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廿壱

**********


「逃げてっ!!」


 そう叫んではみたものの、固い土壁に囲まれた部屋からの出入り口は、長い縁側に出るこの襖しかないことはわかりきっていることだった。逃げるためには、この先にいる敵をなんとかするしかない。


 封じることは、ましてやあの人形のように消滅させることは不可能。足を止めることだってできるかどうか。きっと、できたとしても数秒内に過ぎないだろう。


 沙夜子の視界に見たくもない黒焦げた木床の跡が飛び込んできた。今まさに数秒前には存在していたはずの人間がいた場所に。


(だけど逃がさなきゃ! 逃げてもらわないとダメ! 和花を捲き込むわけにはいかない!!)


「沙夜子!」


 自分の名を呼ばれ、我に返るとまさに目と鼻の先にあの火球が現れた。チロチロと揺れる炎は季節外れの蛍の光のように儚く綺麗だった。だが、それは猛毒を撒き散らす毒虫。


 間に合わない! と萎縮した沙夜子の身体を後ろから伸びてきた透き通るような白い手が押した。


 畳と顔が激突した音と同時に爆発音が発生する。


「ウソ! 和花!!」


 即座に振り返った先には大輪の花が咲いていた。


「……大、丈夫」


「和花、よかっーー」


「何してるんや沙夜子!! まだ攻撃は続いてる! 呆けてる場合やないで!! はよう立て!」


「は、はい!!」


 差し出された和花の手を取って立ち上がると、沙夜子はすぐに右手を前へと突き出した。楓の言うとおりにそれは二体並んでいる。一人は、あの酒呑童子。そしてもう一人はーー。


「姉さん、この距離やったら不利やで。九尾の奴、遠距離から高みの見物を愉しんではる。なんとか接近せな」


「もちろん、わかっとるわ! やけど、いつあの火球が現れるかわからへん。それに、あの鬼もおる。何の策もなしに突っ込むんわ自殺行為やで!!」


(そうね。まさか九尾の狐なんて大物が出てくるなんて!)


 妖怪の存在を確信してから、いつかは出会うんじゃないか…なんて思っていたけど、タイミングが最悪すぎる。知力も高くて多彩な能力を持つ最強の妖怪。あの炎だけでも厄介なのに!


「沙夜子。落ち着きなさい」


 ちょうど沙夜子の体にピタリ重なるように梓が前へと移動した。どこか余裕を感じさせるその構えは、幾度となく危機に直面したのだろう、戦いの歴史を物語っているよう。


「陣において、焦りや驕りは禁物。けれども怒りは必要。敵に対する冷静な怒りこそが最大限の力を発揮する。どんな場面においても、最後はそれが勝機を見出だす。わかりましたか?」


 すぐに答えることなどできなかった。初めての実戦なのだ。冷静に怒るなんて芸当、確約できるものではない。


「返事は?」


 しかし、非情にも師は返答を促した。そんなこと言われれば肯定することしかできない。


「わかりました。……やれるだけ、やってみます」


「よし」


 含みのある低音に心音がざわざわと五月蝿く何度も跳ね上がった。


「楓様、柊様。しかし、退路がない以上。前へ進まなければ道は拓けません」


 何を言っているの? いや、まさか。


「私が先陣を切ります。続けて沙夜子。そして、そのあとはお願いします」


「なっ、待て!」


「そのような時間はもうないかと」


 掲げていた腕を降ろすと、止めるのも聞かずに梓は走り出した。


(そんな!?)


 沙夜子にはもう梓の後を追い掛けるしか選ぶべき道はなかった。二人の当主の物言わぬプレッシャーに圧されるようにして何も考えずに背中を追った。


 幸いと言うべきなのかわからないが、梓にはすぐに追い付いた。梓が自分の前に重なるように立ったことを思い出し、その背よりも身を低く屈めて離れないように、かといって決して目立たぬように後ろに張り付く。


(たぶん、これは陽動だ)


 皺一つない白装束を見つめながら沙夜子はそう判断した。敵の放つ火球を攻略するために自らの身を呈して梓は突撃を試みるのだ。遠距離よりも近距離。上手く直接身体に触れて陣を展開できさえすれば、その身体を縛るその持続時間は格段に上がる。そして、同時に陣を展開すれば、南柳市の封のように強力な結界に閉じ込めることができるかもしれない。


(だから、私を後ろに張り付かせ、当主に後を頼んだ)


 けれどもそれは決死の試み。火球を避けることができなければ、身体ごと存在が消滅してしまう。ーー後ろに私がいるんだ。避けるわけがない。梓さんはきっと、その命を囮にしてこの状況を打破しようとしている。


(それが梓さんの言う「冷静な怒り」なの? そんな、そんなこと絶対にーー!!)


 件の火球がぽっと姿を現した。命を呑み込む火花が。前を走る梓はまるでその出現に気付いていないかのようにペースを崩すことなく向かっていった。


 薄暗い縁側が照らされる。梓は手を突き出し、足を止める。覚悟を決めたような息を呑む音がハッキリと耳に聞こえた。


(ダメだーー)


 その行動は冷静とはとても言えなかった。次に繋がる戦略も戦術もあったものではない。というよりも、沙夜子の全神経は目の前のことだけに集中せざるを得ない状況に追い込まれていた。


 身を投げ出すように梓の背中を突き飛ばす。次の瞬間には自身の身体も木板へ強く打ち付けられ、髪の毛の上スレスレを火の塊が通過していった。


「沙夜子!」


 行動に対する抗議の声が前から上がるも構うことなく腕に力を入れて立ち上がる。後ろから騒ぎ声が起こるが、振り返ることなく右足を踏み出した。


(和花なら絶対大丈夫! それよりも今はーー)


「前へ進まなきゃ!」


 まだ立ち上がれない梓の上をジャンプすると、沙夜子は軽やかに駆け出した。


(考えてみれば、敵はなぜ一斉に攻撃しないのか。突然対象の目の前に現れるあの火の玉の性質上、敵はこちらの位置を正確に把握しているはず。だったら逃げ場のないよう部屋を埋め尽くすくらいの炎を出せばいい。それをしないということは、火球を繰り出す数には制限があり、タイムラグもある)


 あるいは、ただ遊んでいるだけか。


(これは賭けだけど。乗る価値はある。動かなければ、何も始まらないのだから!)


 沙夜子は未知の暗がりに向けて手を突き出した。

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