晩秋の香り
麻霧の罠にはまってしまった志保はどうなるのか?無力な幸一に志保を救うことはできるのか?
幸一は緊迫した空気が少し和らぐの待ってから尋ねた。
「志保さんがはめられた?どう言うことですか?」
「志保は偽の情報をつかまされた!」
「どうしてそんなことが分かるのですか?」
「警備会社だ」
杉山は開いたままの雑誌を幸一に手渡す。紙面には、大きな見出しと麻霧の写真、麻霧の直筆と言われている計画書の内容が掲載されていた。計画書の中に宝石店が契約していた警備会社の名前が記載されている。
「有名な警備会社ですね」
「業界二番手の警備会社だ」
「何が問題ですか?」
「君たちは若いから知らないと思うが、一般家庭や小さな店舗にまで警備会社がサービスを始めたのはひと昔前だ。まだ歴史が浅い」
そう言って、杉山が鋭い視線で幸一を見つめている。
「で?」
「この警備会社が設立されたのは事件のあった翌年だ」
さらりと言い放った杉山の言葉に、幸一も全身の血が引いていく感覚を覚えた。
「志保も当時は小学生だから警備会社の名前なんて覚えてもいないだろう」
全身に衝撃を受けた幸一がひと呼吸置いてから口を開く。
「誰が志保さんに偽の計画書を渡したんでしょう?」
「事件の詳細が書いてあることと、トラップを仕掛けてあることから麻霧に間違いないだろう」
杉山が幸一をじっと見つめたまま断定する。その瞬間、祇園の高級クラブで麻霧と原田が話している様子が幸一の脳裏に浮かんできた。
「もしかして、あの夜の……」
思わず零した幸一の言葉に、
「そうだな。志保や佐藤を遠ざけて原田と二人きりで話していた内容は、志保に偽の宝物を渡す算段だったのかも知れない」
と、幸一の考えを代弁した。
「原田が山内を殺したのだとして、山内から宝物のありかを聞き出したと原田が言えば、志保さんは信じてしまうでしょうね」
やるせない気持に包まれた幸一の脳裏には、復讐に失敗した志保の悲嘆にくれた姿が浮かんで来る。
「麻霧は原田経由で志保に偽物の証拠を握らせて、彼女がその証拠を麻霧の所へ持ってくるかどうかを試したのだろう。志保のことを薄々疑っていたのかも知れない」
「用心深い男ですね」
言葉を吐き捨てた幸一は週刊誌をテーブルに投げやった。
「これからどうなるんでしょう?志保さんは」
「下手をすると命が危ないな」
幸一も同様に考えているが、いくら何でも愛人までも手に掛けることは感覚的に信じ難い。杉山にもそんな感覚に同調して欲しいという期待はあったが、これが現実だ。
「今から行きましょう、志保さんのマンションへ」
「居るわけがないだろう。とっくにどこかへ身を隠しているか、麻霧に捕まっているよ」
幸一も同感だが、志保の身の危険を確信してしまった以上居ても立ってもいられず、席を立ってそのまま店を出ていった。定食屋からアパートまではすぐだ。幸一がバイクのエンジンを掛けているところへ杉山もやって来た。
「ご馳走様でした」
さっき言い忘れた礼儀を思い出して改める。そして用意していた杉山用のメットを手渡した。
「用意が良いなあ」
「ジャーナリストでしょ。取材しないと」
杉山は苦笑いを浮かべて後部シートにまたがった。
ものの5分程で志保のマンション駐車場に辿り着いた。と、今まさに黒いベンツの後部座席に乗り込もうとしている志保の姿があった。彼女の後ろに佐藤が立ち、周囲を警戒している様子だ。彼女を無理やり車に押し込めるような光景ではないが、佐藤の全身から滲み出る気迫みたいなものが十分に彼女を拘束している。
