陸
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深夜0時よりも10分早く、沙夜子は南柳高校の門前に来ていた。
すでに吉良と犬山は到着しており、紙都の姿だけがなかった。
それを知るなり怒りを込めた溜め息が、ふっくらとした口から漏れる。
「なんで揃ってないのよ!」
理不尽なその問いに、耳や首や腕や腰ーーようするに体中にジャラジャラとアクセサリーをつけた私服姿の犬山が答える。
「あいつは遅刻するって連絡が来ましたよ。困ったやつですねぇ」
「遅刻!? あのバカ何やってんのよ! こんな一大事に!!」
いつもより数倍恐い沙夜子に部長のはずの吉良は怯えたように体を震わせた。
「まあまあ。抑えて抑えて、そんなに怒ったら新鮮な私服姿が台無しですよ」
沙夜子も黒のパンツに長袖のブラウンのシャツという私服姿だった。自分の中で最低レベルの地味な格好だったが、学校に忍び込むためには仕方がなかった。
「言っとくけど、いつもこんなの着てるわけじゃないわよ」
「わかってますよー。今度2人きりで最高の私服姿見せてください」
「誰があんたなんかと。それより何よその格好は、めちゃくちゃ目立つじゃない」
犬山は両手を広げ、自身の体に目を向けた。
「そうですか? これでも抑えたつもりですけど。沙夜子さんにアピールするにはこれくらいじゃないと」
「外しなさい」
そう吐き捨てるように言うと、沙夜子は体を吉良の方に向けた。
「えーこれくらいじゃないと調子でないんだけどなー」
後ろでアクセサリーを外している犬山を無視して、頭のてっぺんから靴先まで吉良の服装をチェックする。
「まあ、あんたは元から地味だものね。問題ないわ。さて、2人とも何か武器は持ってきた?」
沙夜子たちオカルト研究部のメンバーは、あの無理矢理会議の中で、まずは樹木子をなんとかするという方針を決めた。
もちろん、紙都は猛反対したが、沙夜子に口で勝てるわけがなく、ほぼ沙夜子の考えで決まってしまった。
「僕が持ってきたのはこれです!」
と犬山が胸を張って高らかに掲げたもの。それは、ガスライターだった。
「ガスライター? そんなものじゃどうしようもないじゃない」
「いやいやご心配なく。これもありますから、よっと!」
犬山は屈み込んで重そうな何かを持ち上げた。夜目で輪郭が確認できる程度だが、四角いプラスチックのようなツルツルした材質の大きめの容器だ。
「なるほど、灯油ね。妖怪とはいえ、相手は木。燃やせばいいと。吉良、あんたは?」
吉良は背中に背負っていた黒いリュックをコンクリートの地面に下ろした。
「えっと……これと、これと、これと、これ――」
「ちょっと待ちなさい! 何これ? ニンニクに十字架に変な瓶に入った水。全部ヴァンパイアに使うものじゃない!」
「血を吸うって聞いたから……」
「相手は木よ! こんなもの効くわけないじゃない!」
吉良は頭を下げて地面に置いたものをまたリュックに戻した。
「ところで、沙夜子さんは何持ってきたんですか?」
沙夜子は涼しい顔をしてこう言った。
「私は何も持ってきてないわよ」
「……え?」
吉良が拍子抜けしたような声を出した。
「何よ、重い物を持つのは男子の役目じゃない。私はあんたたちの持ってきた道具とあんたたち自身をどう使うか考えるのが役目なのよ」
「さっすが、沙夜子さん!!」
「それじゃあ、中に入るわよ!!」
校門はもちろん閉ざされていたが、金網の部分に足を掛けてよじのぼると、簡単に校内に侵入することができた。結局荷物はガスライターと灯油の入ったポリタンク、あとは吉良の持ってきたものでなんとか使えそうな懐中電灯のみで、ガスライターは犬山のパンツの後ろポケットに入れた。
足音を立てないように早足で移動する。教師の見回りも当直もない校舎は明かりがなく、暗闇の中に不気味に佇んでいた。
