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秋の終わりに  作者: 夢追人
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過去に漂う香り

志保の謎が少しずつ解明されていくものの、幸一にはどうすることもできない事態へと展開していく。

 東大路三条でバスを降りた幸一は、慣れない革靴の踵を鳴らしながら新橋通を歩いている。週末だけあって人通りは多い。食事を終えた人たちが、ほろ酔い気分で二軒目の店を求めて徘徊する時間帯だ。

 昨夜杉山から連絡があって、今夜の夜9時に祇園巽橋まで出てくるように指示された。おまけにジャケットくらいは着用するようにと言う注文つきだ。何でも祇園の高級クラブに連れていってくれるらしい。そのくせ、晩飯は自分で食ってこいと言われた。

 白川沿いの石畳を歩いていると、タクシーが止まってはホステス風の女性と中年の男性が降りてくる。同伴客であろう。街全体が賑やかで景気の良い雰囲気に包まれている。そんな光景をぼんやり眺めていると、縄手通りの方から杉山が歩いてきた。

「祇園は初めてか?」

 杉山が幸一の顔を見るなり大人ぶった口調で尋ねる。

「いえ、2年間この辺りでバイトしていましたから土地鑑はありますよ」

 幸一の返答にちょっと拍子抜けになった感じの杉山は、

「何のバイトだ?」

 と言って巽橋を渡り始めた。幸一も後に続く。橋と言っても十歩程で渡りきってしまう。

「ラウンジのホールとバーテンをやっていました。ああ、うどん屋の配達もしましたよ。クラブやお茶屋さんにも、ホステスさんや芸子さんの食事を運んでいました」

 狭い路地を行き交う人々と肩を交わしながら二人は歩く。そして末吉町にある、古い木造店舗の引き戸をくぐると、中は洋風のインテリアで装飾されたクラブになっていた。

 ダウンライトで照らされた店内は、女性が一番美しく見える照度に保たれている。濃紺のカーペットが敷き詰められており、どっしりとした革張りの、豪華な黒いソファが十組ほど並んでいる。

 入口と反対側はスモークガラスになっているが、内からは白川の流れる景色を望むことが出来る。席は八割方埋まっており、店は繁盛している様子だ。

「ようこそ、おこしやす、杉山はん」

 貫禄のある年配の女性が小走りに近寄ってきた。

「いつもの席、用意させてもろうてますさかい。まあ、今日は可愛いお連れさんがいたはるんどすな」

 女性は幸一を見て愛想笑いを浮かべた。

「いつもすまないね」

「いえいえ。杉山はんの頼みどすさかい、喜んで用意させてもろうてます」

 二人は部屋の隅にあるボックス席に案内された。座った席は壁を背にして店全体が見渡せる。

「いったい、何のためにこんな高級な所へ連れて来たんですか?」

 幸一は、周囲をきょろきょろと観察しながら質問する。

「こんな高級店に入るのは初めてだろう?」

 少々自慢げに聞こえる。

「こんな高級な所へ連れて来てもらうより、居酒屋で腹一杯に食べさせてもらう方が嬉しいですよ」

 正直に感想を述べた。

「まあ、時には辛い現実を忘れろ。君も若い女は好きだろう?」

 杉山は目尻を緩めている。

「多分、みんな僕より年上ですよ」

 正直、幸一にはホステスたちがみんなお姉さんに見える。

「確かに。この店は学生のアルバイトは使わないからな」

 拍子抜けした表情で杉山が言った時、二人のホステスが席に着いた。

「いらしゃいませ。ミズキです」

「サユリです。今夜は、可愛いお連れさんがいたはるのね。お二人とも水割りでよろしいですか?」

 なんてきつい香水なんだろうと思ったが、

「僕ってそんなに可愛いですか?」

 と、ふざけて杉山に尋ねてみる。だが、彼は鼻先で笑っただけで、

「酒は飲めるよな」

 と、返してきた。

「人並みには」

 幸一はサユリに目で答える。並んで座った幸一と杉山の前に二人のホステスも並んでいるが、杉山の前に座っているサユリの方が可愛い。

「杉山さん、いつものお仕事ですか?」

 サユリが仕事顔で尋ねる。

「ああ。だからいつもどおりに頼むよ」

「こちらの学生さんは?」

 ミズキが幸一に微笑み掛けながら杉山に尋ねる。

「将来の俺の部下だ」

「あら、そうなの。就職が内定しはったんやね。でも週刊誌のライターて大変よ」

 サユリが大人口調で微笑む。

「そうでしょうね。ストーカ紛いのことまでしないといけないし」  

 幸一はニヤリと笑って差し出された水割りグラスを口に運んだ。

 杉山は常連客のようで、このホステスたちのことも良く知っていた。幸一にはわからない話題でしばらく盛り上がっていたが、

「いらっしゃいませ」

 と、ホステスたちの声がひと際大きく響いたかと思うと、全員が入口の方に着目して店内に緊張感が走った。黒いスーツを着たがっちりとした体格の男が数人、足早に店内を見回った後、ママに案内されながら、やや肥満気味の壮年の男が入ってきた。麻霧だ。そして、麻霧に一歩遅れて志保がついている。 