バイクの接近に気づいた二人は一瞬動きが止まった。志保はすぐに幸一のバイクだとわかったようだ。幸一はベンツの前にバイクを止めて、バイクに乗ったままでメットを脱ぐ。
「志保さん、大丈夫ですか?」
大声で叫んだ幸一は、佐藤のことは敢えて視界に入れずに彼女の瞳だけをじっと見つめた。
「もう、追い駆けて来ないって約束したでしょ!男のくせに未練たらしい人ね!子供とのお遊びは終わったのよ。さっさと帰りなさい!」
厳しい口調で幸一を叱る志保の瞳は泣いているように見えた。地下街の喫茶店で最後に示し合せたシナリオを貫き通す彼女の固い意志が、幸一にとっては健気であり悲壮でもあった。
「僕はすべてを知っています!僕は必ずあなたを守ります!僕を信じてください!」
もう自分で何を言っているのかわからない。言葉が勝手に口から出てゆく。いや、心から飛び出していった。
志保はいつもの優しい笑みを微かに浮かべてから、ゆっくりと瞬きをした。そしていつものように左目が少し遅れて開いた。だが次の瞬間の、余りに落ち着いた彼女の表情は、却って幸一を得たいの知れない不安に落とし入れてゆく。
落ち着いたとか冷静だとか言う表現ではなく、全ての重荷や煩悩から解き放たれて無になったとでも表現できるような、まるで死を覚悟した者が辞世の句を詠む時のような、神々しくさえ感じる表情だ。
『あきらめ』
志保の心に充満しているのはそんな思いではないか。
佐藤に目で合図を送った志保はベンツに乗り込んだ。佐藤はジロリと幸一をにらんでから運転席に乗り込み、少し車をバックさせてから彼らを避けて駐車場から出ていった。
急発進したためか、フロントガラスとワイパーの辺りに挟まっていた紅い紅葉の葉と、枯れた松の葉が舞い落ちて、志保と走った花背の秋の風景が古ぼけた写真のように彼の脳裏に滲んできた。だが、そんな感傷はすぐに吹っ飛んで、幸一はすぐさまメットをつけ直してベンツを追い駆けようとした。
「やめておけ」
杉山には珍しく、凄みのある声で制される。
「もう、君のような学生が踏み込む世界じゃない」
杉山がメットを脱ぎながら幸一に告げた。幸一は杉山の制止を振り切れない自分が情けなかった。やはり怖いのだ。黒いベンツに包まれた、闇の世界とのチャネルを辿ってゆく勇気は無かった。
「愛の告白もしたし、もう思い残すことはないだろう」
杉山が幸一の肩を叩いて慰めるように言った。
「告白なんてしていませんよ」
杉山の意外な言葉に、何となく茶化されたようで怒りを覚える。
「さっきみたいなのを告白て言うんだ。少なくとも、志保はお前の愛情を感じ取ったよ」
「ここで告白なんかしても何の役にも立たないでしょう!」
怒りを零して杉山に噛み付いた。
「どんな状況でも、相手に自分の真心を知ってもらうことが大切だ」
「そんなの単なる自己満足じゃないですか」
「そうだな。だが人生なんて、自分がどう解釈して生きていくかだ。他人のために取った行動であっても、それだって自己満足と言えなくはない」
ここで禅問答のような会話をしていても仕方がない。
「今から志保さんの育った養護施設に行ってみますけど、杉山さんはどうしますか?」
幸一は気を取り直して、今できることに向き合った。
「付き合ってやるよ、君の自己満足に」
杉山はそう言って、メットをすっぽりとかぶり直した。
春香は、自宅で作った簡単な煮物と焼物、それに実家から送って来た薩摩揚を持って幸一の部屋に向かっている。途中、スーパーに寄って生鮮食品と干物を買い、献立を考えながら歩いている。きっと調味料はほとんど無いのだろうなと想像しながら、その時はもう一度買いに出るしかないと覚悟した。
