幸福の香り
すべての事実が明らかになります。そして志保の想いも。。。
幸一と志保は琵琶湖に沈む夕陽を見つめている。近江八幡を越えた辺りにある湖岸緑地公園にバイクを止めて、湖畔に臨むベンチに腰を下ろしている。
「寒くなかったですか?」
幸一が志保の横顔に尋ねた。夕陽が彼女の瞳を紅く染めている。
「大丈夫よ。幸一さんが温かいから」
微笑んだ彼女はステンレスボトルのカップに温かいコーヒーを注いで両手で包み込んだ。
「どう見ても寒そうに見えますよ」
「幸一さんもどうぞ」
優しい目をした志保が紙コップにコーヒーを注ぐ。
「志保さんは確か紅茶派ですよね?」
素朴な幸一の表情に思わず微笑んだ志保は、
「ほんとにお子さまね」
と言って、幸一にカップを手渡した。幸一は志保の言葉の意味がわからずに湖の波に目を落とした。
幸一たちの発見した宝物は、志保が握らされた偽物と同様に、犯行計画が詳細に記されているメモだった。杉山によって警察に持ち込まれ、入念に検査した結果、筆跡も指紋も麻霧のものだった。さっそく報道機関に報告され野党からの厳しい追及を受けている。臨時国会が終わるとともに逮捕される予定だ。
佐藤の自供で、九龍会と麻霧との闇の関係も明らかにされ、九龍会も解散に追いやられた。因みに、原田を殺害したのは同じ九龍会の組員だった。
麻霧からの仕事をいくつも受けて組の中で力をつけてきた原田が、次期組長候補にのし上がって来たための内部抗争だった。勿論、抗争の火種になるような情報を流し、組員の中に疑心暗鬼な空気を作り上げたのも、原田を殺害できるチャンスと場所を作ったのも佐藤だった。
幸一たちの考えたとおり、佐藤と志保は協力していた。養護施設で生活している間に互いの境遇は明かしあっていた。佐藤の里親が麻霧の有力後援者であったことが佐藤の計画を進める契機となった。
佐藤がまだ秘書になる前、実親の仇である原田の調査を進めていた。そして原田の属する九龍会が麻霧の庇護で勢力を維持出来ていることを知った。
佐藤は決して政治家になりたいわけではなかったが、政治に興味があると里親に嘘を吐いて、秘書として麻霧の事務所に身を置くことが出来た。
ちょうどその頃、志保が高校生になり佐藤と再会することとなる。その頃既に麻霧の顔を思い出していた志保は、彼女もまた何とか秘書になって麻霧に接近したいと願い、佐藤に意志を伝えていた。
志保は高校を卒業してからしばらくは東京で就職していたが、やがてチャンスが訪れる。麻霧のベテラン秘書が事務所を辞めることとなり、新人秘書の募集が始まったのだ。
志保は秘書に採用され、その美貌が幸いして麻霧から特別な扱いを受けた。世間では愛人だと噂されていたが、幸一も志保もそのことに関しては深くは触れていない。
幸一たちが宝物を見つけてからしばらくの間は、騒がしい日々を送った。警察に何度も足を運んでは、色んな担当者に同じ話を何度もさせられ、身辺情報も洗われ、志保や春香との関係や杉山との行動記録の検証など、面倒なことに随分付き合わされた。不思議なことに、その間、杉山とは一切連絡は取れなかった。
世間もマスコミも大騒ぎだった。連日麻霧大臣のインタビューや国会での答弁が報道され、報道番組も、麻霧が過去に起こした事件や、中島、山内、原田の殺人事件との関連性を厳しく追及していた。
そんな喧騒も峠を越えた十二月初旬。志保から連絡があり、バイクに乗せて欲しいとせがまれた。もう、寒いからと説得してみたものの、所詮は志保の望みに逆らうことは出来ない。
京都市内から山中越えをして大津に出てから、湖東沿いに走って近江八幡と彦根の境界近くまで走ってきた。
「佐藤さんはどうなるんですか?」
事件の話をしても良いものか迷ったが、志保も話す積りで誘ったのだと思い直した。
「弁護士さんの話では、犯人隠匿も私の身を守るためだったし、殺人教唆での立証も難しいので起訴猶予になる確率が高いそうよ。もう少し調査のために勾留されるようだけど」
「志保さんも勾留されていたんですよね?」
「ええ。おかげで良いダイエットになったわ」
志保はウェストの肉をつかみながら笑って見せた。
「あの偽物の犯罪計画書は誰から手に入れたのですか?もう、嫌というほど何度も聞かれた内容だと思いますけど」
幸一は遠慮気味に問い掛けてからコーヒーをすする。
