拾壱
目が覚めたのは全くの偶然なのかもしれない。鬼気迫るような甲高い声が、停止した紙都の意識を暗闇から浮上させた。
時間にしてどのくらいなのだろう。はっきりとした意識は正確に状況を掴んでいた。男はふてぶてしい笑顔のまま、破れた皮はまだ空中を彷徨っていた。つまり、時間にして一秒もまだ経っていない。
(助けに行かないと!)
甲高い声の主はわかりきっていた。あの傍若無人の声を忘れるはずがない。
紙都は傷口から手を離し、痛みに構わず床に手をついて体を無理矢理起こそうとする。ポタポタと滴る血が床を汚した。
「おや、加減に失敗して気を失ってしまったと思ったが。お仲間の声で目が覚めたか」
「……当たり前だ」
体を支える脚が腕が震える。悲鳴を上げているように鋭い痛みが体中を走った。それでも立たなければいけない。立って、樹木子からあいつらを守らないと。
(母さんならこんなときになんて言うだろう)
『立ちなさい。それがあなたの役目でしょう』ーーきっとそう言うに違いない。
(こいつを倒してあいつらを助けに行かなければ。単純な力押しじゃダメだ。勝負はきっと一瞬)
紙都の真紅の目がカッと見開かれた。重い体を勢いよく引き起こすと、空いた手を前方にかざす。
「刀を取り出すつもりか?」
そう言って男は嘲笑った。
「それは血の儀式が必要なはずだが」
「……やっぱり、あのとき見ていたんだな」
紙都を中心に眩いほどの紅い光が円をつくった。
「何!?」
常に余裕の笑みを浮かべていた男の口元が引き締まった。紙都の手には、自身の身長とさして変わらない日本刀が握られている。
それを紙都は全身の力を込めて振るった。夜闇を小さな三日月が裂いた。
近距離ではあったもののその斬撃に対処することは男にとって簡単なことだった。後ろに下がってもいいし、無数の短刀で防いでもいい。どちらが次の一手を考えたときに適切かどうか、それを考えているごく短い間に、耳をつんざくような爆発音とともに足元が揺れた。
男の口元が引き締まる。激しい揺れは立つことすらままならない状況へと男を追いやっていた。そして、紙都の放った渾身の一撃が男の体に確かに命中した。肩から胸にかけて一本の線が走り、鮮血が噴き出す。
「くっ……」
苦痛に顔を歪ませながらも、男は机や椅子を倒しながらすぐに後ろへ飛んで追撃を避けた。
紙都は刀を握ったまま窓枠へ走りより、音のした中庭の方へ目を向けた。何事が起こったのかはわからないが、樹木子が、樹木子だけではなく中庭全体が炎に包まれていた。そこだけ朝になったかのように明るい。蓮に、吉良、そして物凄いスピードで走り抜けていく沙夜子の姿が確認できた。
「……まさか、彼女らがあれをしたのか?」
「知らないよ。でも、この光景を見る限りあいつらが上手くやったみたいだな」
男は息を吐いた。
「……自身の体から流れる血で円を描いていたんだな」
「ああ、そうだ」
紙都は窓から離れて男と向かい合った。斬りつけた傷は深くえぐられていて、男が立っているだけでも不思議だった。しかしそれは紙都自身も同じで、男がもう一度攻撃を仕掛けてくるならば、もう助からないだろうと思っていた。その弱みを見せないために、精神力だけで立っていたのだ。
男は再び口元に笑みを浮かべた。ただその笑みにさきほどまでの嫌らしさは感じられない。
「予想外だった。君も、彼女らも。少し侮っていたようだな。本当は力づくでも協力してもらおうかと思ったんだが……まあ、今はまだいいだろう。ここで私は退散させてもらうよ」
つかめない奴だ、と紙都は思った。人間の皮を脱ぎ捨てた後の余分な肉付きのない細身の体は、とても運動能力の高い妖怪とは思えなかった。それでいて、あの瞬発力、頭の回転の速さ、そして何より冷酷さ。どれをとっても今の自分の遥か上にいる。ここまで対峙してもその実力は計り知れなかった。
「その前に少しだけ、私に傷を負わせた君と君の仲間に敬意を表して、この事件の真相についてそのヒントを教えよう」
「ヒントだって?」
男は意地悪く笑った。
「その方が面白いだろう。君らの目的の答えを教えては申し訳ないし」
少し間を置いて再び男はその小さな口を開いた。
「私があのうだつの上がらない教師の姿になったのは、君が足長手長を殺したそのあとだ」
そう言うと、男は瞬時にグラウンドの方の窓枠へと移動していた。
「ちょっと待て!」
止めようとするが足がついていかない。無理に動けば前に倒れ込んでしまう。
「あとは樹木子にでも聞いてみろ」
それだけ述べて男は暗闇の中に消えていった。そして、紙都が男の残した言葉の真意を考え巡らす時間もなく、階下からこの世の物とは思えない何十音もの叫び声が発生し、鼓膜を揺さぶった。