学校というところは不思議な所だ。昼間はうるさいくらいに生命力に溢れているのに、日が落ちると別の建物のようにひっそりと静まり返る。
(きっとそこに学校ならではの怪奇現象の秘密があるのね。真実にしろ、噂話にしろ)
夜の闇は人に恐怖感を植えつける。日が出ているときとの落差が大きければ、そこは異世界のようにすら感じられるだろう。もしかしたら、本当に異世界に変わっているのかもしれないが。
そんな雰囲気をぶち壊すような間の抜けた声が沙夜子の後ろから発せられた。
「あのー沙夜子さん。考えてなかったんですけど、どうやって校舎の中に入るんですか?」
沙夜子は振り向くことなく手短に答えた。
「体育館横の女子トイレよ」
「女子トイレ!? 楽園の一つじゃないですか!?」
背中に悪寒が走った。思わず殴ってしまいたい衝動に駆られたが、今の緊迫感を思い直し、「変態」というだけに留めておいた。
「おわー沙夜子さんからそんなこと言われるなんて最高です!」
……ありえないわ。
「吉良、そいつをなんとかして」
「え? あの……」
「何も言わないで頑張りなさい」
(絶対無理ね。はぁ、あいつがいないとこんなにうるさいやつだったなんて)
「……っていうか、なんでいないのよ」
「ん? なんか言いました?」
犬山の言葉を無視して、沙夜子は校舎の裏手へとまわっていった。体育館は校舎の裏側に設置されており、そこから侵入することが中庭へ行くルートとしては最短距離となる。ただ、体育館の入口や窓は大きく簡単に開け閉めできないことや、誰かに鍵が開いていることを気づかれる恐れがあるため、体育館ではなく隣の女子トイレを選んだのだ。トイレの確認は案外見落とされることが多く、男性の多い教師陣なら女子トイレをすみずみまでチェックすることはできないだろうと沙夜子は考えていた。
女子トイレの前に着くと、沙夜子は足を止めた。彼女が背を伸びしても届かない位置に窓がある。
「どっちか窓開けて」
もちろん動いたのは犬山だ。沙夜子に命令されたのと堂々と女子トイレに入れるのとで鼻息荒くにやけきった顔で窓に手をかける。
やはり鍵は掛けられていないらしく、すんなりと窓は開いた。
「じゃあ、吉良そこでしゃがんで私を持ち上げなさい」
吉良はおずおずと言われるがままに体を下げた。
「うわ、いいなー。そっちの方が役得じゃん!」
犬山は心底悔しそうに地面を踏みならした。
「あんたは窓を開けてくれたからね。二回も続けて頼みごとするなんて申し訳ないわ」
沙夜子は吉良の肩にスラッとした長い脚を乗せると両腕を首に回して軽く交差させた。
「よし、いいわよ、吉良。ゆっくり持ち上げなさい」
「は、はい」
吉良が脚を持って立ち上がると同時に体がフワッと浮いた。少しぐらついているから怖いが、目の前に窓が見える。薄っすらと見える奥のドアに吸い込まれてしまうような感じを覚えた。
「いいわ、脚を離して……はい、ありがとう」
両腕を窓の枠に置いて体をぐっと持ち上げると、その勢いでそのまま窓の中へ滑り込んでいった。
続いて吉良が侵入し、ポリタンクを犬山に手渡されて、最後に犬山が女子トイレに侵入した。
「吉良、懐中電灯」
ポケットを探る音がしてから10秒ほどたってようやく小振りの懐中電灯が沙夜子の手に渡った。
「遅いわよ」
文句を言いつつ懐中電灯のスイッチを入れる。か細い明かりが真っ暗闇の中に点った。
沙夜子は振り返って男二人の顔を交互に見ると、さらに小声で囁くように言った。
「よし、行くわよ。女子トイレを出てそのまま廊下を進んで中庭へ」
二人が黙って頷くのを確認すると、体を向き直してトイレのドアを開けた。
静かに開いたドアの先には当然ながら何もいなかった。そう、何もいないに決まっている。相手は木なんだから勝手に動くわけがない。中庭に行くまでは安全のはず。
「どうしたんですか? 沙夜子さん」
「何がよ」
「なんか、すごい力入ってるように見えたから」
「え?」
