弐
「うわっ!!」
吉良がその攻撃をかわせなかったことは予想済みだった。地面に転がされているだけならば大きな衝撃はない。問題は、標的にされた場合だ。
「紙都さん! 先に行きます!!」
だから愛姫は一度空へと逃げた後、即座に攻撃に転じた。突き出した腕をそのままに右掌の先に降り続ける雨を集める。周囲の雨が一点に集中したためか、墓地の上空のみがぽっかりと空いたように晴れ渡り月の光が静かにその地を照らしていた。
地面へ落下する直前。僅かに腕を後ろへと引き、反動をつけて撃ち抜く。凝縮された水流が元興寺目掛けて飛び出していった。
「行ってください!!」
愛姫の絶叫に紙都の身体が動く。回避するにしろ打ち消すにしろ、滝のように勢いよく放出された水の塊に対処するには体勢を変えなければならない。どんなに速くとも、その瞬間には必ず隙が生まれるはず。
愛姫よりも僅かに速く地面へ着地すると、すぐに震動の止まった地を蹴りもう一度高く飛び上がる。回避か防御か、瞳を大きく開いたままにその判断のときを待った。
上空から地へ直線上に伸びゆく水流はその標的を突き破らんとひたすらに突き進む。それが発する音は、紙都の耳には叫び声のようにも聴こえた。愛姫の心内が発した叫び声のように。
その声に対するように元興寺が左手に握ったままの刀を返した。
(やはりそうか)
元よりこちらの攻撃を避けようなどと思っていないのだろう。あれの目的は、こちらの声を掻き消すことなのだから。
狙うは一瞬。水流と刀が交わる一瞬。鬼面仏心を両手で握り締めると、紙都はその身体を地上目掛けて急降下させた。
互いに向き合う青と銀の二種の力が激突する。一閃。鮮やかに断ち切られた水壁の間に微かに虹が生成される。そこに目掛けて紙都は飛び込んだ。肩口から斜めへ袈裟斬りを狙う。
が。
「甘い」
その行動は読まれていた。空いていた大きな左掌が紙都の渾身の一撃を止めた。あえて奥深くまで食い込ませることで運動を停止させたのだ。
「だったらーー」
「追撃は許さん」
引き抜こうとした刀ごと強く握り締めると、眼前へと紙都の顔を引き寄せる。
(まさか!)
血を塗りたくたったような真っ赤な顔に不気味な笑みが宿った。生物的恐怖を引き起こさせる笑みが横に拡がる。大きく開いた口から鋭利な牙がその姿を覗かせた。
激痛に思わず声が弾けた。皮と肉を食い千切るような歪な音が耳奥から入り込み、脳を揺さぶった。
「やめて!!!」
後ろから放たれた愛姫のかん高い声に反応したかのように、不意に音が止まった。そこでようやく紙都は強く瞑ってしまっていた目を開いた。血飛沫が舞っている。いや、違う。血が細い糸のように元興寺の顔にまとわりつき、絡め取っていた。
操り糸のように後頭部が後ろへと引っ張られ、肩を噛む口が次第に開いていく。すかさず紙都は顔面へ蹴りを叩き込むと、刀とともに肩を引き抜き後ろへと跳んだ。
抉られた右肩がドクドクと脈打ち、血が暴れまわるように噴き出しているのが見なくても感じられる。だが、それも少し時間が経てば鬼の力で回復するはず。
(一旦距離を置いて、それから――)
光る何かが頬を掠めた。反射的に閉じてしまった目が見開かれる。真っ直ぐに、猛スピードで飛んでいったのは。
(刀だ)
それが何を意味するのかは振り返らずとも肌で理解できた。土砂降りの雨が再び降り注いでいたからだ。
「愛姫!!」
地面に降りると同時に後ろを振り向く。視線の先では、真っ赤な花弁が咲き乱れていた。
「くっ……! 愛姫!!」
もう一度その名を呼んで走り寄る。声を上げることもなく後ろへ倒れこんでいく愛姫の背中を吉良が受け止めた。
「愛姫……ちゃん?」
何が起きたのか未だ理解が追い付かないのか、吉良は目を白黒させながら愛姫の肩を揺さぶる。その胸には深々と元興寺が飛ばした刀が突き刺さっていた。何度揺さぶっても、名前を呼んでも柔らかく閉じた瞳は開くことがなく、血が垂れ落ちる口も開くことがなかった。そればかりか身体の筋肉は弛緩し、モノのように吉良の腕に全体重がのしかかる。嘘のように軽い重みが。
「ウソだ……愛姫ちゃん……愛姫! 愛姫!!」
吉良の声は戸惑いからすぐに慟哭へと変わった。
「大丈夫だ! まだ、大丈夫だ吉良!」
「……え?」
強く、吉良の肩を叩くと紙都は、涙で濡れたその両の目を愛姫へと移動させた。
「急所は外れている。おそらくは咄嗟に体を横へずらしたんだ。重傷には違いないが、まだ愛姫の落ち着いた柔らかな音は消えてはいない」
「……本当に?」
「ああ」
紙都が確信を持って大きく頷くと、安心したのか吉良は生唾を呑み込み、大きく息を吐いた。ほんの少しだけぎこちない微笑みが浮かぶ。
だがその微笑みも、醜悪な嗤い声によって消し去られた。
「何が、可笑しい?」
明らかに怒気を含んだ声を発しながら紙都は地に手をついて立ち上がった。嗤い声が上がった方向へ振り向いたそのときに、紅い瞳が鋭く光った。
「ほう、怒ったのか」
「当たり……前だ!!!!」
体勢を低くしたまま地を駆ける。痛みなど忘れていた。というよりも、体の痛みを超える痛みが衝動へと変換し、紙都の全身を突き動かしていた。真直ぐに敵を睨み付けるその様はまさに鬼のそれのよう。
一気に元興寺の間合いへ入り込むと、一足飛びに間合いを詰める。振り上げた刃は鉄籠手のような掌に弾かれるも、返す刀で腕、頸、後ろへ回って背に胴と連撃を繰り出す。
「小気味いい攻撃だ。怒りが刀を弾くごとに火花のように迸る。だが、いいのか? 怒れば怒るほど、憎しみが増せば増すほど、お前の理想戯れ言から遠ざかる。我を忘れるほどの怒りが人間の捕食者となりうる妖怪を産み出すのだからな」
「……黙れ」
呟くように言葉を吐くと、紙都は体躯を深く沈み込ませ、爆発的に疾駆した。




