漆
ゆっくりと開いたドアの先は、暗闇なだけで一見普段と何も変わらないように見えた。地面には芝生が広がり、ベンチが置かれ、真ん中に大きな桜の木が聳え立っている。
風すら吹かない静寂だけが辺りを包んでいた。
「あれ? なんともないですね」
犬山が拍子抜けしたように呟いた。そのまま桜の木に近付いていく。
「待ちなさい!!」
びっくりするくらいの大声が犬山の身体を止めた。
「吉良もよ! みんな動かないで!!」
(よくよく考えたら、妖怪と言えども地面深くに根を張っているこんな大木が容易に移動できるとは思えない。私が女子生徒の死体を見たときにもこの木は1ミリも動いていなかった。この木は動くことなく人間を殺す。その方法は)
沙夜子は、懐中電灯で桜の木の根元を照らした。ぼんやりと浮かぶその姿に異様な所はない。光はさらに上へ上と移動していく。
(おかしいわ。変な所は何もない。これは妖怪でもなんでもない、ただの木?)
沙夜子の中に安堵感と残念な気持ちが一緒になった妙な気持ちが浮かんだ。
三人ともがそれを感じたのか緊張で全身が強張っていた吉良から小さな吐息が漏れた。
「……大丈夫です……ね」
「……そうね」
沙夜子の腕が頭上高くまで伸びた。白色の光はかろうじて樹冠の端の方の裏側に届いた。三人の視線がその光の先に集まる。
途端に樹冠全体が怪しい薄紫色に包まれ、葉が桃色の花びらに変わっていく。
「え!?」
薄紫色の固まりは木を覆う膜のように花から枝、枝から幹へと急速に広がっていく。膜は太陽が照らす海面のようにキラキラと輝いていた。
沙夜子はライトを花から根本まで素早く泳がせた。目を細めて注意深く見ると、光が跳ね返る部分と突き抜ける部分に分かれていた。
(跳ね返るのは物体。突き抜ける部分には何もない。これは、粒子のようなーーもしかして花粉!!)
花粉は植物の受粉の際に放たれる。しかし、今は関係ない。だとしたらこれは人間に何かの影響を及ぼす、人間を食すためのもの。
危険を認識したそのときには、根元までに膨らんだ薄紫色の花粉が、蜂の巣の大群のように犬山に襲い掛かっていた。
「あんた、後ろに逃げなさい!!」
沙夜子が叫んだときにはすでに犬山の体は花粉に包まれていた。犬山は身動き一つせずその場に立ち続けていた。薄紫色の花粉は細い線状になり、犬山の鼻や口、耳から体の内部に向かって入り込んで消えていった。
「……い、犬山?」
それでも動かない犬山に対して、沙夜子は不安そうにその名を呼んだ。どんな状況であれ沙夜子に初めて名を呼ばれたとあれば、すかさず満面の笑みを浮かべて返事をするであろう犬山の、その返答はなかった。
「う、うわああ、うわあああああああああ!」
吉良は声を上げた。自分の声と思えないほどの声量だった。ふわっと、脚の力が抜け、お尻が地面に直撃する。痛みも感じる余裕がなかった。
沙夜子はきちんと手入れされてある髪の毛を触った。
(落ち着かなきゃ。落ち着かなきゃ! 犬山は死んだの? ……わからない。けど、死んでいるようにはみえない。何かされた、それは間違いない。なんとかしなきゃ)
沙夜子は髪の毛を触っていた手を下ろすと、すかさず後ろで腰を抜かしている吉良に駆け寄っていった。
「吉良! あんた、動きなさい!! 動いて、あの木に灯油をかけて!! 火は私がつけるから」
吉良は呻くような声を出した。
「……そんなことでき……ない。怖い……体が動かない」
「何言ってんの!! 今は私とあんたしかいないのよ! あんたが動かなきゃ私達三人とも殺されてしまうのよ」
「ころ、され、る?」
「そうよ! 殺されてしまう――だから、はや――」
