別離の香り
志保を尾行していた不審な男と出合った幸一は、謎めいた志保の衝撃的な事実を知らされる。
激しい鼓動を感じながら、幸一は素知らぬ風に男の前を通り過ぎようとした。こちらから声を掛けるにも理由がない。幸一がチラリと男の表情を見て視線を足元に落とした時、
「志保は昨夜遅くに出て行ったよ。君は志保とどういう関係?」
男の方から声を掛けてきた。驚いた幸一は、足を止めてもう一度男の顔を振り返り、まじまじと顔を見つめた。昨夜遅くに出て行ったという言葉が、この男への不信感を益々増大させた。志保は名古屋で友人と会っていたはずだ。
「あなたこそ誰ですか?他人の後をつけ回したりして」
いろんな疑いを込めた瞳で男のサングラスを見つめる。
「これは失礼した。私は週刊誌の記者で杉山と言います。 ある大物政治家の過去を調べています」
杉山と名乗った男はサングラスを外して名刺を差し出した。志保の言うように、三十半ばの渋みが香る顔つきをしている。名刺を確認すると、あまり聞いたことのない出版社の名前が記載されていた。本社は東京で京都支局の住所が書いてある。
「記者さんがどうして志保さんを追うのですか?」
シャツの胸ポケットに名刺をしまいながら尋ねる。
「何だ、知らなかったのか。志保はその大物政治家の愛人だよ」
杉山の言葉が耳に届いた瞬間、幸一は軽い目まいを覚えて呼吸も思考も停止した。そんな様子を見て取った杉山は、ダメ押しするかのような言葉を続ける。
「信じたくない気持はわかる。だが、若い娘がバーのバイト程度の収入で、こんな高級マンションに住める訳がないだろう」
空虚になった彼の胸の中で杉山の言葉が何度も反響する。この男の話を鵜呑みにはしないが、確かに、志保には不自然なところが多いのも事実だ。だが幸一が志保に抱いている印象と、愛人という言葉の響きとは余りにもかけ離れている。
「その大物政治家が急遽京都に戻って来た。京都滞在中は志保が陰の世話をする。だから急に居なくなった。君みたいに真面目そうな学生が、あんな強かな女と関わるとろくなことはないよ」
杉山が少し表情を和らげて言った。
「ご忠告ありがとうございます。でも、僕は自分で判断しますから」
鋭い瞳で杉山を見つめながらきっぱりと言い放つ。
「なるほど。じゃあ、お互いに情報交換といこう。君は志保の優しいところを教えてくれ、俺は恐ろしいところを教えるよ」
やや引き締まった表情に戻った杉山が提案した。
「情報交換と言っても、僕はまだ彼女に出会ったばかりで情報は少ないですよ」
「情報は量より質さ」
杉山は幸一に背中を向けて歩き始める。
「昨夜志保さんが出て行ったのは何時くらいですか?」
杉山の背中に問い掛けてみる。
「九時くらいかな」
幸一はどきりとした。もし、志保が杉山の言うとおりの愛人だとしたら、昨夜は京都のどこかのホテルから電話してきたことになる。
二人は近くの喫茶店に入った。志保と初めてお茶を飲んだ店だ。
「で、いつからのつき合いだ?」
席に着いた杉山は、幸一が座るのも待たずに質問を始める。
「記者さんて、せっかちなんですね」
椅子に座りながら茶化してみる。
「時間を持て余している学生とは違うよ。ブレンド二つ」
幸一に尋ねもせずに勝手に注文した杉山は、差出された水を一気に飲んだ。
「まだ数日ですよ。友人の馴染みのバーに行ったら志保さんがバーテンダをやっていて、電話番号を渡したら朝食に誘われて、その時にバーのマスターが殺されたことを教えてもらいました」
驚くほど早くコーヒーが出て来た。幸一はコーヒーの香りの向こうに志保が微笑んでいた風景を思い出して、今、突付けられている現実をまだ受容れられずにいる。
「中島が殺されたのは、恐らくその大物政治家の指示だろう」
ドラマの話しでも聞いているような現実に戸惑って、今のこの状況が別世界の出来事のように感じられる。
「その大物政治家というのは麻霧のことですか?」
