拾
「そろそろ時間だ樹木子。もうすぐ、新しい獲物が来るぞ」
その男の呼びかけに、樹木子はその葉をざわめかせることで返答した。
「嬉しそうだな。久しぶりに大量の人間の血が飲めるからか? だが、あの男だけは殺すな。あれは特別だ。まだやってもらうことがある」
そう言うと男は上空を見上げた。漆黒の空から急降下してくる少年の姿がそこにはあった。男はにやりと嫌らしい笑みを浮かべるーー。
嗤ってやがる。こうして現れるのも予想済みってことか。……だったら容赦はしない。
紙都は落下しながらも上半身を右にひねり、右の拳に力を込めた。目標まで1、2秒の短い時間で数十メートルの距離を落ちていけば、通常なら急激な空気圧の変化に気を失ってしまうところだが、『鬼化』した紙都には強力な武器となる。
元々の力に落下によって生じた力を加えた重い一撃が荒席に当たった。その瞬間に生じたエネルギーが衝撃波となって周囲を駆け抜けていく。人の血を吸って肥大化した樹木子の幹が大きく揺れた。
紙都はすぐに身を翻した。自分の拳があったところを鋭利な刃物がすり抜けていった。
どこからともなく現れた刃物が紙都の硬い拳を受け止め、すぐさま攻撃に転じていたのだ。
身を屈め、地面に着地すると同時に紙都は前に踏み込んで左拳で突いた。荒席は紙一重でそれを躱すと、ニヤついた表情を変えることなく右手に軽く提げた刃を突き上げてきた。
刃は紙都に触れる寸前で弾き飛ばされた――かのように見えた。
「裏拳か」
刃とともに身を飛ばされた荒関は地面に向けて血とともに唾を吐いた。顔は相変わらずニヤついたままだ。
「裏拳? これが裏拳というのか?」
減らず口を叩いてみる。本当に裏拳という言葉の意味を理解してはいなかったが、自然にそれが口に出るほど油断できる状況ではなかった。
(……こいつ、強い)
強さなど口にできるほど戦い慣れているわけではない。それでも簡単に倒せる相手ではないと体が告げていた。
「……そうか。君はまだ覚醒したばかりだったね。鬼神紙都くん」
その話し振りに紙都の知っている担任の面影は微塵もなかった。むしろ、さきほどネットの掲示板でやりとりした「通りすがりの妖怪」を連想させる。
男は手に持った短刀の切っ先を地面へと向けた。
「ほんの少し話をしよう」
「話?」
紙都は臨戦態勢を崩さなかった。どんな相手かわからない状態で気を抜くことはできない。
それを見てニヤけ顔の男が刀を草原へと投げ捨てた。より一層口元が歪む。
「大丈夫だよ。何もしない、今はね。力を抜いていい」
しぶしぶ提案を受け入れたというように一つうなずくと、拳の力を緩めた。
「話ってなんだ」
「なに、ごくごく簡単なことだ。それに、君の方も聞きたいことがあるはず」
「ああ、荒席はどうした?」
紙都は苦々しげに言った。
「話せることは話そう。場所を変えようか。君の大事なクラスメートがもうすぐここへやって来るのだろう」
「ああ」
男は刀をそのままにしてフワッと軽いステップで紙都の落ちてきた3階の教室へと跳んだ。つづいて、紙都もその後を追う。
暗闇の教室の隅の方へ紙都は移動した。男からなるべく距離を置くためだ。
上空に輝く三日月の光がわずかに降り注ぎ、男の顔を照らした。その顔は紛れもなく無精髭でだらしのない担任の顔だった。
「さて、紙都くん。私はね、君に協力して欲しいんだ」
「協力? ふざけるなよ。人を殺そうとしてきて、協力だって?」
男は楽しそうに小さく笑い声を上げる。
「先に攻撃してきたのはそっちではないか?」
「何言ってる!? 足長手長を仕向けたのもお前の仕業だろ!」
「おや? まるで私が誰か知っているみたいな口ぶりだな」
「ああ、お前は『通りすがりの妖怪』だろ?」
おお、と声を出して男は自分の手の平に軽く握った拳を当てた。
「大当たりだ! ……でもね、紙都くん。憶測だけで判断するのは好ましくないな。君は私の口調がネットの掲示板の書き言葉と似ているような気がした。それだけが唯一の根拠らしい根拠だな。だけど、さすがにそれだけじゃあね」
「あとは直感だよ。あんたを至近距離で見たとき、あの男だと思った」
「ふうん。直感ね。だったら、君に聞こう。荒席は一体何者で、どの時点からこの企みを計画していただろうか」
「何者って……」
何者だ? 足長手長と同様こいつも死んだ人間だとしたら、すでに荒席は死んでいることになる。だから、荒席は元々教師でこの『通りすがりの妖怪』に殺された死体。足長手長のときには別の死体を動かしていたから、そのあとか。今日の朝の時点では普通だったから――あれ? おかしい。青柳さんと付き合っていたのはだいぶ前の話のはずだ。だったら、その時点からこいつは死体でいた? とすると足長手長のときは? こいつは複数の死体を操ることができるのか?