 二人は幸一たちの向かいにあるボックス席に座ったが、間にある通路と麻霧の席を囲った観葉植物で、ちょうど顔が見えにくい位置になっていた。他の席よりもやや大きめのソファで観葉植物も多い。恐らくVIP用の席なのだろう。

 幸一は自分の顔から血の気が引いていることを実感している。杉山に志保の本当の姿を教えられても半ば疑い、志保に会って確かめた時も、彼女が否定しなかったにも関わらず、心のどこかで間違いであることを願っていた。

 志保が麻霧の愛人であると言うことは頭では認めてはいたが、こうやって現実を目の当たりにすると、想像していた時の衝撃よりも何十倍もの威力で幸一の心に襲い掛かってきた。

 二人で過ごした暖かくて美しい時間は、すべてが嘘で固められた虚構のような気がして、志保に裏切られたような気がして、騙されたような気がして……。

 それでも良いと何度自分に言い聞かせてみても、やはり惨めな自分を自覚する度、心に寒い空洞が出来てしまう。

 思いも寄らぬ場面に遭遇して茫然自失の状態になっている幸一だが、杉山に対して腹立たしい感情も湧いて来た。こんな場面を突き付けて、いったいどんな目的があるのだろうか?

「じゃあ」

 杉山がホステスたちにそう告げると、

「またね」

 と言って二人は席を離れた。

「常連なんですね」

 空虚な心のまま、幸一は乾いた言葉を吐いてみる。

「仕事の張り込みによく使わせてもらっている。ママが昔からの知り合いでね。ここのクラブは大物政治家や官僚たちがよく利用するから、取材のためにここで様子を伺うんだ」

 幸一の動揺など全く気にしていない様子で、杉山は仕事モードに入っている。

「もしかして、いつもこの席ですか?」

「お偉方は皆、あのVIP席を好むからな。必然的にいつもこの席になる。電話一本でママが空けてくれる」

 逆に、幸一は杉山の言葉など耳に入らない。彼の仕事などどうでも良いことだ。幸一はさりげなく頭を動かしては、麻霧、志保、秘書らしき男の姿を観葉植物の葉の間からぼんやりと眺めている。

「どうだ、これが現実の志保の姿だ」

 杉山が幸一を諭すような口調で囁く。

「こんなものを見せるために、わざわざ高い料金を追加して僕を連れて来たんですか?言葉で言ってもらえばわかりますよ。現場まで見せなくても」

 やや怒りを込めた口調で杉山をにらむ。

「そうか。案外ナイーブだな。でも君を虐めるために連れて来たわけじゃない。奴らがどんな会話をしているのか一緒に想像してもらいたい」

「想像?取材じゃないんですか?」

「俺のような三流週間誌記者の取材に、麻霧が応じる訳がないだろう」

 自信に満ちた語気だ。

「想像ね。週刊誌の記事が当てにならない訳だ」

 溜息交じりの沈黙をしばし味わった後、二人はソファで水割りを飲みながら向かい席の様子を垣間見る。

「あの男は誰ですか?」

 やや小柄な三十歳くらいの男が麻霧の正面に座っている。

「私設秘書の佐藤だ。麻霧クラスになると何人もの秘書を抱えている。どちらかというと汚い仕事を任されている男だ」

 そう説明した杉山はふと思い出したように、

「そう言えば、山内も殺されたらしいぞ」

 と、声を小さくして幸一をちらりと見た。

「事故ではなくて?」

 幸一も予感していたことではある。

「事故に見せかけた殺しだ。警察もそう言う見方をしているらしい。体内から検出されたアルコールの量が半端じゃない。あれだけ摂取したら、バイクどころか歩くのも無理だということだ」

「じゃあ、無理やり酒を飲まされて、バイクと一緒に海に放り込まれたってことですね」

 ドラマのような出来事を日常の出来事のように話している自分が、まるで異次元の空間にいる別人のような気がする。

「まあ、そんなところだろう」

「それをあの佐藤が行ったのですか?」

「実行犯は別だ。恐らく九龍会が関わっている」

 杉山の表情が引き締まる。

「暴力団ですね?」

「九龍会なんていうテニス同好会はないだろう」

「それにしても、何で志保さんは麻霧の隣に座らないのでしょう」

 志保は淡いピンクのワンピースを着て麻霧の正面に座っている。タイトなミニスカートから伸びた脚がとてもセクシーで、周囲のホステスたちの誰よりも美しい。

「世間体があるだろう。公には志保も秘書のひとりだ」

「なるほど」

 佐藤という秘書にママが近づいて何やら耳打ちをした。すぐさま佐藤が立上って入口の方へと足早に出て行く。そんな佐藤の動きにはお構いなしに、志保は麻霧の話しに相槌を打っている。楽しそうな笑顔だが幸一には作り笑顔にしか見えない。