慣れない別世界にいながらも、いろいろな謎を解明したいという幸一の欲望は失せない。そんな幸一の質問に、杉山の瞳が一瞬輝いた。
「ほう、最近の大学生にしては珍しい。政治家の名前を知っているのか。でも何でそう思う?」
「さっきあなたは『京都に戻って来た』と言ったからです。当然京都地盤の政治家。京都出身で大物と言えば麻霧が筆頭。しかも今は家族ごと東京に住んでいるとテレビで報道されていましたから、愛人を呼ぶには調度いい環境ですよね。で、何で麻霧が中島を殺さないとならないのですか?」
一気に話した幸一はコーヒーを口に運ぶ。杉山はひと呼吸置いてから話始める。
「麻霧と中島は昔からの腐れ縁だ。その昔二人で犯罪を犯した。麻霧はその犯罪で得た金で政界に出て成功。一方の中島は何度も店を開いては失敗してきた」
「どんな犯罪を犯したのですか?」
「そこまではまだ言えない」
杉山が少し微笑んで静かに答えた。
「店を何度も潰した話は聞きましたよ。飲む打つ買うの三拍子揃った典型的な人生の失敗例です。それで、 中島は昔の秘密をネタにして麻霧を脅しては金を巻上げていた訳ですか?」
ふと頭に浮んだストーリーを勝手に話している。店が潰れそうなのに家を買うとか言っていた中島の言葉とも辻褄が合いそうだ。
「良い推理だ」
「そんなの、ドラマで良くある話じゃないですか。でも僕にそんな話をしても良いんですか?」
幸一が軽く微笑んで確認する。
「良いさ。こんな話、どうせ誰も信じやしない。証拠も無いしな」
杉山が自嘲気味に答える。
「じゃあ、志保さんがあの店で働いていたのは偶然じゃないですね」
杉山が驚いたように彼の瞳を見つめている。
「そのとおり。中島を内偵していたのさ」
杉山は勝手に話を続けた。
「麻霧は中島の身辺情報を集めて、足がつかないように彼を殺す計画を練っている。特にこの半年くらいは、政界が揺れて次期総理候補に麻霧が有力視され始めたためか、動きが加速している」
杉山は、そこまで話し終えてじっと幸一を見つめた。幸一は杉山の話を聞きながら、志保がなぜ、自分のように何ら魅力のない学生を朝食に誘い、夕食に招いたりして接近してきたのか、その理由がわかってきたような気がする。
山内や中島の情報を与え、宝探しの手伝いをさせるのが目的ではないか。しかしなぜ自分なのか?自分は警察でも名探偵でもない。ただの学生だ。こんな自分に手伝いをさせたところで発見できる訳がない。
幸一は、そんなことを考えながら、
「そして、あわよくば、中島が隠している宝物を探し出そうとしていた」
と、脳裏で綴っていた言葉を口にしてみた。そして少し興奮した自分を抑えるように水を飲む。だが、心の奥底ではまだ葛藤が続いている。本当に志保が麻霧の命令で宝物を探そうとして自分を騙し、利用していたのか。
山内の身の危険を心配していた時の志保の表情や、志保と二人で過ごした空間で浮かべていた彼女の表情が、麻霧の命令を実行するための演技だったとはまだ信じられない。
「宝物?何だ、それは?」
杉山が少し身を乗り出す。
「志保さんが言っていました。恋人だった山内という男が隠し場所を知っているそうです。最も、今は失踪してますけど」
美女に利用された馬鹿な学生を客観的に見つめながら、幸一は別人のように状況分析を続ける。
「山内と中島の関係は?」
「店のオーナーとマネージャの関係は超えていたようです。ゲイではないですよ。二人とも女好きだったみたいですから。元々は競馬場で知り合った遊び仲間です」
「ワル同士がつるんで悪巧みするのはよくある話だ。それで宝物の実体は何だ?」
「さあ。それは志保さんも知りませんでした。でも、中島と麻霧があなたの言うような関係なら、何となく想像がつきますね」
幸一がじっと杉山の瞳を見つめる。
「脅しの材料か?」
「ええ。犯行現場で撮った記念写真とか」
杉山はふっと笑いを零してからコーヒーをすすって考えをまとめた。