今まで何度か男子の部屋で宴会をしたことがあるが、食器や調味料はほとんどないか、賞味期限がとっくに過ぎているような物ばかりが並んでいるのが常だ。
春香は複雑な心境でいる。三日前に幸一の部屋をこっそり出て行ってから互いに連絡はしていなかった。ところが突然幸一から誘いの連絡があった。そのことは嬉しいが二人きりではないようだ。もうひとりオヤジがいると幸一は言った。
それも複雑な気分の要因だが、最も大きな要因は昨日報道された事件のことだ。志保が殺人容疑で指名手配されたという報道が全国ニュースで広まった。しかも、先日、麻霧大臣の過去をリークしたのが志保かも知れないと言う、不確定な情報を実しやかに報道していた。
麻霧が過去に犯罪を行ったという証拠の計画書は、翌日には偽物であることが証明された。計画書の内容に、現実ではあり得ない記載があり、筆跡も麻霧のものと断定できなかった。
週刊誌の情報を鵜呑みにして与党を責めた、軽率な野党議員は辞職まで求められているようだ。その偽物の証拠をマスコミにリークしたのが私設秘書の志保だと言われている。そして昨日、志保の部屋から指定暴力団九龍会の若頭、原田が死体で発見された。
原田は志保の部屋でワインを飲んでいる時に毒物を混入されて即死したとされている。志保は行方不明で、警察は殺人容疑で指名手配をした。春香は志保が麻霧の秘書であったことにも驚いたが、彼女や原田がこんな事件に関わった理由が全くの謎であり驚きだ。
春香に事情はわからないが、幸一が大きなショックを受けている確信はある。これから彼の部屋で酒を飲んで楽しむのは良いが、どんな態度で接すれば良いのか悩ましいところだ。そんなことを考えながら幸一の部屋に到着した彼女は大きく息をしてからドアを開いた。
「こんにちは」
自分でも白々しいくらいに明るい声で、中の住人に挨拶をする。さっと部屋を見渡したところ、この前来た時よりもきれいに片付いていて、小さなちゃぶ台の上には既にビールグラスが並んでいた……。と言うか、二人はもう飲んでいる。
「初めまして、杉山と申します。今日はおよび立てしてすみません。幸一君と飲むことになったんですが、男二人で飲むのも詰まらないので、幸一君に無理を言ってあなたを誘ってもらいました」
そう言いながら、杉山は立上って丁寧に挨拶をした。
「そんな流れじゃなかったでしょう」
幸一が座ったままで杉山を見上げて笑っている。
「まあ、細かい話はどうでも良い。今夜は楽しく飲みましょう!」
はしゃいで見せた杉山は再び胡坐をかいた。二人が随分陽気なので、既にどれだけ飲んでいるのか空缶を目探したが、まだ一本目の様子だ。
「春香と申します。こちらこそよろしくお願いします」
春香は杉山に笑顔を向けて可愛くお辞儀をした。部屋にはFMラジオが控えめな音量で流れている。窓の外には賀茂川の晩秋の風景が静かに流れ、今まさに陽が沈もうとしている、一日で最高に美しい時間帯に入っている。春香は、慣れないキッチンスペースで料理を温め、数少ない食器に盛付けて二人の前に並べた。
「美味そうだ。やはり女子がいるとありがたいな」
杉山がさも楽しそうに感嘆して、春香に座るよう促した。
「良いなあ、こんなに若くて可愛い友だちがいて」
「だから、僕にとっては同じ歳だって」
「あら、三浦君も自分より若い子が良いの?女子高生が好き?」
杉山のビールを両手で受けながら幸一をからかう。
「こいつは年上が好みだよ」
杉山が突っ込んでから三人は乾杯した。
「杉山さんは何のお仕事をされているんですか?」