 佐藤が戻って来ると、後ろに凄みのある長身の男がついていた。その長身男は麻霧の前で深々とお辞儀をして、志保が空けた正面の席に腰を沈めた。志保はその男の横に座り、佐藤は麻霧の斜め後ろに立った。長身男は40前後の年齢に見える。はっきり言って人相は悪い。いかにもその筋の人間のようだ。

「あの長身の男、三千院まで来ていましたよ。杉山さんが下手な尾行で僕たちについてきた時です」

「奴が志保と会っていたのか?」

「ええ。志保さんがお手洗いから戻る途中で会ったらしいです。僕もちらりとですが、遠くで二人が話しているのを見ました。ほんのわずかな時間でしたけどね。志保さんは、お店に何度か来たことのあるお客さんに声を掛けられたので挨拶をしただけだと言っていました」

 幸一の胸には、ふと、秋の風の香りが込み上げてきた。

「どうしてそんな所にいたんだろう」

「杉山さんだっていたじゃないですか。志保さんの背景については杉山さんの方が詳しいでしょう。僕にはわかりませんよ」

 杉山はゆっくりと水割りをひと口飲む。

「奴は九龍会の若頭で原田という男だ。組長候補からは外れているから、麻霧に取り入って一発逆転でも狙っているんだろう」

 彼はグラスを静かに戻した。

「あまり賢そうな顔をしていませんね」

「武闘派だからな。最近は暴力団と言っても、表向きはまともな企業の体裁を整えている。出世するのは学があって頭の良い奴さ。武闘派などは兵隊の頭になるのが関の山だ」

 気のせいか、杉山の口調は同情的に聞こえる。

「じゃあ、あの原田て人が中島さんや山内さんを殺した犯人ですか?」

「ひとりでやったかどうかはわからないが、主犯格であることは間違いないだろう」

 幸一は殺人犯が目の前にいることに違和感を覚えたが、不思議なくらい平静に時間が流れている。

「そんな物騒な人と麻霧が直接会うなんて、いったいどう言うことでしょう。通常は、佐藤て秘書がこの手の人の窓口になるでしょう?」

「普通はそうだな」

「じゃあ、今は普通でないことが起きているわけですね?」

 幸一の言葉に杉山は小さく頷いて考え込む。

「さっき原田を見た瞬間、志保さんは驚いていましたね」

 幸一が話題を変える。

「そうか?まあ、何度見ても恐い顔だからな」

「その後も、何かを探るような目でじっと原田を見つめていました。猜疑心一杯、て感じでね」

 幸一の言葉の後、麻霧が志保に何かを呟いた。彼女は席を立って化粧室の方へと足早に消えてゆく。佐藤は声の届かない距離を置きながらも、原田に不審な動きがあればすぐに飛び掛れる間合いを保っている。だが、麻霧がちらりと佐藤に視線を送るや、佐藤は更に数歩下がって完全に声の届かない位置に移動した。

 原田は両膝の上に両肘を置いて、背を丸めた姿勢で麻霧を見上げるようにして顔を近づける。麻霧も少し身を乗り出して小声で話した後、その姿勢が辛かったのか、堪りかねたようにソファに背を持たれ掛けてふんぞり返った。肥満の為に大きく反り出した腹はまるで小太鼓のようで、見ようによっては可愛い。