「良いのよ。あなたには聞く権利があるもの。あれは原田さんから手に入れたの。山内さんから隠し場所を聞きだして発見した物だと原田さんに言われた。しかも、原田さんも麻霧を恨んでいるとか、このままでは自分も殺されるとか、自分は麻霧の味方ではないと言う意味のことをたくさん言われてね。まんまと騙されちゃったわ。あなたの言うとおり危険な世界だった」
志保は小さく吐息をついて、次の問いを促すように幸一を見つめる。
「琵琶湖畔の別荘で麻霧と会っていたら、本当に殺すつもりだったのですか?」
幸一たちが宝物を発見したため、杉山が警察を動かして佐藤と志保の身柄を拘束した。志保は原田殺人容疑、佐藤は犯人隠避の疑いで逮捕した。佐藤が志保をベンツに乗せる現場を杉山が目撃していたので、刑事たちの中に杉山を見た佐藤は素直に応じ、志保の居場所も明らかにした。その結果、麻霧の別荘休暇も取りやめとなった。
幸一の言葉を聞いた志保は、岩場に波が弾ける様子に目を向けながら口元に笑みを浮かべた。
「杉山さんだっけ?新聞男の……。彼もそんなことを言っていたわ。あの人刑事だったのね、何か面白い」
志保は、いつものように左目が遅れて開くゆっくりとした瞬きをした後、
「私にはそんな勇気も気力も無かったわ。復讐に失敗したショックでどうすれば良いのかわからなかった。でも、もしかすると、佐藤さんは私のために麻霧を殺すつもりだったのかも知れない。あなたがマンションの駐車場に来てくれた日、佐藤さんは別荘の準備をしてから私の部屋に来たの。佐藤さんが別荘で何をしてきたのか、気に留める気力もなかった。佐藤さんが警察にどう供述しているかもまだ知らない」
と説明して、引いて行く波の間に佐藤の面影を見ているような表情を浮かべた。
「佐藤さんはあなたの部屋で何をしたのですか?原田さんの殺人準備?」
「部屋を掃除してきれいにしろと言ったわ、失礼だと思わない?」
「秘書は細かいことに目が届くのでょう」
「私も秘書よ」
志保が幸一の頬をつつく。
「あと、預金通帳や印鑑みたいな、通常自宅においてある物以外の貴重品や大事なものを持ち出すように言われた」
「実に細かい指示ですね」
「それから……。他人に見られたくないものも……。あら、今エッチな想像したでしょう?」
志保が悪戯な瞳で笑っている。
「殺人現場になったら部屋中を調査されるからでしょうね。いろいろ見つかったら恥ずかしい」
幸一は意味深な瞳で見つめ返す。
「バーであなたにもらった電話番号のメモも持ち出したわよ。警察の人が見たら暗号と勘違いして捜査を混乱させてしまうでしょ?」
そんなものをまだ持っているのかと驚くとともに、彼女の照れ隠しの言葉が可愛く感じる。
「祇園の高級クラブから、原田と二人で出て行った後、どこへ行ったのですか?」
幸一は、もう忘れていたはずのわだかまりが不意に口から出てしまい、自分でも驚いた。
「気になる?」
なぜだか嬉しそうな志保。
「まず驚くのが先じゃないですか?何で知っているの?って」
「幸一さんが店にいたことくらい知ってるわよ。二人ともあんなにじろじろこっちを見ているんだもの。佐藤さんも気づいていたわよ。麻霧は有名人気取りだから見られて当然だと思っていたけど、バレバレよ」
「杉山さんは刑事失格ですね」
次第に紅く染まってゆく夕空に、記憶の中の祇園の喧騒がとけてゆく。
「麻霧の指示で、あの後原田さんの接待をするように言われたの」
幸一はあの時の光景を目に浮べる。
「あっ、そこで偽物をつかまされたんですね?」
「ええ、そうよ。お寿司屋さんで食事をしている時に渡されたわ」
騙されたことを思い起こしたためか、彼女の表情が少し締まった。
「それから?」
幸一はまだすっきりしない。
「気になる?」
志保は再び笑顔に戻って、少し意地悪な瞳で幸一を覗き込んだ。
「その後は、バーでお酒に付き合っただけだから心配しないで。あんな野獣に抱かれたりしていないわよ」
そう言って愛らしい笑みを浮かべた彼女は、
「あっ、でも麻霧はもっと獰猛な野獣だったわね」
と、自虐的な笑いを漏らした。
「もう忘れましょうよ、麻霧との間のことは」
「幸一さんは気にならないの?何があったか」
「他人は色んな噂をするものです。僕は何も真実を知らないし、他人の噂にも興味はありません。志保さんが忘れてしまえば、何もなかったことがあなたの真実になります。僕は志保さんの真実を信じます」
幸一はじっと彼女の瞳を見つめた。
「そう、ありがとう。でも、もう少し時間をちょうだいね」