言われてみると、ドアノブをきつく握り締めている自分がいた。慌ててパッとドアノブから手を離す。
「なんでもない、ほら、行くわよ」
足元を照らす懐中電灯の光が揺れた。
(何よ、いまさら怖いっての? 人が一人死んでいるんだもの、めちゃくちゃ危険に決まってるじゃない。……でも、あのとき、覚悟を決めたはずよ。警察なんかにはわからない真相を絶対突き止めてみせるって)
沙夜子は、昼間部室で見たあの少女の涙を思い出していた。初めて目にしたオカルト現象に舞い上がっていた自分が恥ずかしくなる。
オカルト現象、確かにそうだ。だけど、これは――殺人事件だ。
懐中電灯を持ち直すと、沙夜子はトイレの外、校舎の中へ一歩踏み出した。
中は静かだった。というよりも物音一つしない静寂に包まれていた。前方を照らす頼りなげな灯りとともに、音も暗闇に吸収されてしまうのではないかと思ってしまう。
「中庭に着いたら吉良とあんた2人で協力して化物に火をつけなさい」
小声で言ったつもりの声が予想以上に響いた。
「わかりましたー!」
場にそぐわない呑気な声が反響する。
「でも、沙夜子さんは何をしてるんですか?」
沙夜子はきょとんとした顔で後ろを振り返った。
「何って、見てるだけよ。化物を倒すなんて女の子にできるわけがないじゃない」
「そうですね! わかりましたー!!」
「でも、ま、指示くらいは出してあげてもいいわよ」
……どんな指示ができるかわからないけど。相手はどんな化物なのかわからない。私達でなんとかなるのかもわからない。だから、いつでも逃げられるようにそのことだけは考え続けないと。
不意に沙夜子の足が止まった。
「どうかしました? 沙夜子さん」
2階、いや3階かどこか遠くの上の階から音がした。微かな音で注意していなければ聞こえなかったのかもしれない。それは、何かが割れるような音だった。
「何か聞こえなかった?」
沙夜子は自分の真上に灯りを向けた。楕円の光は何の変哲もない天井を映している。
「いえ、何も聞こえなかったですよ。お前は?」
「えっ……何も」
吉良はぼそぼそと小さい声で話した。こんな暗い場所で後ろからこの声に話し掛けられたら驚いて逃げるか、殴ってしまうことだろう。
「だそうです。こういっちゃ悪いですが、気のせいでは?」
沙夜子はなおも光の指す方向を凝視していたが、やがて懐中電灯を床に向け直した。
(気のせいではないわね。こいつらが鈍感なだけで。でも、まあとりあえず先に進むしかなさそう)
暗闇で距離感がつかみづらいがいつの間にか中庭の扉までの直線まで来ていた。
「もう少しよ」
歩を一歩一歩進める度に鼓動が早まっていくのがわかる。何が起こるかわからない緊張感と未知への恐怖がそうさせていることを実感しながらも、いざというときにすぐに行動できるよう、頭はフル回転していた。判断したことを実際に行なう指先と足先に感覚をめぐらせる。うるさい心臓とは違い、緊張による強張りもなく自宅でオカルトに関する本やネットを見ているときと同じくらい弛緩していた。
後ろの二人はどうだろうか。文句も言わず(吉良は別として)ついてくるが、こいつらの準備は大丈夫なのか。吉良なんて逃げ出すこともできずにその場で固まってしまうのではないだろうか。そうしたときにまず私のやること。それは3人の体を動かす言葉掛けや行動。大声を上げるか、それとも二人の背中を強く叩くか。
あいつがいたら楽なのに。あいつならきっと二人よりももう少し頼りになるはず。
(……って、何を考えてんのよ。あいつは来なかったんだから)
「臆病者のクソ野郎よ」
独り言として呟いた声は後ろの犬山に届いてしまったようだ。
「え? なんですか?」
「なんでもないわ。……さて、行くわよ」
目の前には中庭に続くガラスの扉があった。普段は開け放されているその扉が閉まっているのを沙夜子は今、初めて目にした。その先は静かな暗闇がどこまでも続いているように見える。
意を決して、沙夜子は扉を開けた。