春香が杉山の機嫌を取るように愛想よく話し掛ける。杉山を大事に扱うことが、幸一から求められた使命のような気がしている。
「週刊誌の記者です」
「想像で記事を書く三流週刊誌のね」
幸一が先ほどの仕返しをする。
「へえ、凄いですね。私の全然知らない世界です。でも、どうやってお二人は知り合いに?」
「杉山さんが志保さんのストーカーをしていたから」
幸一の口から志保の名前が平然と出てきたので、春香は幾分安心した。
「三浦君も志保さんのストーカーでしょ?」
春香がビールを口にして笑顔を浮かべる。
「だから、あれはたまたま帰る方向と速度が一緒だっただけで……」
幸一が弁解しながら乾き物の封を開けたので、春香はさっと立上って、スーパーで買ってきた紙の皿をちゃぶ台に置いた。
「さすが女子。気が利くねえ」
「余程寂しい暮らしをしているんですね、杉山さんは」
「あら、独身なんですか?」
春香が少し興味を持った風に瞳を輝かせてみる。そんな演技をする自分が嫌な一方で、久しぶりに女を演じる楽しさも味わっている。
「生まれてからずっと独身ですよ。春香さんが社会人になって、気が向いたら連絡ください」
杉山が軽い口調ではしゃぎながら薩摩揚を口にした。
「うま!」
「杉山さんも案外軟派ですね」
幸一は皿に空けたピーナッツを口に運ぶ。
「とりあえず数を打たないとな」
杉山が自分でビールを注ぎ出すと、春香は新しいビールを冷蔵庫から取り出してきた。そして二人にビールを注ぎながら、思い切って気になっている話題を口にしてみた。
「それにしても、志保さんのニュースには驚いたわ。三浦君は関わっていないの?」
一瞬、二人の表情が硬くなったが気がつかない振りをする。
「まさか」
手短に答えて平静な表情で春香を安心させると、幸一は話題を変えた。
「一昨日、あなたがボランティアで手伝っていた養護施設に行ってきましたよ。そこで志保さんのことも聞いてみました」
「へえ、そうなの。志保さんは施設に知り合いが多かったようだから……。多分、長年お手伝いされていたんでしょうね?」
春香も平静を装ってビールを口に運ぶ。
「志保はあの施設で育ったんだよ」
杉山の言葉に目を丸くした春香は、グラスを持ったままで杉山を見つめる。杉山も彼女の瞳を捉えて言葉を続けた。
「志保の両親が不幸な事件に遭って亡くなった。彼女が9歳の時だ。彼女は10歳の頃から約二年間、あの施設で暮らした。そして小学校を卒業する前に、東京に住む今の里親に引き取られたんだ」
「志保さんは、高校生になった年から施設の文化祭を手伝いに来ている」
幸一が説明を継ぐ。
「わざわざ東京から?」
幸一は無言で頷く。すぐさま杉山がにこりと笑いながら続ける。
「施設の方から志保の過去を伺ったついでに昔の写真を見せてもらったんだ。すると、春香ちゃんが写っている文化祭スタッフの集合写真を発見してね。それで幸一君に飲み会を開くように頼んだ。可愛い友だちがいると知ってね」
見え透いたお世辞に答えようもなく、春香は愛想笑いを浮かべることしか出来ない。
「他にも面白い発見がありました」
幸一が目を輝かせて前のめりになる。
「どんな発見?」
「その集合写真に、佐藤と言う、麻霧大臣の秘書が一緒に写っていました」
なぜ佐藤という人が一緒に写っていると面白いのかわからない。
「なんかサスペンス劇場みたいだろ?」
杉山の冗談の後、幸一が再び話し始める。
「施設の責任者の方に、佐藤さんと志保さんの関係について聞いてみました」
「そうなの……」
なぜ佐藤と志保の関係を確認しなければならないのか意味がわからないが、ここで水を差すのも悪いので、そのまま二人の会話に溶け込むことにした。
