拾弐
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胸が苦しい。息ができない。
「あっ……」
我に返ったときに沙夜子が初めて行ったことは、息を吸うことだった。覚悟はしていた。今まで本や映画や絵画などでいろんなオカルト現象を研究してきた。
でも、甘かった。ホンモノは想像ができないほど禍々しくて、予想ができないほど強大だった。鳥肌どころではない。何万本もの糸で体が絡め取られてしまったような感覚。危険だと体中が叫んでいるのに、圧倒的な空気に呑み込まれて動けない。
だから、沙夜子は息を吸うことすら忘れていた。本当に心臓も止まっていたかもしれない。文字通り息を吹き返したその次に思考が動き出した。
目の前には棒のような茶色の物体。
(……根っこ?……よけなきゃ!)
しかし体はまだ動かない。神経がまだ十分に伝わっていなかった。
(ダメだ。当たる!!)
誰かの手が自分を突き飛ばした。クシャクシャと芝生を転がる感覚。手足に力が戻り、素早く立ち上がると犬山の体に樹木子の根が巻きついていた。
「犬山!?」
驚きと大変の2つの意味を込めた声が再び静かになった中庭に響く。樹木子の幹に現れた多数の人間の顔から一斉に放出された怨嗟の叫びが、燃え盛っていた炎を掻き消していた。
「くそ! 動けねぇ」
手足をバタつかさて脱出を試みた犬山だったが、次々と巻きついてくる根になすすべもなくその体を覆われていく。
「コノまマつブしてヤル」
一つの顔がくぐもった声を震わせた。年老いた老婆のようなその顔は苦渋の表情をさらに歪めて「ひヒヒ」と笑い声を上げた。
「アノまマ死ンダらラくだっタノ二」
まだ若い男の顔がモゴモゴと口を動かした。
「サア、死ネー!」
(なんとかしないと!)
沙夜子は辺りを見渡した。犬山のすぐ後ろにいた吉良は気を失ったように倒れている。武器も何もない。ただの暗闇が、絶望色の暗闇しかそこにはなかった。沙夜子の届くことのない腕が犬山に向かって伸びる。視界がぼやけていた。
(なんで、なんであんたはここにいないの! なんで?)
「なんでよ!!」
その悲痛な思いに答えるように頭上高くから輝く何かが落ちてきた。その何かは樹木子の太い根に当たり、犬山に巻き付いた根と本体とを分離させた。
「グッギャあアアアああ!!!」
幾十もの顔が目を見開き、幾重もの口が叫び声を上げた。
沙夜子は根が力を無くし犬山を解放したのを横目で見ながら、落下してきた物体へ駆け寄っていった。
そこには一人の男が白銀の刀を右手に提げて立っていた。見覚えのあるフォルム。あいつがなんでこんなことができるのかわからないけど、間違いなくあいつだ。
「鬼神紙都!」
振り向いた紙都の顔に思い切りパンチを叩き込んだ。ガツンと壁を叩いたような固い感触。
「あんた、今更何なのよ! っていうか何その刀。コスプレ? コスプレなの? っていうかどうやってこんな太い根っこ切ったのよ! どっから来たのよ、大丈夫!?」
気づかれないよう後ろで赤くなった手を振りながら、沙夜子は疑問や不満やほんの少しの心配を紙都にぶつけた。
それに対して紙都は片手をぶんぶん振りながら別人だとアピールする。その意図に気づいたのか沙夜子は怪訝そうな表情をして紙都を見上げた。
「なに? 違うって? あーそう」
沙夜子は悪戯っぽく笑うと、ぐっと紙都の胸倉をつかんでその顔を自分の顔間近に引き寄せた。盛り上がった髪と赤い目に似合わずその顔は慌てふためいていた。
「ちょ、何すーー」
「やっぱ、紙都じゃない!」
そう言うと、沙夜子はパッと手を離した。
「なっ! それを確認するために?」
「はっ? それ以外に何があんのよ」
「いや、何もないが」
