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 沙夜子は乱れた息を整えながら、綺麗に刈られた芝生に手をついて立ち上がった。


(なんなの? なんで、止まらないの? ……花粉か。花粉が神経組織に入り込んで、体やあの感じだと脳までも動かされている。自身の感情や思考があの木――樹木子にコントロールされて操り人形みたいに……)


 『操り人形』という言葉から、沙夜子の脳裏に首を吊った女子生徒の姿が鮮明に浮かび上がってきた。自分の記憶も感覚も思いも全てがなくなり、ただ風にゆらゆらと揺られるままの姿。あれこそ、本当に操り人形だ。


 右手に持って離さなかったガスライターを強く握り締める。


「自殺させたんだ」


 あの花粉で体を操って。あの花粉で心を操って。虚しさと悲しさとそして憎しみが自分の心を満杯にさせたのが沙夜子にはわかった。


 沙夜子の感情と息を整えるまで少し時間がかかった。吉良は灯油を離さずに、遅いが着実に樹木子の元へ向かっている。目の前の犬山は行進を続け、巨大な禍々しいこの大木は、吉良と沙夜子に向かって薄紫色の花粉を飛ばしていた。


 ……許せない。もう誰もお前の操り人形になんかさせない。絶対にお前の操り人形になんかならない。


 吉良が十分に樹木子へと近づいた。沙夜子は大きく息を吸う。


「吉良、灯油を思い切りぶちまけて、戻りなさい!!」


 その声を合図にしたかのように、沙夜子は全速力で走り始めた。吉良の放り投げたポリタンクはもちろん鮮やかな放物線など描かなかったが、樹木子の根本には届いた。吉良は半分以上灯油でびしょ濡れになった体をそのままに扉へ向かって走る。薄紫色の花粉が沙夜子の体に触れた。


(気持ち悪! わけのわからないものが体の中に入ってくる!! ……このままじゃヤバイ!)


 沙夜子は火力全開にしてガスライターの火を付けた。その火を自分の顔の前に固定し、そのままの姿勢で根本に走り寄っていった。顔は熱く、下手をすると髪や眉毛に火がつくかもしれない。


(でも、こうすれば花粉は目の前から消える。いくら得体のしれないものだって、花粉には違わない)


 沙夜子の考えた通り、薄紫色の花粉の道の一部分は火によってかき消され、そこに沙夜子の走る道が開けた。後ろから花粉が沙夜子に迫るが、構わず走り続ける。


 吉良の撒いた灯油のかかった根本のちょうど真上に差し掛かったその瞬間、沙夜子は体勢をギリギリ走れるくらいに低くして、ガスライターを下に向けて、灯油に火を灯した。


 灯油は一瞬にして燃え始め、樹木子だけでなく周りの芝生を巻き込んで怒ったように燃え広がっていく。根本から幹へ幹から枝、そして桜の花へと火が広がるにつれて、その勢いも増していった。


――そして、地鳴りのような雄叫びが聞こえた。


「……いっつ……なんだぁー……わっ!!」


 今の雄叫びで目を覚ましたのか地面に倒れていた犬山が起き上がった。


「なんか体中痛いし、いったいなにがって燃えてるし!!!」


 犬山は慌ててその場から立ち上がると、ドアの前に立ちすくんでいる吉良の姿を見つけ、そこに向かって猛ダッシュし始めた。走り始めると全身にまとわりつくようなだるさを感じた。


「なあ、いったい何がどうなってんだ?」


 吉良は呆けたように返答する。


「……何も覚えてないんですか?」


 犬山は首に手をあてて首を左右に捻った。ポキポキと小気味よい音がする。


「うーん、ここに来て、なんにも変わらないと思って、でも変な色の固まりが出てきて、沙夜子さんが何か言って、それから――」


 そこまで思い出したところで、犬山の全身に寒気が走った。同時に胃から込み上げてくるものを感じ、我慢できずに地面へと全て吐き出した。吐き出すしかなかった。


 犬山は了解を得ることもなく吉良の手を掴んだ。


「な、何ですか?」


「怖かった。とてつもなく恐ろしかったんだ」


 あってはいけないもの、思ってはいけないもの、それが犬山の中に沸き上がり、犬山は呑み込まれてしまった。


「昔の嫌な記憶。それがめちゃくちゃ浮かんできて、そして、そしたら、死のうってなったんだ! 死にたい、死にたい、死にたいって!!」


 犬山を支配したもの。それは自殺衝動だった。


 吉良は犬山から手を離すと、犬山の肩を揺さぶりながらさっき自分がされたように犬山の目を真剣に見つめた。


「お、落ち着いてください。それはもう終わったんです。僕らがあの木に火をつけて、さっき聞こえた声もあの木の断末魔なんですよ、きっと。だから、もう終わったんです」


「そう、終わったのか……」


 犬山は後ろを振り返った。学校を象徴するような桜の大木が勢いよく燃え続ける火に呑まれている。自分の身に何が起こったのか、この場で何が行われていたのかまだわからないが、燃え盛る火を見ていると心が静まり返る気がしていた。


