陸
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思えばいつの頃からか。自分が他と違うことをどこかで感じ取っていたのは。明確にそう認識したのは、母である御言から真実を告げられたあの雨の日から。だが、紙一枚隔てて周囲の景色に馴染めない自分がいたのはきっともっと昔からだ。
幼い頃から父親がいなかった。そのことが一つの要因になったことは間違いのない事実だった。かつて葬儀に向かった母に付いていったとき、父親なのだろう、亡くなった故人に泣きつく家族の姿が今でも鮮明に思い出せた。父が亡くなる――本来は泣くほどの出来事なのだろう。それなのに自分は泣くことがもうできない。棺の中にいる故人を父に重ねようとも、その顔すら浮かびはしないのだから。
なぜ父がいないのか。他の人にはいてなぜ自分には。それに気づきたくなかったのだろう。もうそれきりどんなに母の帰りが遅い日でも仕事場についていくことはやめた。自分が違うということ、普通じゃない特異な環境にいるということ、それを当たり前のものとして受け入れるのには、まだ小さすぎた。
母もまた何も語ることはなかった。父の死の真相だけではない、父の言葉も振る舞いも何も語ることがなかった。元から母と自分二人しかその家にいなかったかのように、父の記憶は何も残されていなかった。何も残らない。それが答えのようにも思えた。きっと母は何も残さず、自分の記憶の中だけで父の記憶を終わらせようとしたのだろう。怪異に遭遇したあのときにようやく、その重い口を開いたのだから。
そうだとするならば、あのときあの場所にいなければ。あのとき怪異に遭遇しなければ、真実を知ることなく普通の人間として生きられたのだろうか。鬼と人の、妖怪と人の「化け物」だと知らずに笑い合えたのだろうか。
「紙、都」
暗闇に引きずり込まれた意識が無理やり呼び起こされた。頭がひどく痛い。ズキンズキンと一定間隔で脈打つような痛みが頭を締め付ける。
(また……か)
鬼に呑み込まれてしまえば、簡単だった。荒れ狂うような衝動の渦にただただ呑み込まれてさえいればいい。そこでは苦しみも痛みですら快感へと昇華される。だが、苦痛とともに目覚めるときは、決まって人のそのときだ。
「紙都――」
目の前から声が降る。あの日と同じく降り頻る雨の音に混じって。その声は霧雨のように優しく、水滴が落ちるように静かに、こう告げた。
「泣いて、いるの?」
氷雨のように容赦なく突き刺さった言葉に思わず目が開いた。漆黒の瞳から、確かにまだ熱い柔らかな雨が流れ落ちていく。
「目が覚めたのね。これで、もう大丈夫」
「大丈夫……そうだな、大丈夫だ」
――また、戦わなければならない。
「悪い。また、鬼になってしまって」
――鬼の方が遥かに楽なんだ。
「離れてくれ。まだ戦える」
――本当は、もう――
「ダメよ。そんな顔してるのに、まだあんたを戦わせるわけにはいかないじゃない」
「え……」
茶色がかった大きな瞳が意地悪く微笑んだ。
「ようやく目を見てくれた」
その瞳のなかにくっきりと自分の顔が浮かぶ。憔悴しきった情けない自分の顔が。
「……そうか」
釣られて口の端が緩む。一粒の雨が口角へと到達した頃、涙はもう止まっていた。
何も言わなかったわけじゃない、何も残さなかったわけじゃない。『その理由を探すのがあなたの役目でしょう。頑張りなさい』――母は確かにそう言った。
「これで、本当にもう大丈夫かしら」
「ああ、大丈夫だ」
心地いい膝から頭を傾ける。蓮が戦っていた。
「紙都くん」
「吉良か。愛姫は……無事、みたいだな」
「はい」
音は消えていなかった。遠くにだが微かに愛姫特有の音が聴こえる。愛姫だけじゃない、吉良の音も、蓮の音も、沙夜子の音も、そして――走り寄ってくる複数の音が、それぞれなりに力強く鳴り響いた。これらの音すべてをハーモニーのように一つに奏でられれば、おそらくは一人だけ不協和音を発している元興寺を倒すことができるかもしれない。