「で、どんな関係?」
「佐藤さんが施設にいた頃の名前は静谷茂樹。ああ、彼も里親に引き取られたので姓が変わっています。志保さんが施設に入った時には彼女より六歳上で高校一年生。その静谷さんが志保さんのことを妹のように可愛がっていて、志保さんもとても慕っていた。当時、志保さんは小学生だから、高校生のお兄ちゃんは頼りがいがあって優しく感じたのでしょう」
幸一が話した後、杉山が言葉をつなぐ。
「東京の里親に暖かく育てられた志保は高校生になった。以前からの約束で、高校生になるとひとりで京都の施設を訪問することを里親に許可された。施設のみんなに会いたい気持と、静谷にも会いたい気持ちがあったんだろう。多くのOBも手伝いに来る文化祭の日に合わせて京都を訪れた」
杉山はそこでひとくちビールを飲んでから更に続ける。
「当時、静谷は22歳。志保が養女になってすぐ、静谷も18歳の時に京都に住む里親に引き取られて佐藤という姓に変わっていた。彼は、夜間の大学に通いながら昼間は働いていた。文化祭で再会した二人は、その後も連絡を取り合いながら、文化祭には毎年手伝いにやってきた。やがて大学を出た佐藤は、政治の道に足を踏み入れた。たまたま、里親が麻霧の有力な後援者であったことから麻霧の事務所に入り、そのまま私設秘書を続けている」
杉山はひと息吐いてビールを飲干した。その空いたグラスに春香はビールを注ぎながら、
「その繋がりで、志保さんも私設秘書になったのね。でも、もし志保さんが本当に麻霧大臣を陥れるようなことをしたり、原田さんを殺したりしたのなら、佐藤さんもきっと迷惑よね」
と、佐藤の心配をした。すると、杯を受けていた杉山の表情が急に硬く引き締まり、
「志保がリークした証拠は偽物だが、麻霧が罪を犯したのは事実だ。俺は麻霧の事件をずっと追ってきた。奴は15年前に、君も知っているショットバーのマスター中島と二人で強盗殺人を犯した。その被害に遭って殺されたのが志保の両親だ」
と、怒りのこもった語気で春香にすべてを明かした。彼女は余りに唐突な暴露話に、身体と心は寸時に固まってしまい、何も考えることができない。
「山内さんが伝言を残した宝物と言うのが、麻霧たちの犯罪を証明する本物の証拠だと思います。まだ見つかっていませんけど。それから、志保さんは原田を殺してはいません。動機がありませんから。きっと佐藤にはめられたのでしょう。あなたが心配したように彼にも立場がありますからね」
幸一が春香を労るかのように優しい声色で、志保の無実を主張した。
「佐藤さんの実のご両親も自殺されたんでしょう?」
何とか心を解した春香が、以前にある男から聞いた記憶を引き出した。今度は杉山と幸一が息を飲んで彼女を凝視してから、杉山が更なる事実を明かしてゆく。
「ああ、よく知ってるね。佐藤の実の両親、静谷さん夫婦は小さな町工場を営んでいた。その工場付近にショッピングモールを建設する計画が出来て土地の買収が始まった。だが、買収に応じなかった佐藤の実親の工場は、計画に加わっている企業から妨害を受けて経営が行き詰まってしまった。最後は借金にまみれて自殺に追いやられた。腹立たしいがよくある話だ」
杉山は、春香の頭に浮かんだ推測に同意するかのような表情を見せてから、
「もしかすると、その企業やショッピングモール建設の利権に麻霧が絡んでいて、佐藤も、志保と同様に麻霧に恨みを持っていたのではないかと俺たちは疑っていた。しかし、ショッピングモール建設に麻霧は一切関係なかった。関係していた企業は、奴の息が掛かった企業でもなく、また、関係企業から協力を求められた形跡もなかった」
