弐
しーんと静まり返ってしまったのは仕方のないことだった。今まで弱音を吐いたことがないわけではなかったが、自分から突然話し始めることは初めてに近いかもしれない。いつも強気でプライドも高い沙夜子の茶色がかった瞳が黒く沈みくるくると回っていたスプーンが止まった。
「紙都には前に話しているけど、父親が妖怪の研究をしていた民俗学者で。私が妖怪に取り憑かれたことで命を落として、それから、母親と二人、生きてきた」
スプーンを摘まんでいた指が離れ、机の端を掴む。視線はその指を注視しているように見えた。
「オカルトに非常に、バカみたいに興味のあった私とオカルトを極力避けた母親は対立した。それが今なら妖怪の仕業だって一本の線が繋がったけれど、当時の私にはなんでか理解できなかった。私はただ、お父さんがプレゼントしてくれた本を読みたかっただけなのに」
手が机から離れて自身の太腿の上へ拳をぎゅっと握り締められて置かれる。
「誰も、理解してくれなかった。理解しようともしてくれなかった。母親は男と遊ぶようになっていよいよ私のことなんて見てくれなくなった。仲の良かったと勝手に思い込んでいた友達も、陰で私のことを笑っていた」
強く強く、爪が皮膚に食い込むのではと思うほどに握った拳に力が入る。それを包み込めばいいのか、何もしない方がいいのか紙都には判断しかねた。ただ、同じように拳に力が込められる。
「生きている意味なんてないって勝手に思うの。それは真相がわかったあとからも。私がいなければお父さんはまだ生きていたんじゃないかって。私のせいで、私が殺してしまったんじゃないかって。だから私はーー心を閉じ込めるしかなかった。開かれてさえいなければ、生きているとか生きていないとか、そんなこと関係ないから」
「沙夜子……」
綺麗な音色がその名を呼んだ。が、名を呼びはするものの、戸惑っているのかいつものように行動に移すことができない。
ふと、二人から向けられた視線に応えるように沙夜子は笑みを溢した。今まで見たことのないようなキレイな笑顔が溢れていた。
「私はそうだった。でも、和花もそうだし、紙都だってそう。それだけじゃない。御言さんも怜強さんも、犬山だって、吉良だって、愛姫ちゃんだって、鎌倉も、みんなみんな辛かったり苦しかったり悔しかったり、いろんな気持ちを持って生きてきた。そこには人と妖が絡み合っているけど、人とか妖とか関係ないんだ。私達はこれ以上必要のない負の感情を植え付けさせるわけにはいかない」
沙夜子はいきなりスプーンを掴むと大量の寒天を口へと入れて抹茶で飲み込んだ。
「だからーー戦うの」
沙夜子の言葉を終えると同時にはかったかのように喫茶店の扉が開いた。
「さすが沙夜子さん! いいこと言いますね!!」
拍手をしながら紙都の横へと座りコーヒーを注文した犬山蓮は、椅子の背にもたれ掛かると沙夜子と紙都に笑いかけた。黙っていればそれなりに見える笑顔が光る。
「今、行ってきたぜ。紙都」
「! 日向さんのところか! どうだった?」
背もたれに腕を回しながら蓮は親指を立てた。狗鈎を使う過程で傷付いたのか、何本も線が入った分厚い指だった。
「土下座しても赦してもらえないと覚悟で行ったんだけど、病室に入るなりすぐに『出てけ!』って」
「それって全然許されてないじゃない!! それでノコノコ帰ってきたっていうの!?」
声を荒げた沙夜子の猛攻を手で遮ると、運ばれたコーヒーを一口味わうように飲み込んで足を組む。初めて来たはずなのに常連のようなこの落ち着いた様子はさすがだ。
「そのあとに『こんなとこに来ている場合じゃないだろ!』って。『私の傷を気にするくらいなら同じ傷を妖怪どもにつけてこいっ!』ってーー過激だなあの坊さん」
紙都の脳裏に一週間ほどの修行の記憶が一秒も満たない短い時間で駆け巡っていった。確かに思えば怒り顔しか浮かんでは来ない。
すっかり薄くなったオレンジジュースをストローで啜る。
「厳しい人だよ。だけど、優しい人だ」
「そうだな。お前が優しいって言うんだったら相当優しいんだろうな」
「本当に優しい人は厳しくできる人なのよ」
沙夜子はスプーンをテーブルの上に置くと最後の抹茶を味わうようにゆっくりと飲み干して立ち上がった。
「さあ、行くわよ!」
慌てたのは蓮だ。注がれたばかりの深煎りのコーヒーはまだゆっくりしていけと湯気を発していた。
「いやいや! 沙夜子さん、まだ! まだ飲み終わってないっすから!」
「そうや。まだ少し時間の猶予はあるで」
また扉が開かれる。腰まで伸びる黒羽色の髪を靡かせながら入ってきたのは楓と柊の二人だった。
「楓さん!? じゃあ!!」
「ーーああ、話は纏まったで」