 そんな姿勢でしばらく原田に耳を貸していた麻霧は、軽く目を閉じてから小さく頷いた。そして再び目を開くと、佐藤に何かを合図して会話は打ち切られた。

「何の相談でしょうね?」

 秘書の佐藤に話の内容が届いているのかどうかはわからないが、彼の表情は微動だにしない。

「テーブルの下に盗聴マイクでも仕掛けておくんだったな」

「でも、短い時間でしたから、難しい相談ではないようですね」

 幸一には、何かの確認をしただけのように見て取れた。

「金か?」

 杉山は違った角度で観察している。

「手数料の値上げ交渉でしょうかね。山内さんまで始末したわけですから」

 幸一は杉山の推察した金銭論を進めてみる。

「でもそんな話は仕事の前に決めるだろう」

(あんたが言い出したんじゃないか)と、幸一は思ったが、

「じゃあ、金以外の何かですね」

 と、話を合わせてみる。

「金の次に男が欲しがるのは……」

 杉山がぼそりと呟く。

「女ですね。それで志保さんを遠ざけたのかも」

 思いつくままの言葉を口にする。

「まさか、愛人の志保を譲ってくれとでも頼むのか?麻霧に」

 杉山は軽く鼻で笑った。

(じゃあ言わせるなよ)と、思いつつも、

「あり得ないですか?」

 と、杉山の意見を引き出してみた。

「依頼人の愛人を譲れなんて交渉するほど馬鹿でもないし、恋愛に純情でもないだろう。第一そんな度胸があるはずない」

「でも、普通の状況ではないのでしょう?今夜は」

 原田が志保を尾行していたことも含めて、幸一には原田が志保に対して何かを企んでいるような気がしてならない。

「麻霧は恋愛に純情ですか?志保さんのことを愛しているなんて柄じゃないと思いますけど」

 幸一が冷めた口調で麻霧の印象を告げる。

「確かに。他にも愛人はいそうだな」

「どう考えても、麻霧は志保さんを利用しているだけでしょう」

 腹の底から怒りに近い感情が沸き起こって来る。

「君の気持ちはわかるがな。志保も麻霧を利用しているよ。愛人関係なんて互いにメリットがないと続かないものだ」

「杉山さんにも愛人がいるんですか?」

 杉山の表情が曇る。そしてやや面目無さそうな目つきで幸一を見つめると、

「愛人の前に嫁をもらわないとな。いや、その前に恋人を作らないとならない。愛人までの道のりは遠いよ」

 と言って頭を描いた。苦笑いを浮かべるしかない幸一は水割りを口に運んだ。

「もしかすると、山内を締めあげたものの宝物の隠し場所は吐かなかったのかも知れませんね?そして締め上げているうちに死んでしまったとか。麻霧の依頼は脅迫者を殺すことだったから仕事は完了した。だが、脅迫材料である宝物を見つけない限り麻霧の不安は消えない」

「今夜仕事の追加をしたわけか?」

「1週間以内に見つけたら志保を抱かしてやるとか言ってたりして。『愛人を餌に暴力団を操る麻霧大臣』なんて見出しはどうですか?」

 半ば自暴自棄な気持ちが湧いて来て、幸一は吐き捨てるような気持で冗談を吐いた。

「あり得なくはないな、証拠はないが……。しかし見出しの文章に?は必須だぞ」

 杉山も苦笑いを浮かべて水割りを口に含んだ。

「どうせ想像で好き勝手に書くんでしょう?証拠なんてどうでも良いじゃないですか」

 幸一の声色は冷めている。

「そう言うなよ。一応ジャーナリストだ。真実に迫りたいんだよ」

「誰にとっての真実ですか?」

 幸一は琥珀色のグラスを見つめて、氷に反射するライトの明かりをじっと見つめる。そこへ、志保が艶やかな歩き姿で席に戻ってきた。彼女が店を歩くと、多くの客やホステスまでもが振り向く。ここにいるどの女性よりも、一番美しく輝いているように感じる。

「さすがに東京の女は洗練されているなあ。京都の田舎学生が一目惚れするのも無理はない」

 杉山が志保を目で追いながら軽く笑いを零した。

「志保さんは東京生まれですか?」

 幸一には意外な感じがする。

「ああ。東京都内だ」

「本当ですか?志保さんはきっと京都生まれの京都育ちですよ。少なくとも関西育ちだと思います」

 志保がソファーに腰を下ろすしなやかな姿と、野獣のような目つきで彼女を品定めしている原田の表情を見つめながら、記憶を手繰り寄せて意見を述べた。

「どうしてそう思う?」

「山内さんの出身地について志保さんに尋ねた時、彼の出身地は知らないと言ったけど、山内さんのイントネーションがネイティブの関西弁だと言いました。関東育ちの人がネイティブの関西弁かどうかなんてわからないでしょう。言葉の発音ではなくてイントネーションですよ。そもそも、関西弁に固執するのが関西人である何よりの証拠です。東京の人なら気にもならないでしょう。それに……」

「それに?」

 杉山が少し前のめりになって幸一の言葉を待っている。

「彼女の作った料理の味が京都の味でした。僕にとっては少し物足りない位の薄味です。具材の使い方も、京都特有のものがいくつもありました。勿論、料理の材料なんかは情報がたくさんありますからね、東京の人でも真似は出来る。しかし、あの味は料理屋の味でもない。京都の家庭料理の味です」

「君に家庭料理の味がわかるのか?」

「ええ。僕は家庭教師のアルバイトもしていたのですが、いつも晩ご飯をご馳走になっていました。昔からある旧家の家庭でしたので……。だから京都の家庭料理の味は良くわかります」

「いいバイトだな。教えられた子供が気の毒な気もするが」

 杉山が冗談を交えたが、幸一は思考から抜けられない。

「杉山さんは志保の戸籍を調査しましたか?」

「いや。出身地については周辺から得た情報だ。第一、俺が追っているのは麻霧だ。志保のことに着目し始めたのは最近だからな。少し調べてみる必要はありそうだ」

 杉山は水割りをぐいと飲み干した。間もなく原田が立ち去り、その後を佐藤と志保がゆっくりと歩いていった。だが、数分後に戻ってきたのは佐藤だけだ。

「本当に原田と一緒に行っちゃいましたよ。今夜あんな野獣に抱かれるのか……」

 幸一が虚空をにらみながら呟いた。

「ご褒美は宝物を見つけてからだよ。今夜は酒に付き合う程度だ。心配するな」

 杉山が優しい瞳を浮かべて、やや荒れ気味の幸一を慰めた。

「別に心配なんて……」

 幸一は水割りをグイと流し込む。

「そうか。じゃあ、俺たちも女の子を呼んでゆっくり飲むとするか」

 杉山は幸一の肩を軽く叩いて笑い掛ける。幸一も微笑み返そうとしたが、愛人である志保の残像と、原田とのこれからの行動が気になって、先ほどまでの客観的な視線は失われてしまった。悲しさに似た虚しい塊が胸につかえて、楽しく酒を飲む気にはなれなかった。