「フフ、答えは簡単だよ――!!」
紙都の目の前に男が現れた。一瞬の、おそらくコンピュータですら計測できないほどの速さで男は紙都に近寄り、そのまた次の瞬間には紙都の背中に移動していた。
紙都がそれに気づいたとき、何かの飛沫が紙都の顔面を濡らしていた。腹部に耐え切れないほどの激痛が走る。
声が出なかった。痛いとかそんな言葉で表すことのできない痛み。熱いという言葉がぴったり合う。紙都は人生初めて味わう感覚に姿勢を保てずに床に倒れ込んだ。鬼化していなければ失神していたかもしれない。
(……切られた!?)
無意識に腹部に当てていた手を恐る恐る自分の目の前に持っていく。月明かりに照らし出されたそれは紅く煌めいていた。
斬られたのだ、刀で。血が吹き出して止まらない。止血しなきゃいけないのか? 血を、とにかく血を止めないと。
「両手でしっかり傷口を押さえなさい」
頭上から声が掛かる。
「あとで保健室にでもいけば消毒も止血もできるだろう。なに、今の君なら死にはしないよ。ただの人間に戻ればすぐあの世行きだがね」
男の声に従うのは不服だったが、この状態なら体を上手く動かすことができない。両手でぐっと傷口を抑える。再び激しい痛みが紙都を襲った。それもすぐに引いていき、幾分か楽に呼吸をすることができるようになる。
紙都はうつ伏せのまま顔だけを横に向けて見下ろす男の顔に視線を向けた。
「なんで、と聞きたそうな目つきだな」
男の太い指が一を表す。
「一つは、君にはまだやってもらうことがあるから。ここで死んでもらうわけにはいかないので、かなり手加減している」
指がもう一本追加される。
「もう一つは君の甘さを思い知らせるため。紙都くん、仕込み杖って知っているか?」
答える力はなかった。圧迫していても血は完全に止まることはなく、血が流れるのに合わせて体中の力が抜けていくようだった。
何も答えないことを知らないことと判断したのか、男はどこからか杖を取り出して説明を始める。
「仕込み杖というのは中に短い刀が入っている杖のことだ。だからこのように」
男は居合い抜きのそれのように杖を斜めに構えて、素早く抜いた。杖に切れ目が走り、青白く輝く刀身が姿を現した。
「不意打ちで斬ることができる」
それで自分も斬られたのだ。紙都はぼんやりとした頭でそのことだけは理解した。
男は再び短刀を杖の形に収める。あったはずの切れ目が消えたように紙都の目には映った。
「そして、私自身も仕込み杖みたいなものなんだよ。この仕込み杖、どこから出したと思う?」
紙都の眼の中で男は自分の皮を剥いだ。自身の手によってではない。それは中から現れた。
体を突き破るように出現した何十本もの刃物によって荒席の体がズタズタに裂かれたのだ。
「だから、まだ君は甘いんだよ。戦いにおいてはあらゆる可能性を考え尽くさなければ」
ぼやけた視界の中で最後に見たものは、不敵に笑みを浮かべた男の顔。そして、暗闇が全てを覆った。