と、彼女の推測を否定した。杉山は、幸一と養護施設を訪れた後に、佐藤の過去を洗ってみたのだ。
「じゃあ、佐藤さんと志保さんは協力関係ではなかった?」
春香の言葉に二人の男は無言で答える。佐藤は本当に志保の敵なのか、それとも味方なのか、或いは、どちらでもない単なる旧知の仲なのか、二人にもわからなくなっている。
「あなたは誰に聞いたんですか?佐藤さんの過去を……」
幸一が春香の情報に期待を寄せている。
「原田さんから」
意外な言葉に、二人は再び春香の瞳に吸い寄せられる。
「ある日中島さんのショットバーへひとりで行ったの。山内さんも志保さんも仕事中だった。二人と会話しながら飲んでいる時に原田さんがやって来て『静谷のボンは元気か?』て志保さんに聞いていたの。志保さんが何のことかわからないような表情を浮かべていたら『佐藤のことだよ』と、にやけた顔で念押ししてたわ。志保さんは余り相手にしていなかったけど、原田さんはひとりで昔話をしていた」
「どんな話を!」
思わず二人が身を乗り出す。
「佐藤の実親の借金を執拗に取り立てて自殺に追い込んだのは俺だと、自慢げに話していたわ。その保険金で借金を払わせたとか何とか……。余りに赤裸々な話だったので、その辺りで山内さんが話しに割込んで昔話は終わったの」
春香の話を飲み込んだ二人は、彼女の瞳を見つめたままでしばらく沈黙を保ち、頭の中を整理している。
【二人の頭の中】
〇志保 実親 麻霧と中島に殺害される
|同じ養護施設で育つ
〇佐藤 実親(静谷)借金返済で九龍会の原田に追い込まれて自殺
里親 麻霧の後援会有力者
「そう言うことだったのか!」
杉山が口火を切った。
「動機が見えましたね」
幸一の瞳が輝いている。
「佐藤は、九龍会に強い影響力を持っている麻霧の力を利用して、原田に復讐するチャンスを狙っていたのだろう。やっぱり、志保と佐藤が組んでいるという考えも捨てられないな」
「もしそうだとしたら、どうして佐藤は志保さんを連れ出した上に、原田殺害の容疑者に仕立てたりしたんでしょう?」
佐藤が志保のマンション駐車場で彼女をベンツに乗せたのが三日前。その翌日、原田が志保の部屋で殺された。当然志保に疑いが掛かる。幸一たちがマンションに到着するまでに部屋で殺害の準備をしていたのかもしれない。詳細は全くわからないが、佐藤は志保をあのままどこかにかくまった後、原田を志保の部屋に呼び出して、毒入りワインを飲ませて殺害したストーリーを幸一は想像している。
「麻霧にとっては原田も邪魔な存在だ。麻霧の裏の顔を知り過ぎている。一方、志保にも裏切りの報いは与えなければならない。きっと佐藤の提案だろう。志保を犯人として自首させる代わりに、これ以上志保の罪は問わないことを麻霧に約束させる。志保にしても、麻霧を陥れようとしたのだから、本来なら闇に葬られても仕方のない状況だ。檻の中にいる間、命は保障される。数年もすれば麻霧の腹の虫も治まるさ。仮に志保が警察で麻霧の過去の犯罪を話したとしても、彼女が偽証拠をリークして貶めようとしたと思われている今、警察が本気で動く心配もないし、この先志保が何を言おうと世間は信じないからな」
杉山の推理に幸一もかなり傾倒している。佐藤が麻霧に恨みを持っていないのなら、志保の身を案じて復讐を止めようとするのが常識的な考えだ。それでも強行する志保の行為を佐藤は黙認していたのかも知れない。だから、復讐が失敗したからには彼女を守ろうとする佐藤の行動として杉山の推理は的を得ている。だが、なぜか幸一には腹落ちしない。しばらくの沈黙の後、幸一の静かな声が響いた。