「中島は、リスク分散のために麻霧脅しの材料を山内に預けていた。もし中島の身に何かが起きたとしても、山内が引き続き麻霧を脅し続けることが出来る。そしてそれは中島の身を守ることにもなる。自分の身に何かあれば山内が自動的に秘密を公表すると知らしめておけばいい」
「しかし、山内は中島が殺される前に失踪しています。しかも人生の勝負に出ると言い残して」
幸一が、春香から聞いた言葉を補足する。
「二人が身の危険を感じるような動きがあったのだろう。それで山内は先に失踪した。と、いうことは……」
杉山は、遠くを見つめるような瞳で正面にいる幸一を見つめる。
「考えられる理由は三つです。一つめは、安全装置の山内が同時に殺されないように身を隠した。二つめは、安全装置になるはずの山内が裏切って主犯の座に就いた。三つめは山内がビビッて逃げた」
幸一が可能性を並べてみた。
「人生の勝負に出ると言い残して失踪したのなら三つめはない。そして中島が死んでしまった今となっては一つめも意味がない」
杉山が結論を出した。
「山内が麻霧を脅しに掛かる可能性は濃厚ですね」
幸一も杉山を見つめている。
「山内が消される可能性も濃厚だがな」
杉山が静かに水を口に含んだ。
「志保さんが山内とつき合ったのも、彼が宝物を隠していることに気づいたからかも知れませんね」
思いつきの様に発した幸一の言葉は、杉山には受取られずに宙に溶けてしまった。だが幸一は、そう考えることで志保の山内に対する冷めた態度も納得出来るような気がする。そして何よりも、志保が山内とつき合っていた事実に愛が存在していなかったと考えることで、幾分か彼の気持ちが楽になった。
しかし、志保が麻霧の愛人であると言う、桁違いに重く暗い事実からはどうにも逃れようがない。だから、本音の部分ではまだこの事実を認めたくはない。杉山の勘違いであるか、志保の力ではどうしようもない事情があると思いたい。
「結局は、宝物の隠し場所も実体もわからずじまいてことか」
杉山は残念そうな表情で窓の外に視線を移した。
「隠し場所のヒントはありますよ」
幸一も外を眺める。
「ヒント?」
杉山の瞳が輝く。
「『ずばりてらの中。ちょっと洒落ているかな。例のものはこうふくの中にある。ちょっと洒落ているかな』」
「何だそれ?」
杉山の瞳はにわかに落胆する。
「山内が志保さんに残したヒントです。もし、自分の身に何か起きたら探してくれって言ったそうです。そして山内は失踪した」
「なるほど。山内は勝負に出た。今度は自分で麻霧を脅す気だ。だが、麻霧の怖さも知っている。もし、自分が殺されたら復讐してくれってことか?身勝手な奴だ」
「しかも哀れです。秘密を託した相手が敵の回し者だとは知らない」
幸一は、哀れという言葉を自分に向けても発していた。杉山は右手で頭を描いてから、
「だんだん話が繋がってきたな。それで三千院に行ったのか?あそこがこうふくの寺だったのか?」
と、再び身を乗り出してきた。
「いえ、あれは単に志保さんを誘う口実に使っただけです。あんなに広い寺のどこを探すんですか?」
にやりと微笑む。
「何だ、ただのデートか」
「怪しい男につけられたので、途中で帰りましたけどね。杉山さんは尾行が下手ですね」
杉山も笑い返してから最後のコーヒーをひとくち含んだ。
「で、今日は何の用事で来たんだ?昨夜の志保の外出と関係があるのか?」
新たな話題を切り出した杉山は、一分の嘘も許さないといった気迫を含めた視線で幸一を捉える。
「実は、宝物の隠し場所かも知れない所がわかったんです」
幸一の落ち着いた言葉とともに杉山の瞳が生き生きと輝いてきた。変化の早い男だ。
「どこだ?」
「自信はありませんが、志保さんが働いていたお店です」
なぜか杉山の表情が硬くなってゆく。そして落胆的な溜息を吐いた。
「お店のどこだ?」
カップを見つめたままだ。
「壁に掛かっていた写真の中に興福寺の写真がありました」
幸一にも杉山の不安が伝わり始めている。