 そうして、ふと我に返ると大事なことを思い出した。


「沙夜子さんは? 沙夜子さんはどうしたんだ?」


 吉良は何も答えず、俯いてしまった。


「おい、まさか、あの火にーー!」


「巻き込まれているわけないでしょうが!!」


 ある意味雄叫びよりも恐ろしい怒鳴り声が後ろから犬山と吉良を突き刺した。


 二人とも同時に振り返ると、そこにはボロボロになった服を着た沙夜子が立っていた。


「え!?」


 沙夜子は素っ頓狂な声を挙げた吉良を睨みつける。


「え!? じゃないわよ! 勝手に私を殺さないで、殺すわよ」


「沙夜子さんご無事で!」


 吉良を押しのけると、犬山は沙夜子の両肩を手で掴んだ。


「怪我はないですか? こんな無茶をしてって、沙夜子さんめっちゃセクシーじゃないですか!!」


 沙夜子の鉄拳が犬山の顎にクリーンヒットした。犬山は目にハートマークを浮かべたまま地面に倒れる。


「あんたは絶対そう反応すると思ったわ。全く、上手く発火する直前に逃げたのはいいけど、服や髪に火がついて大変だったんだから」


 そういう沙夜子の髪は火や熱風の影響かチリチリになっており、服は焦げてところどころ白い肌が露出していた。顔だけは乙女の命と言わんばかりに傷一つなく綺麗なままだったが。


「でも、どうやって?」


「簡単よ。灯油に火がついた瞬間にガスライターを投げ捨てて、走ってきた勢いで樹木子の横を通り抜けて、反対側のドアから出て、最低限の見た目を整えてここに来たってわけ」


 全然簡単じゃないんじゃと思い、吉良は絶句した。


「それより、この事件の真相がわかったわよ」


 沙夜子は、べっとりとした前髪を横に払った。


「とは言っても確証があるわけではないんだけど。亡くなった青柳さんは、樹木子の花粉にやられたのよ」


「花粉って、あの薄紫色のやつですか!?」


 いつの間にか蘇生した犬山が口を挟む。沙夜子は小さく頷いた。


「あの薄紫色の花粉は人間の神経組織に影響を及ぼすのよ。今のあんたの話を聞く限り、人間の記憶や感情に干渉してくるみたいね。ネガティブな悲観的な感情やそれにまつわる記憶を増大させることで、その人を追い込み、自殺衝動を起こさせる。それで、あんたは死のうと樹木子に近づき、青柳さんは首を吊って死んだ」


 ここまでを沙夜子は感情を入れずに早口でまくし立てた。


「あっぶね! オレ、死のうとしてたんですか!?」


「そう。『死にたい、死にたい、死にたい』って何度も連呼してたわよ。……あんた死にたいような過去でもあるの?」


 あまりにも唐突な沙夜子の質問に犬山は笑って答えた。


「なんもないっすよ!」


「そう。だといいけれど……」


「なんなんですか? なんか、関係あるんですか?」


 沙夜子は腕を組んだ。


「うーん……ここからはただの空想なんだけど、あの花粉、ものすごいネガティブな経験をした人により効果があるんじゃないかしら。私も少し花粉が体内に入ったけれど、なんともなかったし。いや、全員に効果はあるんだろうけど、もしかしたら、教師と付き合って何かがあった青柳さんだからこそ、樹木子のターゲットになった」


 沙夜子は亡くなった女子生徒の話をしていた。しかし、そこには犬山に対する遠回しの問い掛けも含んでいる。つまり、「あんたは何か抱えているの?」という含意だった。


 犬山はそれに気づいていないのか、関連する別の質問を投げ掛ける。


「そう言えば、オレの調べた荒席先生との関係はなんなんですかね。うちの担任、生徒に手を出して何やってんだって感じですが」


「あ!」


 そう言えば、忘れていた。この事件にはまだもう一人の人物が関わっている。青柳さんと付き合っていたという教師の荒席太一。こいつはいったいどういう関わりが。


 そのときだった。急に沙夜子の髪を一際強い風が揺らした。まとわりつくような熱を吹き飛ばすような異様に強い風だった。


 状況を把握できる前にまた風が舞った。そして、また風。連続して吹く風はどんどん強さを増していく。


「何かにつかまりなさい!」


 沙夜子は声を張り上げた。 三人が思い思いの何かにつかまったその次の瞬間、目を開けていられないほどの突風が吹いたと思ったら、激しい風圧が体を襲い、脚が宙に浮かんだ。


 沙夜子がなんとか細めた目を開けると、樹木子の周りを竜巻が覆い、猛スピードで回転しながら、上空へと巻き上がっていく。


 狭い空へと解き放たれた竜巻の後には、あれほど燃え盛っていた炎は消えてなくなり、桜の大木が威風堂々と聳え立っていた。


 それもさきほどまでとは全く違う姿となって。


「な、なんだよ、あれ」


 ベンチにしがみつきながら発する犬山の問いに答える者は誰もいなかった。沙夜子ですらその異常さに声を奪われていた。


 樹木子の樹皮には無数の人間の顔が浮いていた。そのどれもが苦渋の表情で歪んでおり、何か呪詛のようなものを繰り返している。


 そして、それらは一斉に口を開け、不協和音の雄叫びを上げた。

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