 春香は幸一のベッドで寝返りを打って、床で眠っている幸一の寝顔を見つめた。彼女はやや酒の残った頭と、虚しさに満たされた心で溜息を吐いた。

 昨夜は幸一を夕食に誘って飲み歩いた。最後は幸一の部屋にまで押し入って話し込んだ。寝る頃になると、幸一は床に布団を敷き、ベッドには彼女を眠らせた。春香は期待をしていた訳ではないが、成行き次第では抱かれても良いと思っていた。

 しかし、やはり彼の興味は志保にしかないようだ。会話の中でも、彼が一番興味を持ったのは志保に関する情報と、山内や原田とか言うやくざみたいな人に関する話だった。

 昨夜、木屋町で食事をしてから先斗町の細い路地を二人で歩いていると、派手なスーツを着た人相の悪い男が前から歩いてきた。春香は咄嗟に路地へ入った。

「どうかした?」

 突然方向転換した彼女に追いついた幸一が尋ねた。

「ちょっと会いたくない人が歩いていたから」

「白いスーツ姿の人?」

 今度は春香が驚く。

「何でわかるの?」

 春香は目を丸くして幸一を見つめた。

「僕もどこかで見た覚えがある。どこかのテニスクラブのメンバーだったかな?」

 彼は口元に笑いを浮かべた。

「テニスクラブ?」

 二人はそのまま木屋町に抜ける路地を進み、小さなショットバーに隠れるような気分で入り込んだ。別に悪いことをしている訳でもないのに不思議な感じだ。

「どうして、さっきの人を知っているんですか?」

 幸一がビールをオーダーしながら尋ねた。

「山内さんの知り合いだったみたい」

 春香は幸一の前で山内の名前を出すことは何となく嫌だった。遊びとは言え、自分を抱いた男の名前を幸一の前で口にするのは、幸一に余計な想像を促しそうで嫌だった。しかし、幸一は春香と山内の過去など全く気にならない様子で、

「山内さんの?」

 と、春香に対する興味よりも、志保に関連しそうなキーワードに露骨に興味を示した。

「山内さんと、あの男とどんな知り合いですか?」

 グイとビールグラスをあおった彼の髭に泡が乗っている。

「さあ。でも山内さんは迷惑そうだった。それに理由はわからないけど、あの人は山内さんを探していたわよ」

 春香もビールに少し口をつけた。幸一は、どうして?と言うあどけない表情をしている。

「先日、三浦君に伝言をお願いする前に、志保さんのいた店に行ってみたの、とりあえず自分で伝言を伝えようと思って……。勿論、店は閉まっていたけどね。でも、そこにあの人がいて声を掛けられたの」

「ナンパでもされたんですか?」

 幸一の髭の泡は消えている。彼女はふっと笑いを零して、

「まさか。山内さんの居場所を尋ねられて、知らないと言ったら、もし連絡があったら原田まで連絡するように伝えろと、また伝言を頼まれたわ。私は伝言係りじゃないっての」

 と言ってから、ビールグラスをグイと傾けた。幸一もふっと笑ってくれた。

 春香は自分が少し酔っていることを自覚し始めた。幸一が自分に関心があろうと無かろうと、どうでも良くなっている自分を可笑しく思いながらも、幸一の瞳が輝いている様をずっと見ていたいと感じていた。彼の興味を惹くには志保の話題しかない。