「なるほど……『てら』と『こうふくか』それを昨夜志保に話したんだな?」
杉山の視線にさらされた幸一は、背筋から滲み出てくる不安な塊に怯え始めた。
「まさか……」
最悪のシナリオが頭に浮かんでしまう。
「とにかく店に行ってみよう」
杉山と幸一の不安は合致している。二人は少し呼吸を置いて頭の中を整理した。幸一は水をひとくち飲むと杉山を見据えて口調を改めた。
「その前にひとつだけ聞いても良いですか?」
杉山は黙って頷く。
「志保さんは、麻霧の過去をどこまで知っているのでしょう?すべてを知って麻霧に協力しているのか、それとも、事情は知らずに指示どおりに動いているだけなのでしょうか?」
杉山はしばらく幸一の瞳を見つめる。
「恐らく何も知らないだろう。麻霧が志保のことを信頼していたとしても、わざわざ自分の致命的な過去を明らかにするはずがない」
慎重に結論を出してから二人は席を立った。
幸一と杉山は木屋町三条を下った。志保の働いていたバーへ辿り着くまでもなく、二人は異常事態を覚悟した。店の付近は警察車両で溢れていて、物々しい雰囲気に包まれている。
「まずいな」
「嫌な予感が的中してしまいましたね」
足早に現場へ近づくが、テナントビルの入口は警察に閉鎖されていて中には入れない。
「ここで待っていろ」
杉山は刑事に知り合いがいるようで、幸一を置いたままさっさと閉鎖区域の中へ状況を探りにいった。幸一はしばらくの間手持ち無沙汰に周囲を歩き回る。野次馬がたくさん詰め掛けて、新聞記者らしい姿も散見される。
本当に志保は麻霧の愛人なのだ。今はこの思いだけが幸一を支配している。この店で何が起きたのかはまだわからない。しかし、昨夜宝物の仮説を志保に伝えた途端、店で何かが起きた。この事実は志保が麻霧と深い関係にあることを明白にした。
杉山が手帳をポケットにしまいながらビルから出てきた。
「どうでした?」
幸一の言葉にすぐには答えずに、杉山は幸一の腕を引いて河原町通りの方へ歩き始める。
「予感が当たっていた」
杉山はひと呼吸置いて話始める。
「何者かが店に侵入し、壁に掛かっている写真をすべて床にばら撒いていた。後、事務所のロッカーやキャビネットなども荒らした跡がある。ドアが開けっ放しになっていて隣の店の人が通報したようだ。警察は空き巣だと判断している。」
「問題は、本当に写真の裏に宝物を隠してあったかどうかですね」
自分の心のやり場は別にして、幸一は現状分析に集中しようとする。
「他の写真にも手を出したのは興福寺の写真の裏に宝物がなかったからでしょうか?それとも空き巣に見せ掛けるためのカモフラージュなのでしょうか?」
幸一は杉山の瞳を見つめて疑問を口にした。
「俺の見た感じでは、事務所も真剣に探したような印象だ。カモフラージュのために荒らした様子とは違うような。勿論、印象だけの話だがな」
二人は河原町通りに出てきた。
「もう、打ち手はありませんね」
落胆した口調で杉山に意見を求める。
「仕方ない。しばらく様子見だ。もしも志保から連絡があったら必ず教えてくれ、いいな。俺も麻霧の動きをつかんだら君に連絡する」
そう言った後杉山はタクシーを拾おうとしている。
「もう良いですよ。志保さんが麻霧の愛人であろうと、麻霧が犯罪者であろうとなかろうと。僕には関係ない」
幸一が力なく言葉を零した。
「出たな『僕には関係ない』が……。世界で何が起きようと僕には関係ない。隣で他人が苦しんでいようと僕には関係ない。自分さえ良ければそれで良い。子供が逃げ回る時の口癖だ。いいか、志保に惚れたのなら信じてやれよ。世界中の何よりも大切な幸一様が傷つくのか?傷つくことがそんなに恐いのか?」
杉山はにこりと笑って幸一の肩を軽く叩くとタクシーに乗り込んだ。
「うるせえ」
去ってゆくタクシーに向かって小声で吐き捨てた。
