紙都さんが封印された場合でも、忘れられないでいる術を。恐怖を植え付けることなく人と妖が共に生きられる術を。そして、きっとその術をあなたに伝えたーーそう思うんやけど」
恐怖を植え付けることなく、人と妖が共に生きられる術ーーそんなものは。
『嬉しかった。私と怜強が共に生きられる世界がこの鬼救寺ならつくれるって』
「……!!」
『紙都はね。私と怜強の希望でもあるの。相容れないはずの二人が交わることが証明されたのだから。だから、そんな紙都をあなたに守ってほしい』
記憶が流れ込んできた。以前にこの鬼救寺で話した短い会話。それが今になって別の意味を持って現れてくる。
『紙都のことよろしくお願いします』
そうだ。答えは、もう出ていた。恐怖などに頼らなくても、忘れることのない方法。
「答えは出たみたいやな」
チラリと吉良と愛姫の顔を見た後に沙夜子は振り返った。そこにはいつもの自信満々な笑顔が浮かんでいた。
墓の側に植えられた鬼灯の実が静かに揺れた。