弐
**********
ヘリコプターで移動中に柳田沙夜子が呈示した奇襲は、その目的の半分を達成した。
「……今、紙都が交戦を始めたわ。動揺しているようには見えないから、きっと当主は無事……ギリギリのところだと思うけどね」
翳した右手の力を抜くと、沙夜子は茶色く染めたショートボブの髪の毛を揺らしながら後ろを振り返った。ハンドカメラが大きく揺れる。
「私はもちろん行くけど、あんたたちはどうするの?」
「ウチはここに残る。これ以上は足手まといやろうから」
横に流れた黒髪を耳に掛けると、藤原和花は申し訳なさそうに微笑んだ。その後ろに並ぶテレビ局の二人も同様に頷く。
「そうね。こっから先は異質な領域。戦えないと前に進めない」
視線を屋敷の入口へと戻す。開け放たれたままの扉から雪が入り込み、薄く降り積もった雪面には複数人の足跡が入り乱れていた。そして、その奥、途中から急に真っ暗闇に切り替わる長い長い廊下の先からは、剣先から迸る火花と全てを呑み込まんとする蛇のような焔が仄かに見えてきそうだった。
「……行く前に、教えてくれへんか?」
野太い声が、沙夜子を冬景色の中へと戻した。カメラがどこにでもいそうな少女の横顔をアップに映し出す。
「あれはなんなんや? そして、君らは一体……」
「そんなの、私にもわからないわ」
妖怪と言えば済む問題じゃない。私の力、蓮の力、そして紙都の力ーーどれも他と明確に分けられる性質のものじゃないもの。だけど、確かなのはそう。
「酒呑童子に九尾の狐。あいつらは、私達が守りたい世界を壊そうとしている。だから、戦うの」
冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。吐き出された白い息はすぐに消えた。
「じゃあ、行くわ」
それだけ述べると、沙夜子は軽やかに駆け出していった。白装束はあっという間に暗闇に混ざり溶けていった。
変わることのない深い静けさの中で、緊張感だけが風船のように膨らんでいく。それが破裂しないよう、胸に手を当てると沙夜子は一度立ち止まった。
そんなに走っていないはずなのに、いつも以上に息が切れる。実戦は、どう数えてもまだ2回目だ。戦闘から一度離脱する前の1回目は師匠である京極梓の支援があったが、今回は期待できない。それどころか、当主二人もまともに戦えない状況下だとすれば、沙夜子自身が表に立たなければならない。
(そうだとしても、戦わないといけない)
右手を突き出し、境を見る。酒呑童子は四方を飛び回りながらその小さな腕を振るい、あるいは引き寄せおそらく攻防の只中にいた。一方の九尾の狐は、間合いを取ろうとしているのか、大きく跳んで例のマッチに火をつけるような動作を何度も繰り返していた。
(鬼は紙都が、狐はエロ犬がそれぞれ対処しているはず。他にはーー当主はもう動けないの?)
だとしたら、私はどう動けばいい? 攻撃に参加するか、あるいは回復に専念するか。
思考を続けながらも白足袋を履いた足は崩れ落ちてきた木片を避けながら前へと進み始めていた。
(今の私の力では一秒も動きを止めることはできない。その短い間に上手く二人が致命傷を与えてくれればいいけど、実際にはたぶんまずもって敵は私を狙ってくるだろう)
たとえ僅かな時間に過ぎないにしても、動きが封じられるのは厄介なはず。……だとしたら、離れて回復を優先した方が。
ーーだけど、もし二人が押さえきれなかったら? 押さえ込んだとしても、流れ球が向かってくる可能性は十分にある。
「無理ね」
言い切ることで覚悟が決まったのか、つい口元が緩んでしまった。次から次へと盤面が変わりすぎて、事前の予測なんて成り立つはずがない。臨機応変に、やれるだけのことをやるしかない。
刀を弾く音、焔が燃える音、飛び交う怒声ーーそれら戦いの音が耳奥に飛び込んできた。前を見据えると、いよいよ暗がりに浮かぶシルエットが肉眼で捉えられる。焦げた臭いが一気に漂ってきた。
最初に気がついたのは、やはり九尾だった。ほんの一瞬横目で沙夜子の接近を確認すると、突撃してくる犬山へと特大の火球を投げつけ、沙夜子の方へ跳んだ。
「やっぱり、戻ってきたのね。機転が効く貴女が一番厄介」
後ろで束ねた真白の髪が横に揺れる。音も立てずに着地すると、チェスターコートから伸びた細身の腕をふわりと宙に浮かべた。
「それは、誉め言葉と受け取っても?」
沙夜子も袖口からしなやかな腕を伸ばすと、いつでも陣を発動できるように構える。
「もちろん。貴女が私の側に着いてくれるのなら歓迎するわ」
「冗談でしょ? これだけ人を傷つけておいて言える台詞とは思えないわね」
「そう。残念ね。意志の強そうなその瞳、好きだったのだけれど。ーーそれじゃあ、お喋りはおしまいね。貴女を殺さないといけないから」
指が斜め下に空を切る。それは連なる空間を歪ませ炎を現出する術。
「また、その術を……?」
九尾の腕が振り下ろされる。丁度そのタイミングで腕が千切れ飛んだ。すぐ後に現れた鈍色の爪が、炎を出す前に犬山の攻撃が成功したことを示した。
「沙夜子さん! 大丈夫すか!?」
「え、ええ、大丈夫、それより……」
一体何が起こっているの?
「ふふ。痛いわね」
闇の中へ融けていく九尾の顔が微笑んだ。
「! 後ろ!!」
突如、暗闇の中から出現した真っ赤な焔が爆ぜた。