(……本当は、ここにもう一つ欠けてはならない音があったはずなのに)
心配そうに見下ろす沙夜子の目がぶつかり、笑みを返した。
「……な、なによ」
「? いや、なんでもないが」
目が泳いでいた。不思議と発する音も乱れる。それを隠すように大きく溜息を吐くと、沙夜子は戦場へと目を移した。
「時間がないわ。あのエロ犬が攻撃を防いでいる今が最後の機会」
蓮の呼吸はとっくに乱れていた。致命傷こそ受けていないが、それは相手にも言えることだった。一進一退の戦いをしているように見えて、実のところ蓮が押され続けている。たった一つ判断を間違えただけで体に大穴を開けられてしまう。
「わかっている。一瞬の隙を突いて一斉攻撃を仕掛けるしかないんだろ。全速力で走ってくる京極と犬山の双璧の力も借りて」
言葉を交わさなくとも、了解済みなのだろう。入り乱れた複数の足音は気配を消そうともせずに真正面から近づいてきていた。
「いい加減、終わりだ」
耳に響く甲高い音がぶつかり合った。その鮮やかな音とともに蓮の嵌めていた爪がくるくると飛んでいく。
「まずいわ!」
声を荒げる沙夜子の顔を数瞬見つめた後に、紙都の瞳が静かに赤く染まった。
一陣の風が巻き起こる。一瞬のうちに距離を詰めると、赤目の少年は蓮の前に立ち塞がり、振り下ろされた斧のようなその拳を受け止めた。衝撃で足の下の地面が割れて、体全体が沈み込む。
「ほう。だが、次の手はないぞ。どれだけ人間が集まろうとも、我らは死なない。生など最初から無いのだから」
「元興寺、それは違う。人間と妖怪、生まれは違っても、今、ここに存在していることは変わらないのだから」
大木のような腕の下から見える口元が微かに笑顔をつくった。
「また戯言か。妖怪は人間とは違う。明らかではないか。人間の邪な念が元になったのが我らなのだ。人間が我らを規定し、その性質を決めた。だから我らはそれに従い、人間を襲うのみ。生きているかどうかなぞ関係ない。存在の規定が全ての行動を、運命を決定づけている」
「だから違うと言っているだろう」
腕にありたっけの力を込める。視認できないほどごく僅かにだが、鉄塊のような赤腕が押し返されていった。
「この力はーーまさか……」
鬼灯のそれに似た鮮やかな緋色が暗がりのなかを迸る。
「妖怪とか人間とか、半妖とかーーそんなこと関係ない。生まれが何でどうかなんて関係ないんだ!」
だからこそ生きていてほしかった。過去がどうであろうが、何であろうが生きるのを諦めてほしくなかった。同じ化物だからこそ、生きてほしかった。それなのにーー。
「なにやってんだ!! やめろ紙都!」
掴んだ腕に新たに伸びた爪が食い込み、肉をその中にある骨ごと握り潰した。行き場のなくなった血液が宙をさ迷う。
「何のつもりだ。せっかくお前の仲間が、弱くて脆い人間に戻したというのに、もう一度鬼になるというのか?」
「そうだ、今一度鬼になる。だが、今度はお前を倒すためじゃない。みんなを、仲間を守るために、俺は鬼になる。ーー鬼になっても誰かが止めてくれるから」
紙都の呼び掛けに応えて地面に突き刺さったままの鬼面仏心が浮かび上がった。元興寺の腕を押し退けると、飛び上がった紙都の手の中に青白い輝きがすっぽりと収まる。
元興寺は次の攻撃を読んですぐさま傷ついた腕を顔の前で交差させた。関係ない。どんな体勢だろうと強度だろうと、やることはただ一つーー大上段から刀を振り下ろすその刹那。意識が消え失せるその前に、紙都はもう一度蓮と沙夜子の顔を一瞥した。願わくば直接述べたかった、戦う理由を心に刻みながら。
「ーーあとは任せた」
夜が真っ赤に染まっていく。そのあとはただ、誰かの雄叫びだけが聴こえていた。薄れゆく意識の中で浮かび上がるのは、怪異に遭遇したからこそ出会った多彩な表情ーー。
「紙都ぉぉ!!!!!」