なぜ自分に時間をちょうだいと言うのか良くわからないが、幸一は最も気になっている質問に意識を移した。
「もうひとつ聞いても良いですか?」
「ええ」
夕陽の紅色がますます濃くなって、志保の白い肌までも紅く染めている。
「本当は、どうして僕を誘ったんですか?宝物探しの旅に……。地下街の喫茶店では利用価値もない人間だと言われたような気がしますけど」
幸一は思い出し笑いをしながら志保の紅い肌を見つめる。
「ごめんなさいね」
志保もふっと笑いを零して、
「あの時は嘘ばかり言っちゃった」
と、許しを請うような愛想笑いを浮かべて幸一の瞳を優しく覗いた。
「あの言葉も嘘ですか?」
「え?」
と言う代わりに彼女は眉を上げた。
「男の子と観光地を回ったり、手料理を食べさせてあげたりしたのは初めて、て言ったこと」
幸一は少々照れ臭そうに彼女の眉を見つめる。
「嘘よ」
志保は思いの外あっさりと返答した。そして、そのまま目を細めて愛らしく笑う。
「正確に言うとね、好きな男の子とは初めてだった……」
と言って、彼女は幸一の頬を軽くつねった。
幸一は夕陽の紅が心の芯まで染み渡るような温かい気分に浸ってゆく。もしかして自分は志保に好かれているのかも知れないと言った、希望に満ちた空間にすっぽりはまってしまった。
「私ね、幸一さんに宝物を探してもらおうとも、利用しようとも考えていなかった。両親の事件後、暗い毎日の連続で、楽しい学生生活も送れなかった。いつも復讐のことを考えていて、秘書になってからは殺伐とした世界の中で常に周囲を警戒する必要があった。身元は絶対に明かせないからね。あなたと一緒に居ると、そんな世界から離れることが出来た。あなたと一緒に呑気な学生生活を送っているような、伸び伸びとした明るい気持になれたの」
「何の取り得もない男ですけど」
「マンションの駐車場で、私のことを絶対に助けると言ってくれた時、本当に涙しそうなほど嬉しかった。幸一さんに私を助けられるわけはないと思っていたけど、それでも、好きな男の子に力強く叫ばれたら、それだけでもう満足だった」
あんな無責任な言葉が嬉しいものなのかと、幸一は女の不思議さに困惑しながら志保の手を握ってみた。コーヒーを包んだ甲斐も無くまだ冷たいままだ。
「温かい」
そう呟いた志保の瞳に薄っすらと涙が溜まり、その涙に紅い陽が反射して、晩秋との別れを幻影的な雰囲気に導いてゆく。
「もう秋も終わりですね」
涙に揺れる夕陽を見つめた幸一は、夕陽が湖面に反射して揺れる様子に視線を移した。
「それは、私が幸一さんに贈った言葉よ。地下街の喫茶店で……」
「志保さんが言った時は、まだ秋真只中でしたよ。終わるには早過ぎます」
「本当にお子さまね」
幸一の頬を軽く指でつついた志保は、幸一と同じように波に揺れる晩秋の夕陽を見つめてしばらくの間黙した。そして、小さな舟が黒い影となって夕陽の波を横切った時、夕陽の輝きで何かを思い出したかのように志保が静かに語り始めた。
「私ね、秋の風景を本当に美しいと感じたのも、本当に切ないと感じたのも、幸一さんと二人で感じた秋が初めてだった。いつも心を閉ざして生きてきた私は、何でも開けっぴろげで自然な幸一さんに季節の感じ方を教えてもらったような気がするの」
じっと波を見つめる志保の横顔を見つめて、あの日、花背川の輝きを見つめていた志保の表情と、目尻に輝いていた涙を思い浮かべながら、
「もしかして褒められているんですかね?」
照れ隠しの言葉を吐いてみた。
「自分を素直に表さなかった私は誰にも信用されたことは無かった。何かまずいことが起きると、みんな私のせいにされた。私が何を言っても、訴えても、誰も信用してくれなかった。でも幸一さんは無条件で私のことを信じてくれた。何の根拠も無く私のことを信じてくれた。私のことを最後まで信じてくれて、ありがとう」
静かに語り終えた志保は、幸一の瞳をじっと見つめてからゆっくりと瞬きをした。いつものように左目が少し遅れて開く。そして左目が開いた瞬間に涙が一粒こぼれて夕陽にきらりと輝いた。そのまま崩れるように幸一に寄りかかった志保は、やわらかな唇を幸一の唇にそっと重ねた。
肌寒くて切ない晩秋の風が二人の間を吹き抜けていったが、二人の心には暖かな秋の陽の風景が広がっていた。
最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました。
まだまだ新しい作品に挑戦していきたいと思います。