参
文字通りの針の筵だ。危険を一斉に粟立った肌が最初に感じ取ったことですぐに身を翻すももう遅かった。
礫の多い砂浜に細身の身体が投げ出される。大きく膨らんだ胸が打ち付けられ、全身に細かな石粒が当たったことで痛みが累積するが、左腹部から上げられた悲鳴はそれらの痛みを掻き消すほど強烈だった。
痛い、というよりも熱い。本当に痛いときには声すら発することができないんだということを愛姫は初めて実感した。苦痛を伴いながら歯を食い縛り、体を仰向けに回転させる。痛みのあまりに開いたつぶらな瞳の中に夜闇に半身を晒した月の光が飛び込んできた。鋭く、それでいて柔らかな煌めきだ。その不思議な光は愛姫の瞼が瞬くほんの僅かな間だけ、痛みを忘れさせてくれた。
大きく、息が吐き出される。砂だらけになった手が腹部へと伸びてそこから突き出した突起物を掴んだ。思わず、吸ったばかりの息が漏れ出る。
(痛い! 痛い! 痛いよ!!)
これまでは傍らに誰かがいた。自分の身を案じ、守ってくれる誰かが。ーーだけど、今は一人。どこまでも続きそうな常闇のこの広い砂浜に一人しかいなかった。
(一人……独り……)
逆に改めてその境遇を認識したところで指先に力が宿るのが感じられた。
(私はーーずっと一人だったじゃない)
その指は絡み付くように突起物を包み込む。
(お母さんが命を断ってからーー)
漲る力を指先に張り巡らしてそれを握り締め、そして。
「私は、ずっと独りだったじゃない!!」
苦渋の声を上げながらも一息で複数の針の塊を引き抜くと、海に向かって投げ捨てた。
『今日も、可愛いね……ごめんね』
透き通った鈴の音のような母の最期の声が聞こえた気がした。
すぐさま身体を起き上がらせると大海原へ向かって走っていく。波音一つない静かな海面からは、荒れ狂うような大魚の陰は微塵も感じられなかった。
その水面へ指先ではなく足先を浸けると、愛姫はそのままバシャバシャと音を立てながら突き進む。開けられたばかりの傷口から赤い血が漂い深い海色を汚していく。
「私はここ!」
声を張り上げると同時に水にたっぷり浸かった両手を前へと突き上げた。小さな水飛沫が一時空中を漂う。
一方向に流れる水の流れがぐにゅりと歪む。それは存在を主張するかのように、大きく歪な楕円の渦を描きながら水底に潜む巨大な尾を抉り出した。
夜空に瞬く星の光のように赤い鮮血が四方に飛び散った。磯撫の尾に刻まれた針一本一本が一斉射撃のように脚も腕も胸も、全身を無差別に貫いていく。
「はぁ!!」
それでも、愛姫は指先の動きを止めることがなかった。たとえ、焼き付くような痛みが弾けようとも、目から涙が溢れ出そうとも。おそらくは今の磯撫には小細工なんて効かない。向こうが網を張るのならば、その包囲網に大穴を開けるのみ。
渦巻きはさらに膨張を続け、加速度的にその面積は大きくなっていく。月明かりが照らし出すは真っ赤に染まる白波。その白波が周囲一帯を呑み込むようにうねりを上げる。その先に、赤い赤い水飛沫のその奥に、大魚の全容が曝される。
「今!!!!」
血塗れになった指と指とを水を掬うように絡めると、網を釣竿を引くように後ろへと全体重を掛けて腕を引き抜いた。途端に空高くへ飛び魚のように舞い上がった荒波が一呼吸の間に落ちてくる。
暫く息ができなかった。息継ぎの隙間もないくらい大量の水に全身がひたすら叩き付けられる。身体に開けられた細かな孔へと水は浸透し痺れるような痛みが押し寄せてくる。直撃を避けてこの威力なのだから、まともに水を浴びた磯撫の体も無傷ではいられないーーはずだった。
水流を抜けた先には暗闇が広がっていた。いや、暗闇というよりも空洞と言った方がいいかもしれない。磯撫の針はあくまでも釣り上げるための物でしかない。獲物を食すのは、その大きな口だ。
その空洞のどこを見渡しても光は見えなかった。