「私と志保さんはどこで知り合ったか知ってる?」

 春香がバーテンにジンライムを頼む。彼女は一軒目でも焼酎をかなり飲んでいた。

「さあ……」

 幸一はレーズンバターを頼んだ。

「ボランティアで児童養護施設の文化祭のお手伝いに行った時に、同じくボランティアで志保さんが来ていたの」

 春香がそう話し始めた瞬間から、思いどおり幸一が身を乗り出してきた。春香は少しだけ幸一を焦らせて、今までの鬱憤をこっそり晴らしながらジンライムを口に運んだ。

「児童養護施設って何をする所ですか?」

「え?」

 折角の鬱憤晴らしが水泡と帰して、春香は溜息を吐いてからジンライムのグラスをテーブルに戻した。

「いろんな事情で保護者がいなくなった子供を預かって育てる施設よ」

 本当は知っているくせに、彼はわざと質問しているようにも感じた。

「へえ。そこでどんなボランティアを?」

 春香は再びカクテルグラスを手にしてから、輝く幸一の瞳を見つめながら言葉を続けた。

「その施設で年に一度文化祭があるの。子供たちや施設のOBたちの催し物なんかがあって、それらの準備や当日のお手伝いをするのが仕事」

「あなたはどうしてそこの施設を手伝うことになったんですか?」

 二人の間にレーズンバターが静かに置かれた。

「福祉関係のボランティアをやっている友達に誘われて」

 彼女はジンライムを口に含んだ。切れ味のよい甘味が舌を痺れさせる。

「その施設はどの辺りにあるんですか?」

 彼はレーズンバターを口に放り込んだ。

「山科にあるわ」

 幸一が爪楊枝に刺したレーズンバターを春香の口先に差し出した。

「ありがと」

 そのままパクリと口にする。

「志保さんはどうしてそこの手伝いを?」

「さあ、詳しい話を聞いたことがないからわからない。でも、今までに何度も手伝いに来ている感じがしたわ。施設のスタッフとも顔見知りが多かったから」

「へえ」

 幸一は興味を失ったかのような力ない返事をしてから、そっと遠くを見つめた。

「山内さんが事故で亡くなったことは知っていますよね?」

 虚空を見つめたままの幸一が硬い横顔で話し掛けてきた。

「え?」

 春香は知らなかった。テレビのニュースでは流れていなかったように思う。彼女は強い衝撃と同時に、さっき見た原田の顔が瞼に浮んできて、背筋に冷たい流れを感じた。

「事故?」

 春香は恐る恐る幸一に尋ねてみる。

「バイクの飲酒運転。誤って海に落ちたらしいです」

 幸一は横を向いたまま話しているが、彼もまた疑惑を持っているように思える。

「本当に?」

 春香は更に突っ込んでみた。

「さあ、僕にはわからないですよ」

 一瞬、彼の厳しい語気に怯みそうになったが、

「山内さんに『もしものこと』が起きたわけね。志保さんにはちゃんと伝言してくれた?」

 と、背筋をピンと伸ばして確認してみた。

「ちゃんと伝えましたよ」

「そう、ありがとう。彼女、何か言っていた?」

 幸一の横顔が更に険しくなった。

「何のこと?って言っていました。全く見当もつかない様子で」

 幸一の言葉を聞いた春香は小さく吐息を吐いてから、

「もう一杯飲んでも良い?」

 と、急に明るい口調に戻って雰囲気を変えた。

 そうして、学生生活の他愛もない話題に変えて幸一を振り向かせた。就職の話や卒論の話など、学生らしい会話をしばらく続けてから店を出た。程よく酔った二人は、酔い醒ましに鴨川の辺へと足を運んだ。多くのカップルたちが川縁に座り込んで語っている。

「三浦君の部屋に行っても良い?」

 春香は酔った勢いに任せて尋ねてみた。

「良いですよ。でも、誰がいるかわかりませんよ」

 一瞬、女でもいるのかと疑った。

「僕の部屋は友人たちに勝手に使われます。きれいに片づけてあるから居心地が良いらしくて」

「鍵を掛けないの?」

「うちみたいな古い学生アパートは、鍵を掛けても十円玉で開けられます。それに貧乏学生ばかりだから、泥棒が入ったって取る物がない」

 幸一はゆっくりと歩を進めながら笑っている。春香は学生マンションに住んでいるので、部屋に戻るとひとりきりになってしまう。しかし、男子学生たちは寮のような学生アパートに暮らしている人も多くて、彼らの集団生活みたいな生活が楽しそうで、時々羨ましく思うことがある。

「それに、うちの冷蔵庫にはいつもビールが置いてあるのでね」

 幸一が言葉を続けた。

「勝手に飲まれちゃうの?」

「ええ。でも、知らない間に食べ物や酒が入っていることもありますね」

「へえ、共同生活みたいね」

「いつだったか、僕が戻ったら、女を連れ込んで僕のベッドで寝ていた奴もいる」

 春香には想像も出来ない常識外れな行動だ。

「それでどうしたの?」

「起こさないように静かに出ていきました」

「誰の部屋だかわからないわね」

 驚いた幸一が慌てて部屋を出てゆく様子を想像して、春香はふっと笑いを零した。

「そうなんですよ。週の半分くらいは誰かが床で寝ています」

 幸一は他人事のように笑っていた。今夜は誰もいないようにと願った春香の祈りが通じたのか、幸一の部屋では二人だけの時間を過ごすことが出来た。しかし、寝る段になると幸一は春香にベッドを勧め、自分は床に薄い布団を敷いた。春香はジーンズを脱いで下半身は下着姿になった。幸一は彼女の下着姿を目にしても動揺せず、まるで妹を寝かすような態度でベッドに寝かせ、自分は床の布団でさっさと眠ってしまった。

 朝になって目覚めた春香は、まだ子供のような表情で眠っている幸一の横に潜り込みたい衝動を覚えたが、中途半端に優しくされても余計に惨めになるような気がして、彼に気づかれないようにそっと身支度を整えて部屋を出ていった。