「今度、麻霧が京都に戻ってくるのはいつですか?」
「今週の日曜だ。奴は、琵琶湖湖畔の別荘で休養を取るのがライフサイクルだ。そのタイミングで、佐藤は志保を麻霧に会わせて詫びを入れさせるつもりだろう」
杉山の言葉をじっと聞いていた幸一が、
「本当に詫びを入れるんでしょうか……」
と、呟いた。幸一の脳裏には、佐藤のベンツに乗込む時の、すべてを諦めたような、すべてを捨てたような志保の表情が浮かんでる。そのまま幸一は推察を言葉にした。
「三人になったら殺すチャンスはあるはずです。佐藤さんが志保さんの協力者であるという前提ですけど」
「麻霧は大臣だぞ。別荘に入るにはSPのボディチェックを受けなければならない。いくら佐藤が協力しても、刃物も使わずに一撃で殺害するのは難しいだろう。麻霧が騒げばすぐにSPが入ってくる」
殺すなどという言葉が飛び出して、春香はどこか現実とは別の世界にいるような感覚に陥っている。
「最初から部屋に隠していれば?」
佐藤のベンツが急発進した時に舞い上がった紅葉と松の葉が、幸一の記憶に蘇っている。
「僕たちが志保さんのマンション駐車場で二人に出会った時、二人は琵琶湖湖畔の別荘へ行った後だったのかも知れません。秘書ですから事前準備で別荘に入っても何の疑いも持たれない。管理人も素直に鍵を開けるでしょう。松の枯葉がフロントガラスから舞い落ちたのを覚えていますか?湖畔には松の木が多いですからね」
「良くそんなことを覚えているな」
杉山は、まだ幸一の推理を受け入れられない。
「志保さんのマンションには、原田殺害の準備のために戻ったのかも知れません」
さっき思い浮かべた想像を言葉にすると、再び緊迫した沈黙が訪れた。しばらく頭を整理していた杉山は、意を決したように幸一の推理を受け入れる。
「何とか止めないとな。警察に連絡するか」
「良いじゃないですか、どうせ麻霧の犯罪を証明する宝物なんか見つからないんだし、復讐を遂げさせてあげましょうよ」
幸一も思い切った考えを口にしてみる。
「志保を本物の殺人犯にしても良いのか?」
「信じたくはないですけど、既に原田を殺しているのかも知れません」
「麻霧を殺したら、きっと自分も死ぬつもりだぞ、志保は……」
杉山も志保の覚悟の表情を読取っていたようだ。
「ずばりてらの中。ちょっと洒落ているかな。例のものはこうふくの中にある。ちょっと洒落ているかな」
春香が急に明るい声を出して、山内の伝言を口にした。男たちの緊張がほぐれる。
「このヒントで何とか本物の証拠を見つけ出すしかないでしょう?日曜日まで後二日あるわ」
ほんの一瞬、静かなしじまが訪れた。
「そうだな、春香ちゃんの言うとおりだ」
杉山が気分を変えるような明るい声で答えた。そんな健全な会話を聞き流しながら、幸一はゆっくりと立上って賀茂川を臨む窓を開けた。外はすっかり暗くなっていて、肌寒い川風が部屋に舞い込んで来る。幸一の虚しい心の隙間に晩秋の香りが沁み込んで、志保とバイクで走った時の風景が星空のスクリーンに写っている。
幸一は大きな溜息を星空に向かって吐いた。必ず助けると、志保に叫んだ自分が恥ずかしい。結局何も出来ない自分が腹立たしい。ベンツに乗込む時の、ゆっくりとした志保の瞬きが悲しく心に広がっていった。
「俺って本当に無力ですよね。情けないですよね。惚れた女も助けられないなんて……」
星空に向かってそう叫んだ幸一の背中を、春香は無言のままじっと見つめた。今は幸一が誰を好きであろうと関係ない。落ち込んでいる彼を何とか励まさないと、志保だけでなく幸一までも不幸に陥るような気がしてならない。そう思った春香は、何とか彼を励まそうと言葉を探した。
