拾
片手で鎌を振るうと前方に強風が走った。繰り出される火炎を全て壁際へ弾き飛ばして一筋の道をつくる。九尾へと届くたった一つの道を。あとは、その道をひたすらに直進するだけ。
真っ直ぐに進むことなんてできやしなかった。してはいけないと思っていた。血塗られたこの身は永遠に誰にも真っ直ぐに降り注ぐ陽の光は浴びることなんてできないんだと。ならばせめてこの瞬間くらいは、真っ直ぐに突き進みたい。
極大な炎の塊が風を焼き尽くす。残った腕が伸び、全身に数え切れないほどの火球が浴びせられる。
(あとはーー頼んだ。悲劇はもう見飽きた)
火球が颯太の全身を包み込むように燃え上がる。夜空に咲く花火がそこに凝縮されたように様々な色に彩られ、その腕は九尾の鼻先で急に止まり、そのまま重力に負けて落ちていった。
極端な静寂がその部屋を包む。元々の霊安室のその機能を果たすような静けさの中、動くのは肩で息をする九尾ただ一人だった。
「呆気ない。死んでしまえばもはやただの土塊。残念ね。いい男だったのに」
吐き出したその言葉が死と決着を明確に定義したからか、術でつくられていた灯が水を掛けられたように消失した。その中の一基が真っ白な毛に覆われた貂へとその姿を元に戻した。
貂は急いで駆け出すと主人の元へ駆け寄り、胸の上へ立って九尾の顔を見上げた。
「ふふ。怒っているの? 主人が殺されたのだから無理もないわね。大丈夫。あなたの主人の心臓など食べないわ。男はそれこそ星の数ほど、幾らでもいるんだから」
乱れた服と髪の毛を直すと、「さようなら」とだけ告げて九尾は歩き出した。再び妖艶な笑みを綺麗なその顔に宿して。
ーーガリガリガリガリーー
ーーガリッ! バリ、ボリーー
耳障りな不穏な音に九尾の足が止まった。ゆっくりと後ろを振り返ると、異常な光景が広がっていた。
「食べてるーーの?」
問い掛けたところで音は止まらない。肉を食い破り骨を断ち、食する音だけが九尾の頭蓋骨に響いた。
「まさか、いや、そんなーー」
『あんたに食べさせるくらいなら他の奴にあげてやる』ーー颯太は確かにそう言った。貂が真っ先に飛び乗っていったのは顔でもなく長い髪の毛の中でもなく、亡骸となった颯太の胸の上。
つまり、貂は颯太の止まったばかりの心臓を食べようとしていた。
そのことに端と気が付いたのか、九尾が貂の元へ走り寄る。元来、生物の心臓や肝には特別な力があると信じられていた。確かに生命の源である心臓が特別視されるのは容易に理解できる。その思想は九尾自身の伝承にも如実に現れていたことだった。
ーー『自分のことしか考えられない以上はあんたは絶対に俺に勝てない』
「捨て台詞だと思った。見落としていた。あれはそういう意味だったの!?」
至近距離で火球を放とうとしたとそのとき、その異変は起こった。
柔らかな咀嚼音が耳奥へ浸透していくようだった。耳障りなくせに甘美なその音。
白い毛が膨張を始める。みるみるうちに面積を広げていくその塊は九尾が放った火球など造作もなく跳ね返した。
「それならーー」
四方を囲むように分身を配置すると、一斉に火柱を出現させた。巨体を閉じ込める檻のようなそれは目で追い付けないほど高速で回転をしながら次第にその空間を狭めていった。
だが。
雷が轟く。雨足が急に強まり、病院の中にいるにも関わらずすぐ隣に落ちたかのようだった。
「……違う、これはーー」
咆哮だった。主人を亡くした痛みが、主人を守れなかった悔しさが、主人を食べた哀しみが、そして主人を殺した怒りが全て雑ざりあったような衝動の放出が雷が落ちる音に混じって病院中に響き渡った。
それは赤い檻を食い破ると狂獣のように牙を向く。
「大人しくしなさい!!」
なおも分身の数を倍にして対抗しようとするが、知性の低い妖にはその手の変則的な攻撃は通用しなかった。
臭いのさらに奥にある本能で本体を嗅ぎ分け突進する。ゆえに本来存在することのない火球も火柱も火炎も、それの元では存在することが許されなかった。
「そんな! 嘘でしょ!!」
気が付けばもうそれは目の前に迫った。剥き出しの牙が大きく開かれ涎が滴り落ちる。急いで後ろへ逃げようとするももう間に合わない。
暗闇が、底無しの暗闇に視界の全てが塗り潰される。何も無い虚無が永続するかと感じさせるほど長い一瞬の間に九尾の身体を包み込んだ。
「きゃああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
今まで発したことのない甲高い鳴き声が木霊し、すぐに掻き消えた。
染み込むような雨の音が廃病院を満たしていくーー。