 幸一の頼んだ焼魚定食が出て来た。杉山の頼んだざる蕎麦はまだ来ていない。

 春香がこっそりと帰ったしばらく後に、杉山が幸一の部屋にやってきた。

「おい、いつまで寝てる。もう昼前だぞ」

 杉山が部屋に入るやそう言って彼を起こした。

「何で床で寝てるんだ?ベッドがあるのに」

 数歩走いて部屋を見渡した杉山は、

「何か女の香りがするなあ。やらせてもらえなかったのか?」

 と、幸一をからかった。

「朝から何の話ですか?」

「だからもう昼だって」

「お腹が空いたんですけど」

 幸一はそう言って、狭い洗面所で顔を洗った。

「良いよなあ、若者は。いつもハングリーで」

「そうですか?僕は満たされている時の方が幸せですけど」

「じゃあ、近所の定食屋で満たしてやるよ」

 そんな流れで、幸一は焼魚定食にありつくことが出来た。

「頂きます」

 幸一が味噌汁を口に運ぶ。

「東京に行って志保の戸籍関係を調べてきたよ」

 杉山は少しでも早く幸一に情報を伝えたいようだ。

「何か面白いことがわかりましたか?」

 彼は食べることに意識を取られている。

「ああ。だがその前に、麻霧と中島の犯した犯罪を教えてやろう」

 そこへ杉山の蕎麦が出てきた。

「別に興味はありませんよ」

「まあ、そう言うな。俺がコツコツと調べ上げて来た成果だぞ。それにあの事件のことを知らないと志保の話が進まない」 

 一瞬箸を止めた幸一はちらりと杉山の瞳を見つめてから、すぐにまた鯖の塩焼きと格闘を始めた。小骨が多くて身もほぐれ難い。

「15年前の11月20日。新京極商店街にある宝石店に二人組みの強盗が入り、時価1億円近い貴金属を奪い、二階で暮らしていた夫婦を殺害。盗まれた貴金属の足取りは一切つかめなかった。恐らく某国地下組織のルートで売却されたと思われる」

「某国て、日本人をたくさん拉致している国のことですか?」

 杉山は静かに頷く。

「当時麻霧は、京都のある代議士の事務所を手伝いながら、生活のために色々な仕事をしていた。その代議士は某国組織の支援を受けていたから、グレーな世界とも多少のパイプがあり、事務所の臨時雇いのような麻霧は危ない仕事も手伝っていたようだ。中島ともそんな仕事の中で出会ったらしい。ある日、新京極商店街組合の慰安旅行があることを麻霧は知った。なぜなら、その代議士の所へ慰安旅行への同行の誘いがあったからだ。代議士は出席を断ったが、麻霧はどの商店が旅行に参加するのか情報を入手した。そしてその中から建物が古く警備も甘い商店を探した。そして宝石店が標的となった。麻霧は入念に下調べをして、生活用に使用している裏口の合鍵まで用意した。犯行当夜、麻霧と中島の二人は難なく店に侵入。警備会社には、今から電気回路の緊急工事をする旨を連絡して警備装置の電源を切る。ショーケースを割り、中の貴金属を集めているところへ二階から夫婦が下りて来た。本来なら旅行に出掛けている筈だったが、夫が体調を崩して急遽参加を取り止めていたのだ。思わぬ事態に遭遇して慌てた二人は反射的に夫婦に襲い掛かり、興奮した勢いで二人を鈍器で撲殺してしまった。夫婦には九歳の娘がいた。娘は物音に気づいて現場を目撃したが、機転を利かせてベランダ伝いに隣の家に逃込んだ」

 幸一は、箸を口に咥えたままで目を丸くして杉山の瞳を見つめている。

「まさか……」

 呆然とした表情で幸一が呟く。

「君の言うとおり、志保は京都の出身だったよ」

 杉山は蕎麦をずるりと吸った。幸一は驚きの余り何も喉を通らなくなっている。

「志保さんが、その娘……」

 お茶の力で何とか口の中の物を飲み込んでから幸一が呟いた。

「事件後しばらくの間、志保は親戚のうちで育てられたが、その親戚のうちもご主人が早くに亡くなって生活に余裕がなくなり、仕方なく志保は施設に預けられた」

「山科にある施設ですか?」

 今度は杉山が目を丸くする。

「そうだ。施設で育った志保は小学校を卒業する前に、今の里親に養女として引き取られた。里親は東京だ。そこで志保は大切に育てられて高校を卒業し、地元の信用金庫に2年ほど勤務した。だが、二十歳になった彼女は東京の家を出て単身で京都にやって来た。京都に来てからの足取りは良くわからない。いつから麻霧の愛人になったのかも定かじゃない」