この年頃の男子には沙夜子のやり方は刺激的過ぎることが多々あった。いくら性格キツくて友達が一人もいないと評判の女子でもそれが美人であれば、ドキドキしてしまうのが男のサガである。
「ちょっと、お二人さん? イチャイチャしてる場合じゃないよ」
「わ、わかってるわよ」
珍しく的確な犬山の指摘に沙夜子は一瞬たじろいでしまった。犬山は紙都にいつになく厳しい視線を移した。
「紙都、サンキュ。でも、お前……もしかして……」
犬山が唾を飲み込んだ音が沙夜子には聞こえた。そっと紙都の顔に目を向けると、俯いたまま微動だにしようとしない。
沙夜子は大げさにため息をついた。
「何男同士で遠慮しあってんのよ、気持ち悪い。ズバッと聞きなさいズバッと。これは私の勘だけど、紙都、あんたヌカズキね。そして、ヌカズキ=妖怪ね」
紙都が驚いたように沙夜子を見た。赤い瞳が臆病そうに光っていた。沙夜子はその瞳をじっと見つめたまま自分の推理を続けた。
「どっから落ちてきたか知らないけど、私が確認できないような高さから落ちてきたのに平気でいるし、その目は赤いし、重そうな刀持ってるし、樹木子は妖怪だし。妖怪と考えない方が不自然よ」
紙都の瞳から臆病色は消えない。それよりも、沙夜子の一言一言で沈んでいくようだった。きっと、知られたくなかったのだろうと沙夜子は思った。当たり前だ。自分が人間じゃないなんて、異質な存在だって、周りに思われるくらい辛いものはない。仮にそんなこと気にしないと言われても、その認識はずっと心の奥底に沈殿して関係性を少しずつ狂わせていく。ーーあのときの自分のように。
瞬きを一つした。つい思い出しそうになった過去に蓋をするように。
「樹木子のせいね」
「なに?」
紙都が心配そうに沙夜子の顔をのぞき込んでいた。
(今、自分の正体がバレそうになって死にそうな顔してたくせに)
沙夜子はつい緩みそうになる頬を筋肉に力を入れることで耐えながら言った。
「あんたが妖怪ならあとでたっぷり話を聞かせてもらうわ。でも、あんたは誰?」
「俺は……」
「馬鹿じゃないの? あんたは鬼神紙都じゃない。私達オカルト研究部の一部員、鬼神紙都。でしょ?」
紙都の目に生気が戻るのを確認してから、沙夜子は背を向けた。
「さて、じゃあ、ちゃっちゃと樹木子倒しちゃって」
「あ、ああ」
カチャリと刀を動かす音が聞こえた。それを制するように犬山が声を上げる。
「ちょ、ちょっと待て! 紙都、お前大丈夫なのか!?」
犬山の真面目な訴えに紙都は目を丸くしていた。
「お前が妖怪なのかどうなのか、俺には関係ない。でもいいか、見てみろよ!」
そう言うと、犬山は紙都の腕を引っ張り樹木子の姿を見せた。切れた巨大な根っこから先がうねうねと激しく動いている。無数の顔は眠りについたかのように瞼を落としていた。
「こんな巨大な化け物にお前が何ができんだよ! 俺は2回も殺されそうになったんだぞ、お前なら何十回殺される羽目になるかわかってんのか!」
「……わかってるよ」
紙都はぼそっと呟くと、犬山の腕を振り解いた。刀を横に払い、血の色を受けた刀身に自身の顔を映す。左半分が赤く染まったように見えて、右半分は銀色に光輝いていた。紙都は大きく息を吸った。
「俺は! 鬼と人間の血が半分ずつ流れる半妖……ヌカヅキだ!!!」
腹の底から大声を出すと、紙都は樹木子に向かって駆けていった。
危険を察知したのか、樹木子の根が土を割って地上に飛び出してきた。それらは一斉に目標に向かって進んでいく。紙都はそれを上下左右に避けながら本体へと少しずつ近づいていった。しかし。
(……なんか、動きが鈍いわね)
沙夜子にはなにかこう、体が重そうに見えた。確かに樹木子の攻撃は当たってはいない。だが、なにか余裕のない紙都の動きに違和感を覚える。