観光シーズンの秋とは言え、平日の昼過ぎは静かに落ち着いた時間が流れている。京都駅地下街に飲食店の並ぶ通りがあるが、ビジネスマンの昼食も終わり、どの店もひと段落した雰囲気に包まれている。
そんな雰囲気に満ちたあるカフェで幸一はコーヒーを飲んでいる。普段でも落ち着いた感じの、やや高級そうなカフェだ。他の店と同様に客は少ない。
壁には大きな絵画が何枚も飾ってあり、骨董品も並んでいる。席もゆったりとしていて、隣のテーブルとの間隔も十分あるので隣の話し声もほとんど聞こえない。
幸一が指定した時間を二十分ほど過ぎている。やはり志保は来ないのか。幸一はそんな風に諦め始めた。コーヒーカップの底が見えている。
幸一は杉山に投げつけられた言葉が悔しかった。それは彼の言うことが図星だったからだ。志保に利用されただけの自分の姿を目の当たりにすることが怖かった。楽しかった志保とのほんの僅かな思い出までも、彼女の計算だったと知ることが怖かった。傷つくのが怖くて、自分の周囲で起きている事態から逃げようとしていた。
幸一は、志保を呼び出して事実を確認しようと考えた。もしかしたら、こっそり部屋に戻っているかも知れないし、留守番電話を外から確認しているかも知れない。そう考えて、何度も電話して留守番電話にメッセージを残しておいた。しかし一切音沙汰は無かった。
志保は必ず留守録を聞いていると彼は確信している。それは単なる希望かも知れないが、麻霧を含めて、連絡を取り合う必要がある以上は電話を利用するはずだ。そう考えた幸一は、志保を誘き出す方法を考えてみた。そして自分の名前は出さずに山内だと名乗って留守番電話に録音した。しかも一方的に待合わせの場所と時間を指定した。受話器にハンカチを当てて、声を判別し辛くしておいた。
幸一が指定した時間を30分過ぎた。期待はするが、冷静に考えてみると、例え志保がメッセージを聞いたとしても、彼女が来る蓋然性は低いと考えるのが常識的だ。コーヒーも飲み干したので、そろそろ希望的な期待は捨てて現実を受入れるしかないと諦めかけた。
と、その時店の自動ドアが開いて、明るいグレーのスーツジャケットを着た志保がヒールの音をコツコツ響かせて幸一に近づいて来る。短めのタイトスカートから伸びている脚はやはり美しい。ほんの4、5日ぶりであるのに随分会っていないように感じる。と言うよりは、今までの志保とは全く違う印象で、冷たく厳しい雰囲気が全身からにじみ出ている。久しぶりと言うよりは初めましてと言った感覚だ。
「嘘はだめよ」
志保は席に着くなり冷たい声を放って幸一の瞳を見つめる。志保らしくない無味乾燥な表情だ。
「ここのコーヒーは余り美味しくないですよ」
ウェイターが来る前に幸一が囁く。
「レモンティをください」
声までも冷たく乾いている。
「かしこまりました。お客様、お代わりはいかがですか?」
ウェイターが幸一に尋ねる。
「頂きます」
目元に優しい笑みを一瞬浮かべた志保だが、すぐに血色の悪い無表情に戻ってしまった。
「嘘でも吐かないとあなたは来てくれないから。いくら留守電を入れても電話すらくれなかったから」
幸一は静かな声で反論する。
「これで満足?」
今までに聞いたこともない冷たい語気。
「来て頂いたことには感謝します」
幸一も冷静過ぎるほどの抑揚のない口調で話している。志保はジャケットを脱いで隣の椅子に置いた。この席は四人用の席だ。
「もしかして、私が騙されてきたと思っている?」
志保にこんな表情をして欲しくないと思うほど、彼女は事務的で猜疑的な表情を浮かべている。
「いいえ。でも現に来ている。山内さんが本当に来ていると思ったか、それとも、僕が山内さんから何らかの情報を得たのかも知れないと疑いを持ったからやって来た。いや、期待かも知れない」
幸一の言葉が志保に届いた頃に、レモンティとコーヒーのお代わりが運ばれてきた。
「そんな疑いも期待もないわ」
志保が強い口調で言い切る。
「自信満々ですね」
茶化し気味に笑いを零してコーヒーを口に運んだ。