 杉山も蕎麦を食べるのを忘れてしまっている。

「もしかして、志保さんは両親の仇を討つために麻霧の愛人に?」

「それしか考えられない」

「でも、志保さんはどうして麻霧が犯人だとわかったんでしょう?」

「顔を見たからだよ。事件後の調査でも、犯人は二人の男で顔も見たと志保は言っている。しかし、ショックも手伝って顔を思い出すことは出来なかった」

「それが大人になって思い出せた?」

「5~6年前から、麻霧が頻繁にテレビ出演するようになったからな。顔を見れば思い出すことも十分考えられる。何しろ衝撃的な記憶だから」

 杉山はひと呼吸置いてから更に続ける。

「志保は麻霧に近寄り、麻霧の致命的な情報をつかんで世間に公表し奴の政治生命を断ち切る。出来れば自分の両親を殺した証拠を見つけたい。それが志保の狙いだろう」

 杉山の言葉を聞いた幸一は、最後に志保と話した時に感じた彼女の覚悟みたいなものと、目尻に浮んだ涙を思い出して、背筋が凍るような冷たい衝撃を覚えた。そんな幸一を置いたまま杉山は話し続ける。

「麻霧のそばで情報を収集している頃、中島という男が麻霧を脅迫している事実を知る。たまたま、麻霧の指示で中島を監視することになった彼女は、中島の顔を見て全てを悟ったことだろう。過去に犯罪を犯した二人のうち一方は社会的地位を手に入れ、他方は犯罪で得た金さえ使い切ってしまった。その脅迫の材料は共犯の証拠に他ならない。志保は何とかその宝物を手に入れようとしていた……。と言うことだ」

 幸一の脳裏には、花背川の辺で瞳を潤ませながら秋の風景を記憶に留めていた志保の横顔や、彼女の部屋でご馳走になった時に、微かに瞳を曇らせていた悲しげな表情が浮んでいる。男と観光地を回ったり、バイクに乗せてもらったり、手料理を食べさせたのも初めてだと言った彼女の言葉が、志保の過去を知った幸一の胸に切なく蘇って来る。

「折角の飯が冷えてしまうぞ。さっさと食べろよ」

 色んな思いが渦巻いている幸一の心に、杉山が現実の空気を吹き込む。

「杉山さんの蕎麦も伸びてしまいますよ」

 幸一が無理に笑顔を浮かべた時、正午のニュースがテレビに流れた。そしてそのニュースは再び二人の箸と呼吸を止めてしまう。 

『15年前に起きた京都市新京極宝石店の強盗殺人事件に麻霧が関与していたと言う情報が、麻霧直筆の犯罪計画書とともに本日発刊の”週刊夕朝”に掲載され、政界を揺るがせている』と言った内容のニュースだ。

『麻霧は歯牙にも掛けない様子で事実無根を主張し、証拠の計画書を綿密に調査するように求めるコメントを発表している』

 二人は呆けた表情でテレビ画面をじっと見つめていたが、店にある、週刊誌や新聞の積まれた棚に慌てて近寄った幸一が”週刊夕朝”を持ってきた。

「志保さんは宝物を手に入れていたんですね。やっぱり興福寺の写真の裏にあったのかな」

 志保が目的を達成したことがとても嬉しかった。積年の恨みを晴らすことが出来たのだろう。もう、志保と会うことはないかも知れないが、これからは自分の人生を幸福に生きて欲しいと、そんな願いが幸一の心底から涌き上がってきた。

 杉山は幸一が持ってきた週刊誌を奪うようにして手に取り、緊張した面持ちでページを捲り始める。

「もっと志保さんと仲良くしておくべきでしたね。そうしたら、杉山さんの週刊誌で発表できたのに……。大スクープですよ」

 幸一が杉山をからかう。

「どの道、うちみたいな三流週刊誌に大事な公表を任せるはずがないさ。全国的に名の通った媒体でなければ世間は信じてくれない」

 忙しげにページを捲っていた杉山の手が止まり、じっと記事をにらんでいる。

「やっぱり悔しいでしょうね。長年、麻霧の犯罪を追っかけてきた杉山さんとしては」

 顔色が青ざめている杉山を労わる積りで言葉を掛けた。

「まずいぞ!」

 血の気が引いていた杉山の頬が急に紅潮して、指先が震え始める。

「どうかしましたか?」

 幸一には杉山の変化の理由がわからない。

「志保ははめられた!この計画書は偽物だ!」

 杉山の強張った表情に引きずられて、幸一にも緊張と不安の感情の波が伝わってきた。杉山は悔しそうな表情で記事をにらみ続け、幸一は虚空を見つめたまま、秋風に髪を流されていた志保の美しい表情を思い浮かべていた。

この時代、学生マンションはまだ稀で、多くのは学生ばかりを集めた学生アパートに住むのが一般的でした。共同トイレ、共同炊事場で風呂はなく銭湯へいきます。毎晩、アパートのどこかの部屋で飲み会があり、顔を出せば誰でも入れてくれます。外からも誰かの友人が頻繁にやってきて、いつの間にか友達が増えていきます。どの部屋も荷物とゴミであふれていました。

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