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あやかし鬼譚~現代百鬼夜行絵巻  作者: フクロウ
第十四話 その終わりの日の雨
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**********


 ひたすら降り続ける雨に髪も服もびしょ濡れになってしまった。それにも関わらず空を覆っていたはずの分厚い雲が、一部分だけドーナツ状の穴が空いたようにスッキリと晴れていた。その方向が小高い丘に建てられた鬼救寺であることを認識した柳田沙夜子の胸がざわめく。


(雨が操られている。ということは、水を操る愛姫ちゃんが鬼救寺跡に移動したということ?)


 心を落ち着かせるためには、うるさい胸騒ぎの原因を特定しなければならない。最大限の速度で走りながらも、頭の中では冷静に状況を分析することに努めた。


(と、すればやっぱりさっきの気配が消えたのは、愛姫ちゃんが磯撫を倒したということ。予想通りこれで元興寺以外の全ての妖怪が倒され、封が施されているはず。きっと犬山も合流しているか、あるいは向かっているところか。吉良はーー)


 降り続く雨のせいか気分が沈んだ。本来ならもう一人集合しなければいけないメンバーがいたはずなのだ。だけれどもそれはもう叶わない。どんな手を使おうとも絶対にもう叶わないのだ。


(ーーそれほどまでに強敵だったというの? いったいどんな戦いがーーいえ)


 感傷に浸っている場合ではないと顔を上げた。晴れ渡った隙間はみるみる塞がっていき、同じ景色へと戻る。


((わざ)が解けた? 愛姫ちゃんの身に何かあった? だとすれば紙都は怒っーー)


 そこではたと気が付く。果たして紙都は死んだ事実を知っているのだろうか?


(音が聴こえるとしてもその範囲は、結界陣や犬山の嗅覚のように広範囲ではないはず。もし、紙都がそれを知ればーー際限のない怒りや憎しみが紙都を襲う)


 紙都の笑顔が眼差しが脳裡に浮かんだ。自分のことよりも先に相手を心配するあの優しい眼差しが。


「ダメだ。絶対ダメ!」


(紙都は優し過ぎる。だからこそ、鎌倉颯太の死は、他の誰よりも紙都の心を蝕んでしまう!)


 以前、(かさね)に取り憑かれたときのように、鎌倉に殺されかけたときのように、あるいはまた人から鬼へと変わってしまうかもしれない。


(もしそうなれば負けだ。たとえ元興寺を倒すことができたとしても、封印が施されたとしても、妖怪の脅威は、そして妖怪に対する畏怖は、否定することができない事実として残ってしまう。そうなれば紙都はーー)


「間に合わなきゃいけない。絶対に、間に合わせなきゃいけない」


 物質か念か、あやふやな状態の妖怪が世界に現存するためには人々の記憶の中に定着する必要がある。トラウマを抱えて生きていく人間にとってネガティブな出来事ほど記憶に残りやすい。だからこそ、妖怪は自身が世界に定着するために、ネガティブな出来事を引き起こす方策で生き延びてきた。そしてその役割を求めたのもまた人間の念ーーいや、咎だった。人と妖は交わることがなく、幾度も争いを繰り広げてきた。その歴史はきっとそう簡単には終わらせることはできない。


 息を切らしながら沙夜子がようやく墓地に到着したときだった。空気を震わすほどの怒号が肌を貫いた。ぶわっと鳥肌が全身に立ってしまうほどの。


「……紙、都?」


 遅かったのか。もうすでに怒りに冷静さを失っている。形振り構わず斬りつけるだけで、まるで斬撃が当たっていない。何よりも瀕死の愛姫を放ったままだった。


 唇を噛むと身を翻して愛姫の元へ走る。


(まずは愛姫ちゃんをなんとかしないと!)


「吉良!」


 ビクッと肩を震わせた吉良が顔を上げた。声の主が沙夜子とわかると、安心したような表情を浮かべた。


「何してるの! 服でも破って傷口の周りを拭いて! もうすぐ楓さんたちが来るから! いい、絶対にその刀抜いちゃダメよ!!」


 白装束の袖を破ると、深々と刺さった傷口の周りに付着した血を丁寧に拭き取る。


(陣が妖を弾くものでなければ、すぐにでもこの傷を治せるのに!)


「吉良」


 見上げると珍しく視線が合った。喉仏は唾を呑み込んで動いたが、それだけで必死な思いが伝わってくる。


「紙都は知ってるの? 鎌倉颯太が死んだことを」


 目が丸くなる。数秒経っても喉から声を絞り出すこともできなかったのか、吉良は首を横に振って否定する。


「そう。なら、まだ最悪な展開にはなっていないのね」


 小さく息を溢すと、おもむろに立ち上がり乱れた前髪を横に流す。額が顕になると同時にキリッとした視線が吉良を突き刺した。


「いい吉良。愛姫ちゃんはあんたが守るのよ。私はーー」


 その視線をゆっくりと紙都へと向ける。暗闇のなかで紅い瞳を灯した一人の少年に。


「私は、紙都を守る」


 前に突き出した右手が雨粒を弾いていく。結界陣が展開した。連なる世界に境界が生まれ、その者たちの動きを鮮明に描き出す。


(二種の球体。大きいのは元興寺で小さいのは紙都。やっぱりまだ人間の力を残している)