「美味しくないんでしょ?」
棘のある言葉を吐く彼女の瞳はなぜか優しく見える。
「人生、妥協が必要ですよ」
幸一は微かに笑みを浮かべるが、志保はまた冷たい瞳に戻っていった。
「自信はあるわよ」
スプーンでレモンを突くしなやかな仕草に幸一の視線と意識は釘つけになってしまう。だが、ほのかに漂って来るレモンの香りに意識を戻した彼は、志保が虚勢を張っているようにも思えた。
「その自信はどこから来るのですか?」
挑戦的な口調で尋ねてみる。
「だって、山内さんは死んだもの。新聞くらい読みなさい」
幸一は息を飲んで、そのまま呼吸をすることさえ忘れかけたが、
「始末されたんですね?中島さんみたいに……」
と、大きくひと息吸ってから問い掛けた。瞬間、志保のまぶたがピクリと反応した。
「事故よ。酔ってバイクを運転して、神戸の某埠頭から海に落ちて溺死したそうよ。幸一さんも飲酒運転は絶対に駄目よ」
厳しい口調で訓じた彼女の語気には、飲酒運転を注意している以上の気迫がみなぎっている。
「事故ですか……。僕は飲酒運転なんてしませんけど、酔払ってわざわざ埠頭まで行ったりもしませんよ」
幸一はコーヒーを飲みかけて止めた。そして頬杖を突くと、
「そう言えば、先日約束した日にはどこへ行ってたんですか?昼過ぎにマンションまで行ったんですよ」
と、柔和な表情を作ってみた。
「急用が出来たの」
今度は反対のまぶたが反応したように感じる。
「嘘を吐いて呼び出したことは謝ります。でも約束を破るのも良くないと思います」
「ごめんなさい」
志保は素直な声色で謝ると、目を伏せてカップを見つめた。
「ひとりで探したんですか?興福寺の写真の裏に宝物はありましたか?」
あまり気の進まない質問をしてみた。彼女にそんなことをして欲しくない。
「さあ、私は知らない。そんな空き巣みたいな真似はしない」
幸一を安堵させる暖かな血流が全身に流れた。
「じゃあ、麻霧に密告して、誰かに店を調べさせたのですね?」
志保の全身が凍りついたように見える。そしてその動揺を悟られまいと、スプーンで褐色の香をかき混ぜる様子がもの悲しい。
「あなたは本当に麻霧の愛人なのですか?」
心を鬼にした幸一は、動揺している志保に畳み掛けるように言葉を吐いて、彼女の本心を見通すほどの鋭い視線で彼女を見据えた。志保は、カップを見つめたまま小さな吐息を吐いてから冷たく澄んだ声で答える。
「誰に聞いたのか知らないけど、そんな噂を軽々と信じるものじゃないわよ。それに、私が誰とつき合おうとあなたには関係ないでしょう」
氷のような表情でカップを見つめている志保は微動だにしない。
幸一は、志保にきっぱりと否定して欲しかった。笑い飛ばして欲しかった。杉山と話している時は、志保が麻霧の愛人である可能性もあると考えていたが、今、こうやって清純な志保を目の当たりにしていると、やはり愛人であることは信じられなくなってきた。
「僕はあなたを信じます」
幸一自身も意図しない言葉が勝手に出てしまった。ふっと彼に瞳を向けた志保は、
「私の何を信じるの?」
と、彼女には珍しい冷笑を浮かべて幸一をにらみつけた。
「あなたは好き好んで麻霧の愛人になっているんじゃない。好きで言いなりになっているんじゃない。仕方なくやっている」
本当は、愛人なんかじゃないと叫びたかったが、いろんな客観的事実がこんな妥協案を導いている。
「何か弱みでも握られているんですか?」
幸一は身を乗り出して熱く迫る。自分勝手な理由を探し出して彼女の反応を待っている。存外、有り得る話のようにも思える。だが、志保は嘲笑に近い笑みで頬を歪めているだけで、何も反応しない。
「あなたは僕を利用しただけですか?」
無反応は志保に反発するかのように、二人の間で最も危険な言葉を吐いてしまった。今までの志保の優しさは何だったのか?手作り料理を作ってくれたのはなぜか?すべて宝物を探しだすために幸一を利用しただけなのか?