「まだ時間はある。ネバーギブアップよ。ラテン語で何て言ったかな?山内さんが良く口にしていた言葉があるんだけど……」
中途半端ながら必死な態度に春香の意地らしさが伝わってくるが、それも幸一には虚しく響くだけで、彼の脳裏には想い出のスナップショットが繰り出され、志保のいろんな仕草が浮んでは消えてゆく。
喫茶店で朝食をとった時の眩しい白さ、金木犀の香りに包まれた切ない瞳、幸一が美味そうに食べる様子をじっと見つめていた幸福そうな微笑。そんな数々の志保が星空のスクリーンから一気に消え去った後、なぜだか急に、志保の部屋を訪れた時の、ドアから顔を覗かせた瞬間のはにかんだ表情がまぶたに浮んできた。そして次の瞬間、幸一は後頭部を殴られたような強いショックを受けて、綺麗に輝く星たちをぼんやり見つめ続けた。
「おい、寒いからそろそろ窓を閉めてくれよ」
杉山が幸一の背中に優しく声を掛けたが、彼は微動だにせず、黙って星空を見上げている。
「おい、大丈夫か?」
杉山が心配そうに再び声を掛ける。
「わ、わかったかも……」
ゆっくりと振り向いた幸一が虚空を見つめるような瞳で呟いた。
「何が?」
「宝物の隠し場所が……」
「本当か?」
杉山は病人でも見つめるような瞳で幸一を見つめる。
「洒落てなんかいませんよ。駄洒落です。駄洒落!行きましょう!志保さんの部屋に!」
急に殺気立った幸一が部屋を飛び出す。訳のわからぬまま、杉山と春香も後を追う。幸一はタクシーを拾うと志保のマンションの住所を告げた。
「志保の部屋にあるのか!」
杉山も興奮している。
「まだ、確証はありません」
そんな会話をしている間に到着。幸一は興奮で膝が震えている。春香も心臓が破裂しそうなほど緊張してきた。
幸一が管理人室の窓を激しくノックして、震える声で志保の部屋の鍵を借りたいと頼み込んだが、事件現場となった部屋は警察の管理下にあるため勝手に開けられないと強く断られた。それでも幸一が食い下がって管理人を困らせた。と、杉山が幸一を横に押しのけてから、
「こういう者です、開けて下さい!」
そう言って、上着の内ポケットから手帳を取り出して見せた。
「す、杉山さん、刑事なんですか?」
ぽかりと口を開けた幸一が杉山を見つめている。
「細かい話は後だ!」
杉山は鍵を手にしてエレベータに向かった。だが、エレベータはなかなか下りて来ない。待ち切れない幸一は階段を駆け上る。杉山も春香も後を追った。何度も転びそうになりながら、幸一と杉山が先に5階に辿り着いた。
そして転がるようにして志保の部屋の前まで来た幸一は、そこで大きく深呼吸をした。そして彼女の部屋のナンバープレートを指差して、
「529号室。コーフクですよ!」
と、叫んだ。そこへ春香も遅れて到着する。
「コーフクのてらのなか。じゃあ、てらは?」
春香が興奮した口調で息絶え絶えに質問する。杉山が震える指先で鍵を開けた。中へ雪崩れ込む三人。
「山内さんはラテン語を専攻していた」
幸一が大声で叫びながら部屋の灯りを点ける。いつか二人で食事をしたテーブルが悲しいほど懐かしい。幸一はダイニングキッチンに立って周囲を見渡しながら、
「ラテン語でテラは地球という意味です!」
と叫んで、テレビ台の横にある地球儀を指差した。
「この地球儀は山内さんが作ったそうです。アフリカ大陸が少しずれていました」
そう言って地球儀を手にした幸一は、柱の角に地球儀を思い切り叩きつけた。
謎解きがダジャレですみません。