 結界陣は守りの(わざ)。境が曖昧な妖怪ならば殲滅させることも容易だろうが、世界に根強く定着した妖怪相手にそうはいかない。ゆえに冷静に状況を分析し、適切な手を打たなければ強大な力の前に叩きのめされるだけ。


(動き回る紙都に対して、元興寺はまるで動いていない。体も心も凪のように平静そのものだーーつまり、隙が全くない)


 隙を突かなければ陣は成功しない。だが、紙都の攻撃を待っているだけでは隙は生まれない。こちらから隙をつくるしかーー。


「……ほう」


 地鳴りのような低い声が簡素な言葉を発する。


「この程度でここまで心を掻きむしられるとはなーー」


(まさか。いえ……)


「だとすれば、もう一つ怒りの材料を提供してやろう。湿気った薪などではなく、よく燃える薪をな」


 考える暇もなく走り出していた。狙いは明らかだった。元興寺はもうわかっている。紙都のどこを突けばいいか。どうすれば紙都の想いをねじ曲げることができるのか。


 だから、それを阻止するために沙夜子は叫んだ。


「紙都!!」


 小さな球体の動きが止まる。ようやくこちらの存在に気が付いたのだ。そしてそれは同時に敵にも気付かれたことを意味する。大きな球体が悠然と振り向く。


「沙夜子! 来るな!!」


 ふっと紙都の怒りが消えた。ーー全く、人の心配している場合じゃないじゃない。


 突き出した腕をそのままに真正面から向かっていく。戦闘において、何か特別な訓練を受けているわけではない。素早く動くことも強靭な肉体も持ち合わせてはいない。これだけ広い場では、身を隠すこともできずただ単純に突っ込んでいくしかなかった。


 黒く塗りつぶされた漆黒の球体が闇の中を超スピードで移動した。一瞬、眼前へと空間を飛んで移動したのかと錯覚する。


「陣は単独ではまるで意味がないぞ」


「わかってるわよ! だから、二人で戦うんじゃない」


 高速で動いていたのは元興寺だけではない。毛だらけの赤い拳が衝突する寸前。紙都が間に割り込み、刀でその攻撃を弾いた。反作用が生じ元興寺の身体が僅かに後ろへと下がる。そのほんの僅かな時間を沙夜子が見逃すはずがなかった。


 隙が生まれた。今が最大のチャンス。紙都の横から姿を現した沙夜子は地を蹴って飛び上がると、その顔目掛けて陣を発動させた。


 少しの時間かもしれない。だが、その一時でも動きを止めることができるならば、勝機はこちらにある。


「紙都! 今ーー」


 そう思ったばかりだった。豪腕が動いたのは。風圧が髪の毛を後ろへ撫で付けさせたすぐあとに雷が直撃したような衝撃が押し寄せた。


「……うっ……く……」


 目を開いたときにはまだ暗い空が上にあった。大粒の雨が全身に降り注ぐ。


「だから言ったろう。陣は単独ではまるで意味がないと」


 遠くから声が聞こえた。その方をぐるりと首を動かして見る。つい数瞬前には至近距離にいたはずなのにたったの一撃でこんなにも飛ばされてしまったのか。


 体をもたげようとするも駆け上がるような痛みとともに肺から空気が押し出されて喉がつぶれるような咳が出る。


(息が止まっていた……?)


 手が震えていた。鼓動も早く、息もまだ苦しい。


(これが、これが本当の鬼の力)


「くっ!! 沙夜子!!!」


 硬い金属同士がぶつかり合うような衝突音が発せられた。続いて何かが地面に叩き付けられる音。顔を回せば、地面に転がる紙都の背中がちらりと見える。


「どうしたんだ。その程度の力ではなかろうーー」


(ダメだ。元興寺はあれを話すつもりだ)


 動きたくとも動くことができない。唯一動かすことのできた指先で泥々の地面を抉った。


「ーー弱い人間の血が混じっているからそうなるのだ。鬼の力を全て引き出せると言っても人間の心のままではな。そこに弱さが、甘さが生まれる」


(立って……立って!! お願いだから!!!)


 指先がもどかしさを伝えるように、何度も何度も土を掴んだ。一部の爪が剥がれ真新しい血が一筋流れる。それでも、身体はいうことをきかない。まるで神経が分離されたように。


「お前をもう一度鬼にする。そうすれば我らの境遇も思想も理解できるだろう。鬼神紙都。鬼の神と、大層な名前ではないか。それなのにお前はどうして地べたに倒れている? お前はどうして守るべき仲間を傷つけられている?」


 やめて。お願い。紙都がーー。


「そして、どうしてお前の仲間は殺されてしまったんだ?」


 ーー紙都が、壊れてしまう。

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