弐
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雷が落ちた。矢を放ったように正確に校舎の隙間を縫ってその雷は中庭の木製のベンチへと命中し、ベンチを瞬く間に燃え上がらせた。舐めるような風と雨とが炎を鎮火させるまで、束の間校舎は明るい橙色に照らされた。
「雷獣のお出ましってわけか。それにしてもまた中庭の方かよ。やっぱり何かに呪われてるんじゃねえか?」
屋上から様子を窺っていた犬山蓮は3mはあろうかというフェンスを右手に装着した鈍色の狗鈎で切り裂いた。金属特有の耳障りな音が発生し、スパッときれいに切断される。その穴を押し広げると、コンクリートの塀の先端に立った。
荒れ狂う暴風雨が歓迎しないとばかりに蓮の髪の毛を逆立たせる。
「いいじゃねえか。最終決戦って感じだな。さっさと終わらせて、九尾を倒しに行ってやる」
再び雷が黒雲に轟いたのを合図に蓮は屋上から勢いよく飛び降りた。風を切り裂くようにぐんぐんと加速をつけ、雷が落ちたその元へと矢のように突進していく。
「やっぱり居た。やつだ!」
雷獣は落雷とともに現れる妖怪とされる。古くから雷の化身とも呼ばれ恐れられていたが、そんな事前情報を頭に入れることもなく自身と自身の中に潜む狗の直観に任せるがままに蓮は敵の正体をつかみ、攻撃を試みようとしていた。
狗鈎を振り下ろすも狙いは外れ泥のようになった土塊を抉った。すぐに視界から逃れた二股の尻尾を追い身体を反転させるがすでに雷獣は手の届かない高さへ跳躍していた。
「おいおい、俺より速いってのか」
爪を掻き鳴らしもう一度突進する。今度は獲物を追い詰める野生の犬のように地面を滑り、雷獣がちょうど真上に来たところで地を蹴って跳び上がった。間近で捉えたそれは犬、いや狼に似ていた。どうしても歪む視界に映るから正確さには欠けるが、普通の狼と違うとすれば後脚が四本あることと、やはりその長い尾が二股に分かれているということくらいか。
「逃がすかよ!」
蓮の爪が稲光に照らされて露になると同時にその者の姿も映し出される。薄黒に覆われた体毛に濁った黄色の丸い目。その目に目掛けて狗鈎が弧を描いた。
「!!!!」
突如、目前にあったはずの黄色の瞳が消える。いや、瞳だけではない。前足も異形な後脚も、その長い尾も雷獣の身体全体が忽然と姿を消した。
(消えただと!? いや、臭いはまだ残っている)
突如激痛が胸を貫いた。赤い鮮血が一粒一粒の粒子のように強風に巻き上げられていく。その痛みと感触に蓮は覚えがあった。
後ろの毛むくじゃらの身体を蹴り上げると同時に地面へ向かって上体を傾ける。身体を貫いた敵の得物が引き抜かれ、濡れた大地の上へ落下していった。
衝突。そして再びの鈍痛が身体を駆け巡る。
「くっそ……」
間違いない。この痛みに引き抜かれたときのあの感覚。こいつはオレと同じーー。
飛び降りてきたその一撃を転がりながら避けると苦渋の声を上げながら蓮は立ち上がった。その動作が予想されていたのか、瞳の中に鋭利な巻き爪が迫っていた。
頚だけを横にずらして負傷を避けるも、黒く焼けた頬の皮の一部が抉り取られていく。また目の前から消えた雷獣を追って後ろを振り向くと同時に両腕を交差する。暴風に紛れてゆるりと風が凪ぐと同時に毛に覆われた短い腕が現れた。
「やっぱり、そうか!」
腕を強く締め付けるもガクガクと爪を動かし強力な力で反発してくる。
(こいつの武器はオレと同じ、『爪』だ。とは言ってもーー)
力ずくで腕が外され身体ごと爪が伸びてくる。避けるには十分な距離だったが、蓮はあえて同じ爪で対峙した。
命を削り取る瀬戸際にも関わらず、どうしても顔がにやけてしまう。
四本の赤銅色の狗鈎と五本の漆黒の鉤爪とが大量の雨粒を弾いて衝突した。風雨が鳴り止み、代わりに甲高い金属音が両耳を包み込む。大音量のヘッドフォンを耳に押し当てたみたいに音叉を鳴らしたような耳鳴りだけがじーんと鼓膜を振動させる。
気が付けばすでに蓮の背中は地面へと横たわっていた。耳を覆うその音はそのままに体が痺れたように動かないのが実感できる。
(やっぱり。雷獣の爪の方が力も、なによりスピードが段違いだ)
深々と刺された胸の傷口がさらに抉られて冷たかったはずの雨水が生暖かくなっていくのがわかる。歯を食いしばりながら僅かに感覚の戻った腕の力だけで起き上がるも、雷獣の姿は見当たらなかった。
雷が、また落ちる。何度も何度も細かに場所を変えて繰り返し落ちるそのリズムが舞い踊る太鼓のリズムのようにずしりと腹の底に響いていった。
「あの野郎、遊んでやがる」
地面に倒れた際にすぐに喉元を掻き切ることもできたはずだった。しかしそれをせずにまるで眼中にないかのように気まぐれに動き回るだけ。
「なめんじゃねーよ」
こっちには何代にも渡って積み重ねてきた重みがあるんだよ。
まだ動かぬ足を立たせるために、温くなった衝動を奮い起こさせるために、自身の爪をまだ血の流れるままの傷口へ重ねるようにして突き上げる。荒ぶる太鼓のリズムはその研ぎ澄まされた悲鳴によって掻き消された。
途端に身体中を巡る血管が不規則に収縮を繰り返す。全身が灼け付くように熱くなり、内に眠る狗が表に現れる。それは口からはみ出すほどの牙として顕在化した。
「行くぜ!」
立ち上がると同時に滴り落ちた血が消えた。雷が落ちる速度はまさに一瞬。その速さに達しない限りは雷獣に致命傷を与えるのは不可能。飛び道具のない蓮は真正面からその速さに挑戦しなければいけなかった。
雷の落下とともに校舎の壁を地面をベンチを木々を蹴って追い掛ける。
(ダメだ! 音や光を確認した後から行動したんじゃまるで間に合わねぇ!!)
一度空高く跳ぶと半ば本能的に雨に濡れた牙を鳴らす。もっと速くーー感じてから、考えてから動くのではもう遅い。筋肉が心臓が収縮するように反射よりもさらに速い速度で動かなければ雷には届かない。
校舎の壁を蹴り上げるとさらに高く身体を飛ばした。屋上のフェンスに両足を掛けると、全体重を預けフェンスを後ろに反らす。ゴロゴロと雷鳴が空気を脅かす。キリキリと軋む音が限界点に達したところで、一気に弾け飛ぶように飛び出した。
軌道の修正はほぼできない。雷が落ちる場所が的外れであれば不発に終わるどころか地面に激突し大打撃を受ける。それでも今の蓮には弾丸のように標的に向かって飛び掛かるしか、もう術は残されていなかった。
ピカッと中庭にフラッシュが焚かれた。それは、燃え上がったベンチの残骸に、蓮の軌道の延長線上に落ちる。
「! 間に合え!!」
獲物に向かって狗の爪が伸びる。