志保の返答次第では、杉山の言うところの『幸一様』がズタズタに破壊されてしまう。今日は覚悟をしてきた積りだが、やはり彼女の答えが恐い。
「あなたみたいな学生に利用価値があると思っているの?」
頭から冷水を浴びせられたような衝撃が全身を駆け抜ける。利用しただけだと言われた方が幸せだったかも知れない。利用する価値すらない男……。だが、確かにそうだとすぐさま納得した。今の自分には何の力もない。麻霧などと言う大物政治家と比較されても話しにならない。しかし、そんな幸一にも一分の誇りがある。
「大臣は利用価値があるのですか?」
幸一の誇りを掛けた言葉に、志保はちらりと彼の瞳を盗み見たが、反発することもなく肩を小さくして俯いた。
「いったい、あなたは何をしようとしているのですか?単なるお金儲けのために愛人なんかやる人じゃない。今あなたがいる世界がどんなに危険な世界なのか十分わかっているでしょう!」
一度魂に火がついてしまった幸一は、鼻息荒く思いをぶちまける。
「僕は利用される価値もない男で構わない。ほんの暇つぶしに遊ばれただけの男で構わない。でも、僕はあなたのことが心配なんです。お願いですから、こんな危険な場所から逃げ出してください!」
マニキュアに飾られた指先を見つめたままじっと幸一の話を聞いていた志保は、しばらくの沈黙を保った後、大きく息を吸ってからゆっくりと吐き出した。
「秋の香りが胸にしみたわね。風がとても気持ち良かった。私ね、バイクに乗せてもらったの初めてだったの。あんな風に男の子と観光地を歩いたり、散歩したり、手料理をご馳走したのも初めて。とても楽しかった。もう秋も終わりだけれど……」
そう言って幸一を見上げた志保は、いつもの優しくて美しい表情に戻っていた。しばらくの間二人は無言で見つめ合った。そして二人の視線は、花背川の清流と秋風に揺れる草花の影を追った後、再び冷厳な現実の世界へと舞い戻ってきた。
やがて、何かを決意したように志保の表情が再び硬く締まって凛とした声を放った。
「あなたは、私に振られたのに諦め切れない未練たらしい男。何度私に連絡しても相手にされないから、失踪した彼氏の名前を使って呼び出した愚かな男。でも最後に会えたから諦めもついて、もう二度と連絡は取らない。良いわね!誰に尋ねられてもそう答えるのよ!」
再び幸一の見知らぬ志保となり、先ほどの飲酒運転の注意以上の気迫でもって幸一の魂に迫ってきた。
「わかりました。だからお願いです、ひとつだけ答えてください!」
幸一も全身全霊でもって志保の魂に迫った。
「僕はあなたを信じて良いのですね?」
志保は幸一の瞳をじっと見つめた後、ゆっくりと静かに瞬きをした。長い睫に覆われた左のまぶたが、右目よりも遅れて開いてきて、いつもの志保の澄んだ瞳が現れた。
「じゃあ、さようなら」
すらりと立上った彼女は幸一の瞳ををちらりと覗いてから、彼の横をゆっくりと通り過ぎていった。
「さようなら」
幸一が志保の背中に声を掛けた刹那、彼女が目尻を手で拭ったように見えた。そして、志保が通り過ぎた後には金木犀の香りが漂っていた。
年上の女性の「謎」は神秘で淫靡な感じ。あくまでも個人の感想です。