耳をつんざくような絶叫が吉良から発せられた。自身の声に驚いたかのように吉良は両耳を手の平でぎゅっと押さえ、体を縮こませる。
「殺される、殺される、殺される!! 死ぬ、死ぬ、死ぬ!!! 死ぬのやだ、死ぬのやだ、やだ、やだ、やだああああ!!!」
沙夜子は吉良の右肩にポンと左手を置いた。そして、肩に体重を乗せるようにして右脚を上げる。
「ごめん」
そう言うと、右脚に思い切り力を込めて吉良の右頬を蹴り抜いた。そのまま地面に倒れかけた吉良の胸を両手でつかみ、自分の体へ引き寄せる。
「あんた、部長でしょ!」
体を揺らして焦点の定まらない吉良の目に自分の目を合わせる。すぐに目に光が戻り、怯えたような光に変わった。
「あんた、男でしょ!」
吉良はなんとか頷いてみせた。
「その前に、あんた人間でしょ! 闘争本能はないの!? 逃げる本能でも生きる本能でもなんでもいいわ!! 足腰に力を入れなさい! ちゃんと目を開けなさい!! 諦める前にやれることがまだあるでしょうが!!!」
胸ぐらを掴まれていた手が急に離され、再び吉良は尻もちをついた。しかし、今度は脚が動く、手も動く、何よりも頭が動いていた。
「返事は!!」
自分より年下のはずなのに偉そうに指図する部員を見上げる。この柳田沙夜子という女子生徒が入部してから驚かされ、怯えさせられることの連続だった。自分と似た生徒を集めて、自分たちだけの平和な部活動を過ごしていたのに、荒波のようにあれやこれやと問題が起こり、いつの間にか仲間は逃げて、自分だけが残った。なんで残ったのかわからない。沙夜子が怖くて残ったのかもしれない。
しかし、今は荒波のような恐ろしい少女に感謝をしていた。まだここから生きる手段はある。
吉良は顔の痛みを感じながらも、腹の底から声を出した。
「はい!」
端から見てるとのんびりしているように見えるだろうが、吉良なりに素早く動き、ドア付近に置いた灯油の蓋を開けて、ポリタンクごと持ち上げた。重くて地面に置きたくなるが、普段全く出ない気力で耐えながらヨロヨロと桜の木に向かう。
沙夜子の方は、ポケットに入れたガスライターめがけて犬山に走り寄った。パンツの後ろポケットに窮屈そうに入れられたそれを抜き取ると、犬山の顔を確認する。
犬山は、驚いたような表情のまま凍ったように止まっていた。けれど、目に生気がある。まだ死んでいない――そう胸を撫で下ろした刹那、犬山の右腕が顔に向かって飛んできた。
後ろに体を引いて、すんでのところでそれをかわすと、犬山はゆっくりと桜の木の方へ足を進めていく。
「ちょっと、あんた!」
声をかけても返事はない。ただ黙々と前へ前へと歩いていく。沙夜子はまた犬山に駆け寄ると犬山の腕を両腕で抱えるようにして引っ張った。
「犬山! なんで前に進むの!! あんた、死ぬわよ!」
「……死にたい」
犬山の口から言葉が漏れた。いつもの生気が全く感じられない冷え冷えとしたその言い方に、沙夜子は腕の力を緩めてしまった。恐ろしさを覚えたのだ。その感情は、学校の屋上や高層ビルに上って下を見下ろしたときの感覚に似ていたかもしれない。下を見下ろしたときに、ここから落ちたらどうなるだろうと想像してみたときの寒気立つような恐怖に。それは、今まで沙夜子が感じたことのない恐ろしさだった。心が冷え切るような、ただ、ただ、恐ろしい。その感情がいや、衝動が沙夜子を襲ったときに、沙夜子の腕は無意識のうちに力を失っていた。
犬山は沙夜子の腕を乱暴に振りほどいた。後ろに飛ばされて地面に倒れ込んでしまった沙夜子に目を向けることなく、犬山はただひたすらに「死にたい」「死にたい」「死にたい」「死にたい」と呟きながら、不気味な行進を続ける。